詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

カニエ・ナハ『IC』

2017-11-02 12:03:15 | 詩集
カニエ・ナハ『IC』(私家版、2017年10月22日発行)

 カニエ・ナハ『IC』はしかけに満ちている。タイトルは背表紙にしか書かれていない。本を開くとタイトルがない。と、思って読み進むと、途中で出てくる。装画の担当者の名前も途中で出てくる。あれっ、乱丁本? しかし、最後に「目次」があって、その目次の順に作品が並んでいるから、乱丁本ということではないのだろうなあ。

 あ、でも、これは「あとから」考えたこと。最初は、そうか「タイトル」を本の中には書かないのか、と思って読むだけである。本を開くといきなり、

命なき石の悲しさよければころがりまた止まるのみ 中原中也

 とあって、ふーん、この中也の短歌(?)に刺戟されて書いたのかと、ぼんやり思う。私は中也には関心がなくて、この一行も、よくわからない。
 最初、「命なき石の悲しさよ」と読んで、それにつづく「ければ」って何? あ、「命なき石のかなしさ/よければ」なのかと読み直す。どうも「リズム」があわない。だから中也に関心がもてないのかもしれない。
 「よければ」とわかったあとも、また悩んでしまう。「よければ」というのは「よしあし」の「よい」? それとも「避ける」? 私は「避ける」と読みたい。
 石に出会う。あ、この石は、と思い、引きつけられる。近づいていく。そうするとそこにあるだけの石が、ころっと転がる。転がっていって、離れてしまうとまた止まる。何かの昆虫みたいに。まるで「いのち」があるみたいに。
 こういうことって、経験したことない?
 私は、ある。それは「転がる」というほどのことではないかもしれないが。たとえば、川で「水切り遊び」をする。適当な石を探そうとする。そうすると、「ころっ」と転がるものがある。積み重なった石の「土台」が揺れて、それで転がるだけなのだが、それでも石は自分で動いたように見える。
 そういう「体験」があるので、「よければ」を「避ければ」という読んでしまう。
 私の体験は「避ければ」ではなく「近づけば」なのだけれど、「近づけば」そういうことが起きるのなら、「避ければ」でも同じことが起きそうだ。その石から離れようとする。その石を避けて歩こうとする。すると、石の方が歩く方向に転がって、そこで止まる。それだって、起きてかまわない。
 石が何かを求めている。もちろん、これは私が何かを求める気持ちがあって、それが石の偶然の動きを、石が何かを求めていると「誤読」するだけのことなのだけれど。
 あ、余分なことを書いたなあ。
 私は中也の詩に魅力を感じたことがないので、カニエはどんなふうに中也に向き合うのか、それについて行けるかなあ、と、
 まあ、不安になったんだね。
 不安なまま、ページをめくり始める。本を読むときは、たいてい不安だが、今回は特に「不安」が大きかった。だから、こんなふうにして、余分なことを書きながら、その不安の中に入っていくのをためらっているのだが。

 最初の作品。

私は私を降りるガラス窓の向こうの声をさえぎって雨

ここから矩形の水槽のガラスの三面が見えていて、二匹泳いでいるはずの金魚が、場所によって、四匹に見えたり六匹に見えたりする。ときに頭と頭が重なり合って、頭のない、ふたつの尾ひれをもったひとつの生きものになったりする。「気づかずに、偶然、あなたの前の席に座ってしまって、けれどしばらくあなたの声だと気づかなかったの。外国映画の日本語の吹き替えみたいに、別のひとの声のようだった。」

