松本秀文『「猫」と云うトンネル』(思潮社、2017年10月25日発行)
私は古くさい人間である。だから、
という行は好きである。「かゆみ」には傍点が打ってあるが、ない方が好みである。「生じる」ということばは、読んでいて意味はわかるが、耳で聞いたら少し悩むと思う。けれど、まあ好きである。
で、「この好きである」「ない方が好きである」「まあ好きである」の違いをどう書けばいいのかなあ、ということを松本秀文『「猫」と云うトンネル』を読みながら考えた。
この「死後に」も傍点が打ってある。これは強調か。「死後に思い出す」というのは、死んだことがないのでできることなのかどうかわからないが、私は「矛盾」だと考える。生きているから「思い出す」。死んだら思い出したりしないだろう。そんなことがあれば、めんどうくさくて、死んでいられないと思う。
こういうややこしいことは、わたしの世代では秋亜綺羅が得意としている分野である。で、秋亜綺羅を思い出してしまうので、私は、嫌いである。
でも、この「嫌い」は「まあ好きである」と入れ替わることがある。「嫌い」と「まあ好きである」は、「肉体」が反応しているというよりも、「頭」が反応している。「頭」が「感想」を動かしているのかなあ。
これは「好きかなあ」という感じ。「好き」と言いたいのだけれど、「好き」と言い切るにはためらいがある。ずるい、と感じる。ずるさ、の前でためらってしまう。
(微量に光が含まれている)という説明(補足)の仕方がずるい。
こう書かれていたら、きっとめんどうくさくて「好きじゃない」という感じになる。
珈琲は黒い。そこに光が含まれていると言われると、これは「手術台の上のミシンとこうもり傘の出会い」。「肉体」が覚え込んでいる何かがひっくり返される。あっ、と驚く。新鮮さを感じる。
最初に「微量に光」を感じ、そのあとで「珈琲」が出てくると、「肉体/頭」がひっくりかえる。順序正しく(?)書かれているのだけれど、「微量に光が含まれている珈琲」では倒置法のように考え直さないといけない。いや、「微量に光が含まれている珈琲」というのは、英語や何かの「関係代名詞」でつくられている「文」のようなものかな? 「微量に光が含まれている(ところの)珈琲」。いまは、こういう「訳文」はつくらないし、関係代名詞があっても前から順番に訳していく。文章を二つに分けて訳してしまうということが多いようだ。で、そういう訳語の動きが、
だね。
「わかる」のだけれど。そして、その「わかる」というとき、そこには「好きになりたい」という感じで私の「肉体」は動いているだと思うけれど。
同時に、「ずるい」とも感じる。
かっこは「記号」であって、「黙読」するときはそこにかっこがあることがわかるけれど、耳で聞いたらわからない。
私は黙読しかしない。音読はしないし、朗読を聞くのも大嫌い。けれど、ことばを「読む」とき、どうしても「肉体」は動く。知らず知らずに喉や舌を動かしているし、耳は「声」を聞いている。目には見えるが耳には聞こえないということばには、どうも「だまし」を感じてしまう。で、「肉体」は立ち止まる。「ずるい」と感じ、一歩、引いてしまう。
この行の「自由」には「不自由」というルビがついている。
こういう行は、私は、大嫌いである。(実は、ここで読むのをやめようと思った。でも、それでは2篇も読み終わらないので、詩集の感想にはならないなと思い、読み進んだ。)
なぜ大嫌いかというと、「不自由」というルビのついた「自由」を、どう「声」にしていいのかわからないからである。「声」にできない。
こういう「頭」のなかだけで響かせる「音」というものが、私は大嫌いだ。
「意味」が大嫌い、と言えばいいだろうか。
ひとはだれでも「意味」を生きている。ひとそれぞれに、それぞれの「意味」がある。私は私の「意味」で手一杯。他人の「意味」など押しつけられたくない。
ことばを読むのは、私自身のことばを動かして、私の「肉体」を鍛えるための手段。私の「意味」をつくりなおし、鍛えなおすための方法。そこに「他人の方法」を押しつけられると、私は一種の「拒絶反応」を起こしてしまう。
「大嫌い」というのは、そういうときの感想だ。
で。
端折って、感想をまとめてしまうと、この詩集には「頭」で処理されたことばが多くて、私には読むのがむずかしい。そして、この「むずかしさ」は、何といえばいいのか、明治・大正とは言わないが、どうも「古くさい」ものがもつ「むずかしさ」である。「頭でっかちのむずかしさ」である。「頭」で時代を切り開いていかないといけない時代はそういう「言い方(表現方法)」をしたのかもしれない。けれど、いまはこんな言い方しないだろう、と思ってしまう。
私は「古くさい」人間なので、私の「肉体」になじんだことばの動きしか納得できない。松本は私よりも若い世代だと思う。「いまはこんな言い方しないだろう」というのは私の間違いで、いまはこういうことばの動かし方(頭でことばを動かすという方法)をするのかもしれないが、私はそれについていけない。
*

詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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私は古くさい人間である。だから、
満たされない心から生じるかゆみをうまく表現できません (50ページ)
