暁方ミセイ『魔法の丘』(2)(思潮社、2017年10月25日発行)
詩集には、色(光)と音がたくさん出てくる。色も音も「空気」のなかに存在する。暁方は「空気」を描いている。暁方をつつむ「見えないもの」と向き合ってことばを動かしている。
ここには「透明」のかわりに「ひっぱられている」がつかわれている。ひっぱられて、のびる、ではなく、ひっぱられて緊張する。その緊張感が「透明」なのだ。
光はもともと「透明」だろう。透明な光が分光されて色になる。そのとき暁方は「音」を聴く。しかも「金属音」だ。硬質。これがいっそう透明感を強くする。
こうした「空気」の運動を暁方は「頭」でとらえると同時に「感情」でもつかみ取ろうとする。「頭」と「感情」が交錯する。その「場」が「血液(肉体)」ということになるだろうか。
「頭」で世界を正確にとらえる。その正確さが「透明」ということになるが、それを突き破って、さらに「透明」を結晶化させるのが「感情」ということになるのだろうか。
こういう行を読むと、「脳(頭)」と「感覚(感情/生理/肉体)」がいつでも「関係」を作り替えながら動いていることがわかる。「頭」は「関係」をゆるぎないものにする。しかし、その「関係」を閉じてしまうのではなく、内部から「透明」にする何か、強い感情がつきやぶる。
こういう「色」は、感情(感覚)が「頭」を突き破ってあふれたときの「破片」のようなものかもしれない。感覚の煌めく破片。
「関係」はときに「重たい」。重たくのしかかる。関係を内部から突き破る感情、感覚がいつでも世界をかえていくわけではない、ということか。しかし、そういうときは「体」そのものにもういちどかえる。どういうときにも「体」があるそういう強い力、存在する力がある。
色(視覚)、音(聴覚)の交錯するのが、暁方の「肉体の外」の世界。「肉体の内」には匂い(嗅覚)が動く。(内部の存在として、血潮も出てきたが。)
こうした変化、統一しなおす感じを「反転」というのかもしれない。「蒙昧の緑」に「反転」ということばが出てくる。
何と呼ぶのがいいのかわからないが、こうこういう交錯し、動き、自分をととのえる「肉体」というのは、読んでいて安心する。
ということばもある。「反転」は「漂い続ける」という形で言いなおされ、それはさらに、
「停滞しない」ということばにもなっている。どんなふうに動こうとも「停滞しない」。
そういうことばが、強い緊張感で一気に動いているのが「空獣遊山」。
暁方の詩によく出てくる(と思う、統計をとったわけではないが)青、透明で、冷たくて、結晶しているような青がここに出てくる。(「水色/この遠さを水椅子という」というバージョンが「春風と瞼」に出てくる。)
宮沢賢治に通じる「金属(元素)」と心理(信号/暗示/予感)の交錯。そういう「抽象の美しさ」の一方で、
「生き物」と「まなざし」の感覚がある。
生きているとき、自分だけではなく、このいのちにつながる「生き物(死んだ生き物)」というものを感じる。それは「共感」なのかもしれない。
一方に偏ってしまわない。流動しながら、透明感が拡大していく運動を暁方のことばに感じる。
詩集には、色(光)と音がたくさん出てくる。色も音も「空気」のなかに存在する。暁方は「空気」を描いている。暁方をつつむ「見えないもの」と向き合ってことばを動かしている。
左右にひっぱられている青空や
肉みたいに桃色が盛り上がっている
幼いころの丘陵地帯 (生態系)
ここには「透明」のかわりに「ひっぱられている」がつかわれている。ひっぱられて、のびる、ではなく、ひっぱられて緊張する。その緊張感が「透明」なのだ。
明るい晴れ間では
幾人もの煌めく長棒を手にした技師たちが
光を透明に通過しながら動いている
その金属音がここに届く (耳煩光波)
光はもともと「透明」だろう。透明な光が分光されて色になる。そのとき暁方は「音」を聴く。しかも「金属音」だ。硬質。これがいっそう透明感を強くする。
頭の中のことなどはすっかり忘れてしまって
