詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』

2017-11-20 10:09:31 | 詩集
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』( Editions Hechima 、2017年11月11日発行)

 山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』には複数の種類の詩がある。「遠州シリーズ」というのだろうか、幼年期の記憶を書いたものがおもしろい。

暑くもなく寒くもなく、虫の音もとだえ、宇宙と遠州の家が一体化するとき、祖母や祖父が土のなかかからよみがえり、私が山下家の一族のひとりであることを教える。どうしてそういうことになったのか、もはや誰も、従姉の恩師の女教師も教えてくれないのであった。その恩師は、従姉が連れていってくれた彼女の家の縁側で、木のパレットの固まった絵の具をナイフでそぎ落しながら、街の高校へ行った従姉に、学校の科目のなかでは何がすき? と聞くと、従姉は、「かんぶん」と答えるのであったが、その「ん」の音が、私には「m」として耳に残り、はたしてそれがなんなのかわからないのであったが、教師は、「そう、あたらしい科目だからね」となかば満足げに答えるのであった。私たちは山につつまれ、じゅうぶんな幸福を感じていた。従姉同士に生まれたことがなにか宝のように感じていた。ちーこ。もうその女はどこを探してもいないのであった。私は夢の門の前で、夢の掟の厳しさにうなだれて、お願いですからちーこにあわせてくださいと、えんまさまなのかまりあさまなのかべんてんさまなのか、実際のところ誰かわからない人にお願いするのであった。

 「宇宙と遠州の家が一体化するとき」という断言がおもしろいが、この文のキーワードはなんだろうか。「宇宙」か。子どもにとっては、それがどこであろうと、身の回りが「世界」の全部である。「世界」と言わずに「宇宙」と言うとき、そこには「批評」が入り込む。体験している「場/時間」を開いていくことばの運動がある、ということだ。
 「批評」とは「いま/ここ」を、そのまま受け入れるのではなく(肯定するのではなく)、それを違ったものにしようとする「視点」のことである。
 そして、その運動(批評のベクトル)を、山下は「一体化」ということばで再定義している。「遠州」という土地、そこでの体験を、ことばの力で切り開き(宇宙化し)、再統一する。これが山下が書いていることである。
 この詩では、従姉(ちーこ)と女教師が出てくる。もちろん「私(山下)」も出てくる。教師が「学校の科目のなかでは何がすき?」と聞き、ちーこが「かんぶん」と答える。私にはその科目がわからない。小学生(?)だから知らないのだ。でも「音」はわかる。そして、そこに「m」を聞き取る。これは「漢文」を「かんぶん」とさえ聞き取っていないというか、「音」そのもの、意味以前のものとして受け取っているということなのだが、このあからさまな「批評」が非常に強い。
 私たちは知識で「世界」をととのえるが、つまり「かんぶん」と聞けば「漢文」という具合に「世界」を理解するが、山下はそういう「ととのえ」がおわる前の世界をそのまま提示し、読者に対して、そういう経験をきちんとしてきたかと問うのである。
 「漢文」はたしかに「かんぶん」というよりは「かむぶん」である。ば行の前では「ん」は「む」に近い。「肉体」を山下はきちんと再現している。
 そしてこの「肉体」の感覚は、教師の「満足げ」をも批判する。「満足」は「意味」のなかで成立している。動いている。「あたらしい科目」という「意味」を取っ払ってしまえば、そこには何もない。「すき」と人がいうとき動いているのは、ととのえられた「意味」ではない。
 ととのえられないごちゃごちゃ、未整理の世界がそのまま動いている。それが現実であり、それをことばにするのが詩であるという山下の「定義」で、ことばがつらぬかれている。「えんまさまなのかまりあさまなのかべんてんさまなのか」「わからない」ということばが象徴的である。「えんまさま」「まりあさま」「べんてんさま」なんて、存在しない。「まりあさま」が「存在しない」というと反論があるかもしれないが、「遠州」にいる子どもはそれを見たことがない。「えんまさま」「べんてんさま」も同じ。そんなものは「ことば」にすぎない。しかも実際に触れる世界とは「無縁」のものである。そういうものは「わからない」と明確に言う。ここにも強い「批評」が隠れている。「お願いする」という人間の「本能」のようなものは、子どもにもわかる。「わからないもの」と「わかるもの」がぶつかりあうとき、ひとはどこへ動くのか。そう問いかける「批評」である。

 ここから、少し脱線する。いや、本質に入る。
 山下の「批評」のキーワードは何か。私は「宇宙」「一体化」ということばを手がかりに感想を書いてきたが、これは、まあ、方便のようなものである。ことばを展開するための補助線にすぎない。
 「わかる」と「わからない」のぶつかりあい。そして、その衝突のなかから何を選び、どう動いていくか。この「基本的」な人間のいのちのあり方を、山下は独特の「文体」で書いている。そこにこそ、「思想(肉体)」がある。

従姉の恩師の女教師も教えてくれないのであった。
従姉は、「かんぶん」と答えるのであった
はたしてそれがなんなのかわからないのであった
なかば満足げに答えるのであった。