 最初の一行は、文字が少し大きい。タイトルなのか。あるいは短歌なのか。「五七五七七」と数えられるかどうかわからないが、「抒情」の形が短歌っぽい。音を整えれば、正式な(?)短歌になる「予感」のに満ちた一行だ。
 それにつづく散文は、「短歌」が生まれたときの「状況」を書いているのか。別のことばで、短歌の世界を言いなおしているのか。
 あるいは、「歌合」のようなことを短歌と散文でやっているのか。
 よくわからないが、ここでは「一」と同時に「二」が強く意識されている。ことばが「二」ある。
 その形式のなかで、散文の方は、さらに「二」になる。ある状況がある。しかし、その状況は「私」と「あなた」によって違うものになる。それを意識するとき、「私」はさらに「私」と「気づかなかった私」という「二」になる。
 この「分裂」はけれど単純な「算数」ではない。いや、「単純」だけれど、単純であるからめんどうくさい。どんな形にも変化することが簡単にできるのが「一」と「二」の関係である。「一」であると意識すると、必然的に「二」が生まれてくる。「意識する」という運動が「二」を誘い出す。「意識するもの」と「意識されるもの」。でも、その境界線は、いいかげんだ。「意識するもの」「意識されるもの」という区別自体、すぐに入れ替わる。どっちが「意識するもの」であったか、わからなくなる。
 そんなことが、水槽の三面、二匹の金魚、水槽の壁が鏡になって映し出す金魚の姿にあわせて書かれている。
 で、その「結論」は?
 あ、そんなものはないねえ。
 何か奇妙なもの、「結論」というか、「断定」できないことを、ただことばが動いたままに書いている。「ことば」には「いのち」があって、それが勝手に動いている。ただ勝手に動いているといっても、ある「決まり」のようなものがある。
 この詩集では「一」と「二」が常に意識されるということ。

 もうひとつ、引用してみる。

未明には無声映画の夢の中のことばが口を開きかけている

高速道路を走っている。どこかのインターチェンジで降りたいのだが、私はこれまでにいちども車の運転をしたことがなく、ひたすらにまっすぐ進むことしかできない。じきにガソリンがなくなるかもしれないし、そのまえに私が眠ってしまうかもしれない。車内にはたくさんの植物が積まれていて、水を求めている声が聞こえている。母が運転免許をとったばかりのころ、そのとき小学生だった私を乗せて、突然降り出した激しい雨に、ワイパーを動かすことができず、雨粒で視界がさえぎられていく。そのときの彼女と、いま高速道路を降りることができずにいる私は、同じくらいの年恰好で、私は映画を見るように、車の正面から雨粒にさえぎられているフロントガラスの向こうの私と母とを眺めている。彼らは口をぱくぱくさせてなにか訴えているのだが、その声を聴きとることができない。

 口を開くけれど声が出ない。これは夢のなかで経験すること。それと逆に口をぱくぱくさせているのが見えるけれど、そのことばが聞こえない。これは現実に経験することだが、夢のなかでももちろん経験するだろう。
 というようなことは、まあ、どうでもよくて。いや、どうでもよくないが。
 カニエの「一」と「二」は、「視覚」と「聴覚」という形で肉体が「一」になったり「二」になったりするんだなあ、と思う。
 ただ「視覚」だけで「二」が生まれるわけではない。「一」が複数になるわけではない。
 金魚の詩も、この詩も、最初は「視覚」から始まっている。けれど、それが知らずに「聴覚」の世界に広がり、「一」が立体的になる。
 で、こういう「交錯」に引き込まれていくと。
 あ、「IC」は「ICカード」のIC(集積回路)ではなく、「インターチェンジ」の略称のICか、と思えてくる。ひとつのICにつながる複数の道路。複数といっても、運転している人にはいま走っている道(一)から別の道(二)へ進路を変えること。けれど、変えてしまえば「道」は「道」そのもの、「一」でしかないのだけれど。
 そういうインターチェンジ構造を「詩」という「枠」のなかで再現しているんだな、とわかる。
 で、この視点から見直すと。

IC カニエ・ナハ

 というのが、本の真ん中辺り(前半よりだけれどね)に出てくる「意味」もわかる。ICを通って、カニエはほかの道へと進のだ。
 具体的に言うと。
 最初の高速道路(?)では、「短歌+散文(詩)」という形式が採用されていた。ICを通ったあとは、これが「短歌+行分け詩」になる。この分岐点(?)には、「二〇一七年八月」という表記がある。

