詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松本秀文『「猫」と云うトンネル』

2017-11-18 09:50:00 | 詩集
松本秀文『「猫」と云うトンネル』(思潮社、2017年10月25日発行)

 私は古くさい人間である。だから、

満たされない心から生じるかゆみをうまく表現できません   (50ページ)

 という行は好きである。「かゆみ」には傍点が打ってあるが、ない方が好みである。「生じる」ということばは、読んでいて意味はわかるが、耳で聞いたら少し悩むと思う。けれど、まあ好きである。
 で、「この好きである」「ない方が好きである」「まあ好きである」の違いをどう書けばいいのかなあ、ということを松本秀文『「猫」と云うトンネル』を読みながら考えた。

何度も死のうとした日のことを死後に思い出す。       (59ページ)

 この「死後に」も傍点が打ってある。これは強調か。「死後に思い出す」というのは、死んだことがないのでできることなのかどうかわからないが、私は「矛盾」だと考える。生きているから「思い出す」。死んだら思い出したりしないだろう。そんなことがあれば、めんどうくさくて、死んでいられないと思う。
 こういうややこしいことは、わたしの世代では秋亜綺羅が得意としている分野である。で、秋亜綺羅を思い出してしまうので、私は、嫌いである。
 でも、この「嫌い」は「まあ好きである」と入れ替わることがある。「嫌い」と「まあ好きである」は、「肉体」が反応しているというよりも、「頭」が反応している。「頭」が「感想」を動かしているのかなあ。

珈琲(微量に光が含まれている)を飲むだけの一日       (54ページ)

 これは「好きかなあ」という感じ。「好き」と言いたいのだけれど、「好き」と言い切るにはためらいがある。ずるい、と感じる。ずるさ、の前でためらってしまう。
 (微量に光が含まれている)という説明(補足)の仕方がずるい。

微量に光が含まれている珈琲を飲むだけの一日

 こう書かれていたら、きっとめんどうくさくて「好きじゃない」という感じになる。
 珈琲は黒い。そこに光が含まれていると言われると、これは「手術台の上のミシンとこうもり傘の出会い」。「肉体」が覚え込んでいる何かがひっくり返される。あっ、と驚く。新鮮さを感じる。
 最初に「微量に光」を感じ、そのあとで「珈琲」が出てくると、「肉体/頭」がひっくりかえる。順序正しく(?)書かれているのだけれど、「微量に光が含まれている珈琲」では倒置法のように考え直さないといけない。いや、「微量に光が含まれている珈琲」というのは、英語や何かの「関係代名詞」でつくられている「文」のようなものかな? 「微量に光が含まれている(ところの)珈琲」。いまは、こういう「訳文」はつくらないし、関係代名詞があっても前から順番に訳していく。文章を二つに分けて訳してしまうということが多いようだ。で、そういう訳語の動きが、

珈琲(微量に光が含まれている)

 だね。
 「わかる」のだけれど。そして、その「わかる」というとき、そこには「好きになりたい」という感じで私の「肉体」は動いているだと思うけれど。
 同時に、「ずるい」とも感じる。
 かっこは「記号」であって、「黙読」するときはそこにかっこがあることがわかるけれど、耳で聞いたらわからない。
 私は黙読しかしない。音読はしないし、朗読を聞くのも大嫌い。けれど、ことばを「読む」とき、どうしても「肉体」は動く。知らず知らずに喉や舌を動かしているし、耳は「声」を聞いている。目には見えるが耳には聞こえないということばには、どうも「だまし」を感じてしまう。で、「肉体」は立ち止まる。「ずるい」と感じ、一歩、引いてしまう。

「自由」と名づけられた広場には鳩が群れる            (9ページ)

 この行の「自由」には「不自由」というルビがついている。
 こういう行は、私は、大嫌いである。(実は、ここで読むのをやめようと思った。でも、それでは2篇も読み終わらないので、詩集の感想にはならないなと思い、読み進んだ。)
 なぜ大嫌いかというと、「不自由」というルビのついた「自由」を、どう「声」にしていいのかわからないからである。「声」にできない。
 こういう「頭」のなかだけで響かせる「音」というものが、私は大嫌いだ。
 「意味」が大嫌い、と言えばいいだろうか。