 これらの文は「現在形」+「過去形(であった)」という形で書かれている。
 「教えてくれなかった」「答えた」「わからなかった」「答えた」と言いなおしても「意味」はかわらない。過去に起きたできごとである。しかし、山下は「過去」をいったん「教えてくれない」「答える」「わからない」と「現在形」で書く。
 これは「時間」には「過去」がないという「哲学」にもとづく。「いま」しかない。どんなに遠い過去のことでも、それを思うとき(肉体がその方向に向き合うとき)、それは一秒前よりももっと「肉体的」には「近く」にある。「過去」が「いま」に噴出してくる。それを確認した上で、山下は「であった」と「過去」へつきはなす。「過去」という時間をととのえてみせる。しかし、これは「方便」。山下が向き合うのは「いま」という時間である。「過去」を「いま」と読み直すとき、当然、そこには「批評」が入り込む。「批評」とは「異質」なのもの噴出のことだからである。
 「時間」には「過去」がない。これを端的にしめすことばもある。

その女はどこを探してもいないのであった。

 これは「であった」と「過去形」をつかいながら「いま」をあらわしている。「どこを探してもいない」以外の意味にはならない。
 人間は「いま」しか生きられない。どんなに「過去」を書いてみても、それは「いま」。「であった」と過去形にするのは、単なる「方便」である。
 そして、「過去」がそうであるなら、「批評」が切り開く「未来」もまた「いま」である。
 この「時間」の運動を「空間」に広げていけば、「遠州」という小さな「場」は「宇宙」になる。「宇宙と遠州の家が一体化する」は「妄想」ではなく「事実」なのである。
 その一方、山下は、

誰かわからない人にお願いするのであった。

 と書く。「お願い」の「内容」は「お願いですからちーこにあわせてください」なのだから、これは「過去」ではなく「いま」の行為である。しかし、それを「お願いする」と「現在形」で書かず「であった」と「過去形」にしてしまう。これは一種の「客観化」であり、「客観化」することで「批評」を強くする。「お願いする」では「批評」ではなく「感傷/抒情」になってしまう。
 「抒情を拒否した批評」という視点から、山下の詩を読まないといけない。

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エイプリル・マレン監督「アンダー・ハー・マウス」(★)

2017-11-20 08:30:21 | 映画
エイプリル・マレン監督「アンダー・ハー・マウス」(★)

監督 エイプリル・マレン 出演 エリカ・リンダー、ナタリー・クリル

 予告編で見たエリカ・リンダーがかっこよくて、ついつい見に行ったのだが。
 うーん、最初から最後までレズビアンシーンの連続。湯船につかりながら、蛇口からお湯を流し続けるオナニーのように見たこともないシーン(これはレズビアンとは関係ないか)がつぎつぎに展開されるので、それはそれで「見応え」のようなものもあるのだけれど、セックスはどうがんばってみてもセックス。人に見せるものじゃないから、どうしても「覗き見」したという感じが残ってしまう。
 女性がクリトリスをなめられてエクスタシーを味わうというシーンでは、私はどうしてもハル・アシュビー監督「帰郷」(ジェーン・フォンダ、ジョン・ボイト主演)を思い出す。ジョン・ボイトはベトナム戦争で負傷して不能になっている。でもジェーン・フォンダとセックスがしたい。互いに求めあう。それでジョン・ボイトがジェーン・フォンダのクリトリスをなめる。このときのジェーン・フォンダの裸体の動きがとても美しい。映画のなかでジョン・ボイトが「なんて美しい」と声を洩らすが、その声にあわせて「なんて美しい」と言ってしまう。それくらいに美しい。官能の絶頂が女性を美しく見せる、その典型のようなシーン。そのシーンの演技でアカデミー賞を受賞したわけではないだろうが、あのシーンは絶品だなあ。「覗き見」したという感じではなく、「そうか、愛している、という気持ちが動くと官能は輝くのか」と、「発見」した感じになった。ほんとうに感動してしまった。
 あ、脱線してしまったか。
 脱線するのは、つまり、脱線させるような映画であるということ。
 アブデラティフ・ケシシュ監督「アデル、ブルーは熱い色」(アデル・エグザルコプロス、レア・セドゥー)で、すでに十分にレズビアンシーンを見てしまっているからなあ、というようなことも思った。
 で、「アデル、ブルーは熱い色」はレズビアンシーンだけではなく、主役の二人がちらりと相手を見て、その瞬間にひきつけられてしまうシーンの、二人の演技(顔、目つき)がとても印象的だった。特に、レア・セドゥーの目つきが強くて(前歯が隙ッ歯になっている)、こういう目で見られたら誰だってこころを動かされるなあと思う。セックスよりも、セックスがはじまるまでが映画なんだなあと思う。
 「アンダー・ハー・マウス」も、まあ、そうなんだけれど。エリカ・リンダーがナタリー・クリルを見つけて、ぐいぐい迫っていくときの目つきの強さは非常に色っぽい。(予告編でも、同じ。)さすがモデルだけあって、服の着こなしも、線が鋭い。輪郭がくっきり見える。とてもかっこいい。服が歩いているし、いっしょに肉体が歩いている。
 だけれど、互いが「過去」を打ち明けあったり、セックスしているところを婚約者に見られて、関係が揺らぐというのは、なんだか「ストーリー(意味)」になってしまっていて、つまらない。「ストーリー」になってしまうと、セックスシーンが単なる「見せ物」になる。
 予告編だけ見て、エリカ・リンダーはなんとかっこいい女だろうと思っているのがいいかもしれない。
                      (2017年11月19日、KBCシネマ1)




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