川上明日夫『白骨草』(編集工房ノア、2017年10月10日発行)
川上明日夫『白骨草』を読みながら、初期の荒川洋治を思い出した。ことばが動くとき、「意味」よりもまえに「音」が動く。音が「かたち」をととのえて、それにあわせて「意味」をそえる。「音楽」を重視している。「音楽」のもっている「抒情」を優先させている。
「雫・ひかり」の書き出し。
「ま行」の音が響きあい、そのなかから「み」の音がたちあがり、ことばを集める。
「みじろぎ」「みたして」「みしらぬ」
このときの、「みたして」ということばのつかい方が、荒川を思い出させる。「みたして」の主語は何か。「こえを/みたして」ならば、「見知らぬひと」が主語になるかもしれない。しかし、「こえ」が「見知らぬひとを」「みたして」と読むこともできる。
いや、川上が「見知らぬひとが」「こえを」「みたして」と「書いた」のだとしても、私には「「こえ」が「見知らぬひとを」「みたして」と「聞こえる」。
だれかが何かを「言う」。そして私がそれを「聞く」。そのときの、不思議な関係。そのひとは「こう言った」。けれど、それは「こう聞こえた」。これは、ことばが「交渉」するからである。同時に、ことばは「考える」からである。「感じる」からである。そして、ことばはたぶん「交渉する/伝達する」ためにあるのではなく、「考え/感じる」ためにある。荒川は「伝達する」ことばではなく、読者を刺戟し「考える/感じる」という世界へ誘い出す。
「意味」を伝達するのではない。ことばを「感じさせる」「考えさせる」。そこからはじまる世界は読者のものであって、荒川の「干渉」できる世界ではない。「意味」が生まれてくるなら生まれてくるでかまわないが、その「意味」をまかせてしまうのである。
川上がそこまで覚悟して書いているかどうかわからないが。
この不思議な交渉の形を言いなおすと、たとえばだれかが「色即是空」という。そして、何を聞いたかと相手に問う。「色即是空」と聞いたと答えれば、それは「私が言ったこと。私は私が何を言ったかではなく、あなたが何を聞いたかと問うたのである」とふたたび問われるだろう。何を聞いたかの答えにはいろいろあるだろうが、たとえば「空即是色」と聞いたという答え方ができる。「聞く」ことによって、ひとの中でことばが動き始める。その「動き」こそが「対話」である。「聞く」ということである。そして、その「聞く」のいちばん基本的なかたちは、ことばを固定せず、いれかえながら、ことばをつらぬく「ことばの肉体」に引き返すことである。既存の自己のことばを否定し、まだ固定化されていないことばのなかへ引き返し、どう動いて行けるかを探る。
そういうことが、この詩を読んだときに、「みたして」を中心にして起きる。私の場合は。「みたして」の前にある「あげる声の そのこえを」の「声/こえ」の繰り返しと微妙なずれが、「みたして」を読み替えろと要求している。
「帯」にも引用されている「川の背中」の次の部分は「中期」のころの荒川か。
「包んでも 慎んでも/なお/つつみきれない」は「つつ」という「音」が呼び込む変奏。「慎む」ということばがまぎれ込む。これが「世間」と「悲しみ」を引き寄せる。「風呂敷」という比喩が、「拡げ(る)」と「面積」に変わっていく。このとき、「風呂敷」が包んでいたのは何か。「悲しみ」か。しかし、「悲しみ」が「風呂敷」になって別なものを包んでいるのかもしれない。「悲しみ」を「包む」ことが「慎み」、「慎む」ということであるのか、「慎む」ことが「悲しみ」を「包む」ことなのか。同じようであって、同じではない。
「何を聞いたか」という問いに答えるのはむずかしい。
もし「包む」ことが「慎み」ならば、「拡げ(る)」ということは、どうなるのか。「拡げる」ということをしなかったならば、「悲しみ」は存在しうるのか。「慎む」ということは、存在しうるのか。そういうことも考えさせられる。
でも。
いま書いた「でも」は、どう書いていいかわからずに書いた「でも」である。「でも」のあとに、私は「こういう詩は嫌いだ」とつづけたいのだ。
何が嫌いかというと「みたして」「慎んで(も)」「拡げ」という中途半端な動詞の形が嫌いである。「語りきっていない」感じがする。「語りきる」まえに、「開いている」。入れ替えの準備を作者の方でしている。「語った/聞いた」を作者が強要している。言い換えると、「どう聞いたか」を問いかけながら語っている。
それは「みじろぎもせず/みたして/見しらぬおひとが」という「音楽」のつくりかたそのものにもあらわれている。どの音を聞いた?としつこく質問してくる。
こういう「音」のつらなりは、私はどうも生理的に受け付けることができない。「あつめ」「あつめては」「そめ」「うつむいては」という中途半端な動きを「はらはら」「あられ」「しどこなく」という「美しい」と思われていることばで隠す。「聞こえるか/聞いているか」と押しつけられている気がする。こういうところは荒川とは違うかなあ。荒川はもっと「語り」に徹する。荒川の「肉体」のなかの「音」を「聞いて/語る」。川上は「語って/聞く」、自分の「語った」音に酔うところがあるのかもしれない。だからしつこくなる。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
川上明日夫『白骨草』を読みながら、初期の荒川洋治を思い出した。ことばが動くとき、「意味」よりもまえに「音」が動く。音が「かたち」をととのえて、それにあわせて「意味」をそえる。「音楽」を重視している。「音楽」のもっている「抒情」を優先させている。