 ひとはだれでも「意味」を生きている。ひとそれぞれに、それぞれの「意味」がある。私は私の「意味」で手一杯。他人の「意味」など押しつけられたくない。
 ことばを読むのは、私自身のことばを動かして、私の「肉体」を鍛えるための手段。私の「意味」をつくりなおし、鍛えなおすための方法。そこに「他人の方法」を押しつけられると、私は一種の「拒絶反応」を起こしてしまう。
 「大嫌い」というのは、そういうときの感想だ。

 で。
 端折って、感想をまとめてしまうと、この詩集には「頭」で処理されたことばが多くて、私には読むのがむずかしい。そして、この「むずかしさ」は、何といえばいいのか、明治・大正とは言わないが、どうも「古くさい」ものがもつ「むずかしさ」である。「頭でっかちのむずかしさ」である。「頭」で時代を切り開いていかないといけない時代はそういう「言い方(表現方法)」をしたのかもしれない。けれど、いまはこんな言い方しないだろう、と思ってしまう。
 私は「古くさい」人間なので、私の「肉体」になじんだことばの動きしか納得できない。松本は私よりも若い世代だと思う。「いまはこんな言い方しないだろう」というのは私の間違いで、いまはこういうことばの動かし方(頭でことばを動かすという方法)をするのかもしれないが、私はそれについていけない。


「猫」と云うトンネル
クリエーター情報なし
思潮社


*


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安倍の沈黙作戦

2017-11-18 08:02:25 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の沈黙作戦
             自民党憲法改正草案を読む/番外149(情報の読み方)

 2017年11月18日の読売新聞(西部版・14版)の4面。

野党と「話して回るひまない」

 という見出しで、自民党幹事長・二階の発言が書かれている。

 自民党の二階幹事長は17日、東京都内で講演し、「アベノミクスの結果が出て、野党は悔しくて悔しくて仕方ないから、(その恩恵が)地方に回ってきていないと偉そうに言う」と述べ、安倍首相の経済政策を批判する野党をけん制した。
 また、「何をすればいいか考えがあるなら述べてみなさいよと言ってやりたいが、あんな連中と話をして回るひまはない。情けない限りだ」とも語った。

 「何をすればいいか」は野党は何度も言っている。「安倍は辞めればいい」と言っている。
 「アベノミクスの結果が出ている」というが、そうであるならなぜ消費税増税ができないのか。景気を回復させるために消費税増税を延期したのは、アベノミクスが失敗したからである。失敗を「道半ば」と言い換えているにすぎない。
 それはそれとして。

あんな連中と話をして回るひまはない

 これは暴言だ。
 安倍は都議選の応援演説で、国民に向かって「あんな人たちに負けるわけにはいかない」と言った。二階は国民の代表である国会議員に対して「あんな連中」と言っている。国民の代表を「あんな連中」と呼ぶことは、その議員を選んだ国民の「あんな連中」と呼ぶことである。
 そして、それは国民の選別であり、切り捨てである。
 「話して回るひまはない」が、そのことを露骨に語っている。
 賛成してくれる人間となら話すが、反対する人間とは話さない。反対するひとの声を封じ込める、というのが安倍・二階の「民主主義」の方法である。
 反対している人との対話にこそ時間をかける、よりよい合意へ向けて努力する、というのが民主主義の基本である。
 賛成するなら仲間にしてやる、優遇してやる、というのがいまの安倍の政治。
 それは独裁である。
 この独裁の姿勢が、安倍だけではなく、自民党全体に拡がっていることを証明するのが、今回の二階の発言である。

あんな連中と話をして回るひまはない

 は、すぐに、

あんな連中は逮捕して、封じ込めてしまえ

 にかわる。
 この「沈黙作戦」は、「あんな連中」がどこにいるのか、密告合戦がはじまる。「あんな連中」を密告することが、安倍の「お仲間入り」の条件になるからだ。




#安倍を許さない #安倍独裁 #沈黙作戦 #憲法改正 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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ポエムピース
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