かわりに感情の
一番純粋に澄み切った音のようなものが
血液の中から押し寄せ (地点と肉体)
こうした「空気」の運動を暁方は「頭」でとらえると同時に「感情」でもつかみ取ろうとする。「頭」と「感情」が交錯する。その「場」が「血液(肉体)」ということになるだろうか。
「頭」で世界を正確にとらえる。その正確さが「透明」ということになるが、それを突き破って、さらに「透明」を結晶化させるのが「感情」ということになるのだろうか。
硬く無関係の光で転がる (正午までの希望)
脳での新しい
風が通る感覚のためだ (正午までの希望)
こういう行を読むと、「脳(頭)」と「感覚(感情/生理/肉体)」がいつでも「関係」を作り替えながら動いていることがわかる。「頭」は「関係」をゆるぎないものにする。しかし、その「関係」を閉じてしまうのではなく、内部から「透明」にする何か、強い感情がつきやぶる。
紫が知らせる秋の匂い (ホームタウンの草の匂い)
虹色のひんやりした風を流し (ホームタウンの草の匂い)
こういう「色」は、感情(感覚)が「頭」を突き破ってあふれたときの「破片」のようなものかもしれない。感覚の煌めく破片。
空気圧の重たい地面で
千年や二千年かわらない体を
またもらって
草の匂いを懐かしく吸い込む (ホームタウンの草の匂い)
「関係」はときに「重たい」。重たくのしかかる。関係を内部から突き破る感情、感覚がいつでも世界をかえていくわけではない、ということか。しかし、そういうときは「体」そのものにもういちどかえる。どういうときにも「体」があるそういう強い力、存在する力がある。
色(視覚)、音(聴覚)の交錯するのが、暁方の「肉体の外」の世界。「肉体の内」には匂い(嗅覚)が動く。(内部の存在として、血潮も出てきたが。)
こうした変化、統一しなおす感じを「反転」というのかもしれない。「蒙昧の緑」に「反転」ということばが出てくる。
少し薄緑の気色がしたら
清涼さの現れごと
全部一気に飲んでしまって、反転だ (蒙昧の緑)
何と呼ぶのがいいのかわからないが、こうこういう交錯し、動き、自分をととのえる「肉体」というのは、読んでいて安心する。
あそこにだけ
血潮をすうっと冷やす元素が
いまもなお漂い続けているから (吉祥)
ということばもある。「反転」は「漂い続ける」という形で言いなおされ、それはさらに、
同じところに停滞しない (ワールドドーム)
「停滞しない」ということばにもなっている。どんなふうに動こうとも「停滞しない」。
そういうことばが、強い緊張感で一気に動いているのが「空獣遊山」。
金属や生物の肌をひときわうつくしくしたあとで
全部冷やして青く終わらせてしまうんだな
みんなどこかへいってしまう予感
それと交錯するわたしの消失
ひとつひとつの細胞や
元素の切れ目のその感触
すばやく心理に信号を送り
いま何をなす頃か知らせる何か
無色で触れられもしない鹿狩や収穫に
凄まじく焦り
暁方の詩によく出てくる(と思う、統計をとったわけではないが)青、透明で、冷たくて、結晶しているような青がここに出てくる。(「水色/この遠さを水椅子という」というバージョンが「春風と瞼」に出てくる。)
宮沢賢治に通じる「金属(元素)」と心理(信号/暗示/予感)の交錯。そういう「抽象の美しさ」の一方で、
実感の風景の
奥のほう
本当の現実が隠されていて
そこから死んだたくさんの生き物が
じっと並んで同じまなざしで
昼でも夜でもこちらを見ていることに
ずっと前から人間は気づいていたけれど
「生き物」と「まなざし」の感覚がある。
生きているとき、自分だけではなく、このいのちにつながる「生き物(死んだ生き物)」というものを感じる。それは「共感」なのかもしれない。
一方に偏ってしまわない。流動しながら、透明感が拡大していく運動を暁方のことばに感じる。
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