「雫・ひかり」の書き出し。
まあるい水の座布団が
みどりの草の穂先にしつらえてあって
なんとまあ きれいと
まだあけやらぬ朝にむかって
あげる声の そのこえを
みじろぎもせず
みたして
見しらぬひとが さっきから ひっそり
「ま行」の音が響きあい、そのなかから「み」の音がたちあがり、ことばを集める。
「みじろぎ」「みたして」「みしらぬ」
このときの、「みたして」ということばのつかい方が、荒川を思い出させる。「みたして」の主語は何か。「こえを/みたして」ならば、「見知らぬひと」が主語になるかもしれない。しかし、「こえ」が「見知らぬひとを」「みたして」と読むこともできる。
いや、川上が「見知らぬひとが」「こえを」「みたして」と「書いた」のだとしても、私には「「こえ」が「見知らぬひとを」「みたして」と「聞こえる」。
だれかが何かを「言う」。そして私がそれを「聞く」。そのときの、不思議な関係。そのひとは「こう言った」。けれど、それは「こう聞こえた」。これは、ことばが「交渉」するからである。同時に、ことばは「考える」からである。「感じる」からである。そして、ことばはたぶん「交渉する/伝達する」ためにあるのではなく、「考え/感じる」ためにある。荒川は「伝達する」ことばではなく、読者を刺戟し「考える/感じる」という世界へ誘い出す。
「意味」を伝達するのではない。ことばを「感じさせる」「考えさせる」。そこからはじまる世界は読者のものであって、荒川の「干渉」できる世界ではない。「意味」が生まれてくるなら生まれてくるでかまわないが、その「意味」をまかせてしまうのである。
川上がそこまで覚悟して書いているかどうかわからないが。
この不思議な交渉の形を言いなおすと、たとえばだれかが「色即是空」という。そして、何を聞いたかと相手に問う。「色即是空」と聞いたと答えれば、それは「私が言ったこと。私は私が何を言ったかではなく、あなたが何を聞いたかと問うたのである」とふたたび問われるだろう。何を聞いたかの答えにはいろいろあるだろうが、たとえば「空即是色」と聞いたという答え方ができる。「聞く」ことによって、ひとの中でことばが動き始める。その「動き」こそが「対話」である。「聞く」ということである。そして、その「聞く」のいちばん基本的なかたちは、ことばを固定せず、いれかえながら、ことばをつらぬく「ことばの肉体」に引き返すことである。既存の自己のことばを否定し、まだ固定化されていないことばのなかへ引き返し、どう動いて行けるかを探る。
そういうことが、この詩を読んだときに、「みたして」を中心にして起きる。私の場合は。「みたして」の前にある「あげる声の そのこえを」の「声/こえ」の繰り返しと微妙なずれが、「みたして」を読み替えろと要求している。
「帯」にも引用されている「川の背中」の次の部分は「中期」のころの荒川か。
包んでも 慎んでも
なお
つつみきれない
世間のあたりまえ
を
風呂敷のように 拡げ 生きてきた
川は 悲しみの面積です
「包んでも 慎んでも/なお/つつみきれない」は「つつ」という「音」が呼び込む変奏。「慎む」ということばがまぎれ込む。これが「世間」と「悲しみ」を引き寄せる。「風呂敷」という比喩が、「拡げ(る)」と「面積」に変わっていく。このとき、「風呂敷」が包んでいたのは何か。「悲しみ」か。しかし、「悲しみ」が「風呂敷」になって別なものを包んでいるのかもしれない。「悲しみ」を「包む」ことが「慎み」、「慎む」ということであるのか、「慎む」ことが「悲しみ」を「包む」ことなのか。同じようであって、同じではない。
「何を聞いたか」という問いに答えるのはむずかしい。
もし「包む」ことが「慎み」ならば、「拡げ(る)」ということは、どうなるのか。「拡げる」ということをしなかったならば、「悲しみ」は存在しうるのか。「慎む」ということは、存在しうるのか。そういうことも考えさせられる。
でも。
いま書いた「でも」は、どう書いていいかわからずに書いた「でも」である。「でも」のあとに、私は「こういう詩は嫌いだ」とつづけたいのだ。
何が嫌いかというと「みたして」「慎んで(も)」「拡げ」という中途半端な動詞の形が嫌いである。「語りきっていない」感じがする。「語りきる」まえに、「開いている」。入れ替えの準備を作者の方でしている。「語った/聞いた」を作者が強要している。言い換えると、「どう聞いたか」を問いかけながら語っている。
それは「みじろぎもせず/みたして/見しらぬおひとが」という「音楽」のつくりかたそのものにもあらわれている。どの音を聞いた?としつこく質問してくる。
はらはらと はらはらと
かぜをあつめ あつめてはあられもなく ぽっと 頬を
そめ しどけなくうつむいては
また あわててそえる 夕陽のみぎわ の そのむかし (春の落ち葉)
こういう「音」のつらなりは、私はどうも生理的に受け付けることができない。「あつめ」「あつめては」「そめ」「うつむいては」という中途半端な動きを「はらはら」「あられ」「しどこなく」という「美しい」と思われていることばで隠す。「聞こえるか/聞いているか」と押しつけられている気がする。こういうところは荒川とは違うかなあ。荒川はもっと「語り」に徹する。荒川の「肉体」のなかの「音」を「聞いて/語る」。川上は「語って/聞く」、自分の「語った」音に酔うところがあるのかもしれない。だからしつこくなる。
川上明日夫詩集 (現代詩文庫) | |
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。