外国の映画の中のなにもない地球にはじめて火が生まれた日

泳ぎに行ったね。
私は泳いでいなかったのだけど。
誰も泳がなかった。
泳がなかったから。
今日はすばらしい日でした。
その日(石の日)のために、
出来事が落とされ、
何も言わずに伝えた。

 長いので全部は引用しない。(この引用は書き出し部分)。
 うーん、何が書いてあるのかなあ。
 行わけで「詩」のスタイルのなのだが、これよりも最初に読んだ「散文」の方に私は詩を感じてしまう。凝縮した「ことば」の力を感じる。高速道路(直線)を降りて、スピードが落ちたという感じなのかなあ。
 こういうことは、感想にもならないかもしれないけれど。
 これがさらに進むと。
 縦書きの一行に、横書きの行変え詩という組み合わせになる。私のブログでは表記がむずかしいので、全部横書きだけれど。(実際の作品は、詩集で確かめてください。)そして、この分岐点には「二〇一七年九月一日」という表記がある。区分けが、前よりもこまかくなっている。高速道→大通り→一般道路(路地?)へと進む感じか。

どの穴も塞がなくては。あなたが石をゴヂ起こすので

降ることを切望して
使い果たされる
眠り
たくさんの
水を求める声を聞いて
母が
雨滴になって
何かを象徴している
声は水で覆われて
落ちて
終わりのない
残りの部分も
いま燃え尽きようと
している目だ
 
 これまで読んできたことばが、より短くなって動いている。「水」「声」「母」。なんとなく、あ、母親が死んだのか。そのことを書いているのか、という感じがしてくる。事実か、ことばの運動がひきよせた虚構か。(二番目の部分では、違う作品を引用した方が、ストーリーの説明はしやすかったのかもしれないが。)
 で、こうやって読んでくると、最初の「短歌+散文」がいちばん私には詩に近く感じられ、「詩(行分け、長い詩→短い詩)読み進むにしたがって、逆に「私小説」みたいに感じてしまう。
 これは、不思議だなあ。
 ことばは、どんなに短いものであっても、それを積み重ねていけば「詩」ではなく「散文」のようになってしまう。つまり、「意味/ストーリー」として受け止めてしまうようになるということなのか。
 これは、私だけが感じることなのか。
 よくわからない。

 さらにこの「詩集(?)」は、最後に「短歌(?)」だけになる。この短歌は「目次」にも含まれていない。

心臓で私はよく眠れ。光が悲しみ、部屋が病んでも

という最初の作品は一行のみ。次からは一ページに向かい合う形でふたつの作品。短歌と短歌が向き合っている、ととらえれば、それまでの作品と同じ「構造」になるが。

私は虫として在り途中から盛りになり水を傾ける

それぞれの底に設定されている小説。別の言葉で続ける

 「短歌+短歌」は路地というよりも、部屋の中に帰った感じかも。
 これは、あるいは、この詩集全体の「解説(自註)」なのかもしれないなあ。どんなことばも、向き合うと「小説」のようなものになる。「対話」がことばを逆に自立させる。それぞれが動いていくことをうながす。そこから「ストーリー」が自然に生まれる。

 私は、ことばを読むと、読んだままにすぐに感想を書いてしまうが、もっと時間をかけて、カニエのことばのなかを歩き回らないといけないのかもしれない。短い部分に触れるにしたがって、大股で歩いてしまった感じがするなあ。
 ICを「インターチェンジ」と読み替えた瞬間、仕掛けがわかってしまった気持ちになったのがよくないのだろうなあ。詩は「わかった」と思ったら読んだことにならないものなのだ。ひたすら「誤読」のなかをさまよわなければならないものなのだ。「誤読」二「誤読」を積み重ね、なんだかさっぱりわからないけれど、おもしろいという具合に読まないといけないものなのだ。



IC
クリエーター情報なし
密林社

*


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