詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マーサ・ナカムラ『狸の匣』

2017-11-11 08:11:02 | 詩集
マーサ・ナカムラ『狸の匣』(思潮社、2017年10月31日発行)

 マーサ・ナカムラの詩を読んだのは「現代詩手帖」の投稿欄が最初である。投稿作品のなかでは「許須野鯉之餌遣り」(2016年04月号)がとてもおもしろかった。この一作で「現代詩手帖賞」という感じ。感想は、2016年04月06日の日記に書いた。(http://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/b247679d8aa4a52cc268925ced8fa83c )「丑年」(「現代詩手帖」2015年07月号)もおもしろかった。「石橋」についても、感想を書いたかもしれない。
 で、きょうは違う作品の感想を書こうとしたのだが。これが、なかなかむずかしい。長い作品が多く、読んでいて「波長」があわない。もしかすると、私がおもしろいと感じているところと、マーサ・ナカムラが書きたいと思っていることが、完全に違うのかもしれない。
 
 まあ、詩とは、そういうものかもしれない。
 だから、私は「誤読」というのである。

 「おふとん」について書いてみたい。朝、目覚めたときのことを書いている。

隣に父がいない。無造作に置かれた青い枕に手を伸ばすと、薄地のパジャマが
布団の冷たさを通して、火照った喉を潤す。掛け布団が、ふうん、と、生臭い
ため息をついた。
眠ると、体から、臭い汁が出る。父と自分の体は、室温に置かれて、同じ臭い
になる。そこら中から、父の、眠った香りがする。
(お父さんには、樟脳の香りが似合うのに)

 この部分が、とても気に入った。特に「掛け布団が、ふうん、と、生臭いため息をついた。」が魅力的だ。「掛け布団」は人間ではないから「ため息」などつかない。だから、これは「比喩」なのだが、この「比喩」には「肉体」がある。
 で、このとき。
 つまり、「比喩」というものを考えるとき、私は、かなり混乱するのである。ここから「誤読」が始まるのである。

掛け布団が、ふうん、と、生臭いため息をついた。

 というとき、「比喩」は、なんだろうか。「ため息をつく」が「比喩」なのだろうか。そういう「あらわれ方」が「比喩」なのか。
 あるいは「生臭いため息」の「生臭い」が「比喩」かもしれない。「ふうん」が「比喩」かもしれない。
 何の?
 まあ、人間なのだろう。
 あれっ、そう?
 わからない。
 「比喩」をとおることで、「掛け布団」が「人間」になっている。そうであるなら、「掛け布団」が「人間」の「比喩」ということになる。
 言いなおすと、「掛け布団」を「人間」の「動き」を借りて「比喩」化すると、「比喩」をくぐり抜けた瞬間、「掛け布団」と「人間」が入れ替わり、「掛け布団」が「人間」の「比喩」になる。
 「掛け布団が、ふうん、と、生臭いため息をついた。」ということばを読んでいるとき、私は「掛け布団」ではなく、「人間」を思い浮かべている。言い換えると、

人間が、ふうん、と、生臭いため息をついた。

 と、私は知らず知らずのうちに読んでしまっている。「誤読」している。
 でも、「人間が、ふうん、と、生臭いため息をついた。」だと、詩ではないんだなあ。「主語」が「掛け布団」だから詩なんだなあ。
 「掛け布団」を人間のように感じながら、人間であってはおもしろくない。
 でも。(また、でも、なんだけれど。)
 こんなふうに、「掛け布団」なのか、「人間」なのか、そのどちらかであるという具合に、固定化するとつまらなくなるのかもしれない。
 「人間である」ではなく「人間になる」なら、「掛け布団である」ではなく「掛け布団になる」なら、どうなんだろう。
 「掛け布団」が「人間」として「生まれてくる」。そして、「ため息をつく」。あるいは、「人間」が「掛け布団」に生まれ変わって(カフカの「変身」のように、「人間」以外のもの「生まれ変わって」)、「ため息をつく」。
 そして、このとき。「人間になる」ことを支えるのが「生臭い」という、一種、否定的な感じ。「生臭い」。あ、いやだなあ、と思いながら、その「いや」な感じ、否定的な何かが、私の「いま」を否定する。破壊する。それにあわせるように、「ある」が「なる」にかわる。「否定的」であるから、逆に、その世界へすーっと入っていくことができる。吸い込まれてしまう。私自身が守っているものが破壊されて、生身になる感じ。
 こんなことで、私自身の「感じたこと」を伝えられているのかどうかわからないが。
 この「否定/いやだなあと感じること」によって、私が対象を「否定」するのではなく、逆に私自身が否定され、こわれて、生まれ変わるという運動が起きるというのは。
 そのまえの、

布団の冷たさを通して、火照った喉を潤す。

 の「冷たさ」と「火照った」という対立(それぞれが他者を否定する)ということろから始まっているかもしれない。「冷たさ」「火照った」ということばを「肉体」で反芻し、「喉」ということばがさらに「肉体」を確かなものにし、そのあとに「ふうん、と、生臭いため息をついた」ということばがつづくとき、私は、その一続きの運動を、どうしても「私の肉体の運動」と錯覚する。
 でも、もちろん書かれているのは「私の肉体」ではない。またマーサ・ナカムラの肉体でもないだろう。特定の「個人」を超える「肉体」がそこに出現しているのだと思う。「人間」を否定する「掛け布団」という「もの」が、「主語」の境目を壊してしまう。
 たぶん、こういうところに「比喩」の強さの不思議がある。

 私は詩を読みながら、「私の肉体」と「マーサ・ナカムラの肉体」を混同するのだが、詩のなかでは「愛子(詩の冒頭に出てくる主人公?)」が「父の肉体」と「愛子の肉体」を混同する。「境目」を見失う。「生臭い」息、「同じ臭い」になる。

同じ臭いになる。

 と、ここでマーサ・ナカムラは「なる」という動詞をつかっている。
 その「なる」の奥には、

眠ると、体から、臭い汁が出る。

ということがあるのだが、ここには「同じ臭い」の「同じ」が省略されている。この部分は、ことばを補うと、

眠ると、体から、「同じ」臭い汁が出る。

 であり、その「同じ臭い汁」が「同じ臭い」に「なる」なのだが、それが「同じ」と呼ばれるのは、「体」が「同じ(ひとつ)」ではなく、「愛子」と「父」という「ふたつ」のものだからである。
 「ふたつ」のものが「ひとつ」としてとらえられる、というのは「比喩」でもある。「比喩」とは入れ替え可能のものである。
 その「入れ替え」の起きている「場」が「掛け布団」なのだ。
 
 「比喩」をとおして、何かが(私と、私以外のもの)が入れ替わる。入れ替わることで「世界」が「前のままの世界」なのに、「何かが違う世界」に「なる」。それは、気持ち悪いとも言えるし、気持ちいいとも言える。
 判断できない。
 気持ち悪いも気持ちいいも、たぶん入れ替わるものなのだ。

 いま引用したあとに、

また、この臭いをかぐと、再び粘性の眠気がやってくる。

 ということばがある。「この臭い」は直前の「父の眠った香り」でも「樟脳の香り」でもなく、「ふうん」という「生臭いため息」のにおいだろうなあ。
 「眠気」という「場」が、必然として「気づかれている」という感じかなあ。

狸の匣
クリエーター情報なし
思潮社

*


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