という行は好きである。「かゆみ」には傍点が打ってあるが、ない方が好みである。「生じる」ということばは、読んでいて意味はわかるが、耳で聞いたら少し悩むと思う。けれど、まあ好きである。
で、「この好きである」「ない方が好きである」「まあ好きである」の違いをどう書けばいいのかなあ、ということを松本秀文『「猫」と云うトンネル』を読みながら考えた。
何度も死のうとした日のことを死後に思い出す。 (59ページ)
この「死後に」も傍点が打ってある。これは強調か。「死後に思い出す」というのは、死んだことがないのでできることなのかどうかわからないが、私は「矛盾」だと考える。生きているから「思い出す」。死んだら思い出したりしないだろう。そんなことがあれば、めんどうくさくて、死んでいられないと思う。
こういうややこしいことは、わたしの世代では秋亜綺羅が得意としている分野である。で、秋亜綺羅を思い出してしまうので、私は、嫌いである。
でも、この「嫌い」は「まあ好きである」と入れ替わることがある。「嫌い」と「まあ好きである」は、「肉体」が反応しているというよりも、「頭」が反応している。「頭」が「感想」を動かしているのかなあ。
珈琲(微量に光が含まれている)を飲むだけの一日 (54ページ)
これは「好きかなあ」という感じ。「好き」と言いたいのだけれど、「好き」と言い切るにはためらいがある。ずるい、と感じる。ずるさ、の前でためらってしまう。
(微量に光が含まれている)という説明(補足)の仕方がずるい。
微量に光が含まれている珈琲を飲むだけの一日
こう書かれていたら、きっとめんどうくさくて「好きじゃない」という感じになる。
珈琲は黒い。そこに光が含まれていると言われると、これは「手術台の上のミシンとこうもり傘の出会い」。「肉体」が覚え込んでいる何かがひっくり返される。あっ、と驚く。新鮮さを感じる。
最初に「微量に光」を感じ、そのあとで「珈琲」が出てくると、「肉体/頭」がひっくりかえる。順序正しく(?)書かれているのだけれど、「微量に光が含まれている珈琲」では倒置法のように考え直さないといけない。いや、「微量に光が含まれている珈琲」というのは、英語や何かの「関係代名詞」でつくられている「文」のようなものかな? 「微量に光が含まれている(ところの)珈琲」。いまは、こういう「訳文」はつくらないし、関係代名詞があっても前から順番に訳していく。文章を二つに分けて訳してしまうということが多いようだ。で、そういう訳語の動きが、
珈琲(微量に光が含まれている)
だね。
「わかる」のだけれど。そして、その「わかる」というとき、そこには「好きになりたい」という感じで私の「肉体」は動いているだと思うけれど。
同時に、「ずるい」とも感じる。
かっこは「記号」であって、「黙読」するときはそこにかっこがあることがわかるけれど、耳で聞いたらわからない。
私は黙読しかしない。音読はしないし、朗読を聞くのも大嫌い。けれど、ことばを「読む」とき、どうしても「肉体」は動く。知らず知らずに喉や舌を動かしているし、耳は「声」を聞いている。目には見えるが耳には聞こえないということばには、どうも「だまし」を感じてしまう。で、「肉体」は立ち止まる。「ずるい」と感じ、一歩、引いてしまう。
「自由」と名づけられた広場には鳩が群れる (9ページ)
この行の「自由」には「不自由」というルビがついている。
こういう行は、私は、大嫌いである。(実は、ここで読むのをやめようと思った。でも、それでは2篇も読み終わらないので、詩集の感想にはならないなと思い、読み進んだ。)
なぜ大嫌いかというと、「不自由」というルビのついた「自由」を、どう「声」にしていいのかわからないからである。「声」にできない。
こういう「頭」のなかだけで響かせる「音」というものが、私は大嫌いだ。
「意味」が大嫌い、と言えばいいだろうか。
ひとはだれでも「意味」を生きている。ひとそれぞれに、それぞれの「意味」がある。私は私の「意味」で手一杯。他人の「意味」など押しつけられたくない。
ことばを読むのは、私自身のことばを動かして、私の「肉体」を鍛えるための手段。私の「意味」をつくりなおし、鍛えなおすための方法。そこに「他人の方法」を押しつけられると、私は一種の「拒絶反応」を起こしてしまう。
「大嫌い」というのは、そういうときの感想だ。
で。
端折って、感想をまとめてしまうと、この詩集には「頭」で処理されたことばが多くて、私には読むのがむずかしい。そして、この「むずかしさ」は、何といえばいいのか、明治・大正とは言わないが、どうも「古くさい」ものがもつ「むずかしさ」である。「頭でっかちのむずかしさ」である。「頭」で時代を切り開いていかないといけない時代はそういう「言い方(表現方法)」をしたのかもしれない。けれど、いまはこんな言い方しないだろう、と思ってしまう。
私は「古くさい」人間なので、私の「肉体」になじんだことばの動きしか納得できない。松本は私よりも若い世代だと思う。「いまはこんな言い方しないだろう」というのは私の間違いで、いまはこういうことばの動かし方(頭でことばを動かすという方法)をするのかもしれないが、私はそれについていけない。
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1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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