詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川上明日夫『白骨草』

2017-11-27 09:59:28 | 詩集
川上明日夫『白骨草』(編集工房ノア、2017年10月10日発行)

 川上明日夫『白骨草』を読みながら、初期の荒川洋治を思い出した。ことばが動くとき、「意味」よりもまえに「音」が動く。音が「かたち」をととのえて、それにあわせて「意味」をそえる。「音楽」を重視している。「音楽」のもっている「抒情」を優先させている。
 「雫・ひかり」の書き出し。

まあるい水の座布団が
みどりの草の穂先にしつらえてあって
なんとまあ きれいと
まだあけやらぬ朝にむかって
あげる声の そのこえを
みじろぎもせず
みたして
見しらぬひとが さっきから ひっそり

 「ま行」の音が響きあい、そのなかから「み」の音がたちあがり、ことばを集める。
 「みじろぎ」「みたして」「みしらぬ」
 このときの、「みたして」ということばのつかい方が、荒川を思い出させる。「みたして」の主語は何か。「こえを/みたして」ならば、「見知らぬひと」が主語になるかもしれない。しかし、「こえ」が「見知らぬひとを」「みたして」と読むこともできる。
 いや、川上が「見知らぬひとが」「こえを」「みたして」と「書いた」のだとしても、私には「「こえ」が「見知らぬひとを」「みたして」と「聞こえる」。
 だれかが何かを「言う」。そして私がそれを「聞く」。そのときの、不思議な関係。そのひとは「こう言った」。けれど、それは「こう聞こえた」。これは、ことばが「交渉」するからである。同時に、ことばは「考える」からである。「感じる」からである。そして、ことばはたぶん「交渉する/伝達する」ためにあるのではなく、「考え/感じる」ためにある。荒川は「伝達する」ことばではなく、読者を刺戟し「考える/感じる」という世界へ誘い出す。
 「意味」を伝達するのではない。ことばを「感じさせる」「考えさせる」。そこからはじまる世界は読者のものであって、荒川の「干渉」できる世界ではない。「意味」が生まれてくるなら生まれてくるでかまわないが、その「意味」をまかせてしまうのである。
 川上がそこまで覚悟して書いているかどうかわからないが。
 この不思議な交渉の形を言いなおすと、たとえばだれかが「色即是空」という。そして、何を聞いたかと相手に問う。「色即是空」と聞いたと答えれば、それは「私が言ったこと。私は私が何を言ったかではなく、あなたが何を聞いたかと問うたのである」とふたたび問われるだろう。何を聞いたかの答えにはいろいろあるだろうが、たとえば「空即是色」と聞いたという答え方ができる。「聞く」ことによって、ひとの中でことばが動き始める。その「動き」こそが「対話」である。「聞く」ということである。そして、その「聞く」のいちばん基本的なかたちは、ことばを固定せず、いれかえながら、ことばをつらぬく「ことばの肉体」に引き返すことである。既存の自己のことばを否定し、まだ固定化されていないことばのなかへ引き返し、どう動いて行けるかを探る。
 そういうことが、この詩を読んだときに、「みたして」を中心にして起きる。私の場合は。「みたして」の前にある「あげる声の そのこえを」の「声/こえ」の繰り返しと微妙なずれが、「みたして」を読み替えろと要求している。

 「帯」にも引用されている「川の背中」の次の部分は「中期」のころの荒川か。

包んでも 慎んでも
なお
つつみきれない
世間のあたりまえ

風呂敷のように 拡げ 生きてきた
川は 悲しみの面積です

 「包んでも 慎んでも/なお/つつみきれない」は「つつ」という「音」が呼び込む変奏。「慎む」ということばがまぎれ込む。これが「世間」と「悲しみ」を引き寄せる。「風呂敷」という比喩が、「拡げ(る)」と「面積」に変わっていく。このとき、「風呂敷」が包んでいたのは何か。「悲しみ」か。しかし、「悲しみ」が「風呂敷」になって別なものを包んでいるのかもしれない。「悲しみ」を「包む」ことが「慎み」、「慎む」ということであるのか、「慎む」ことが「悲しみ」を「包む」ことなのか。同じようであって、同じではない。
 「何を聞いたか」という問いに答えるのはむずかしい。
 もし「包む」ことが「慎み」ならば、「拡げ(る)」ということは、どうなるのか。「拡げる」ということをしなかったならば、「悲しみ」は存在しうるのか。「慎む」ということは、存在しうるのか。そういうことも考えさせられる。

 でも。

 いま書いた「でも」は、どう書いていいかわからずに書いた「でも」である。「でも」のあとに、私は「こういう詩は嫌いだ」とつづけたいのだ。
 何が嫌いかというと「みたして」「慎んで(も)」「拡げ」という中途半端な動詞の形が嫌いである。「語りきっていない」感じがする。「語りきる」まえに、「開いている」。入れ替えの準備を作者の方でしている。「語った/聞いた」を作者が強要している。言い換えると、「どう聞いたか」を問いかけながら語っている。
 それは「みじろぎもせず/みたして/見しらぬおひとが」という「音楽」のつくりかたそのものにもあらわれている。どの音を聞いた?としつこく質問してくる。

はらはらと はらはらと
かぜをあつめ あつめてはあられもなく ぽっと 頬を
そめ しどけなくうつむいては
また あわててそえる 夕陽のみぎわ の そのむかし     (春の落ち葉)

 こういう「音」のつらなりは、私はどうも生理的に受け付けることができない。「あつめ」「あつめては」「そめ」「うつむいては」という中途半端な動きを「はらはら」「あられ」「しどこなく」という「美しい」と思われていることばで隠す。「聞こえるか/聞いているか」と押しつけられている気がする。こういうところは荒川とは違うかなあ。荒川はもっと「語り」に徹する。荒川の「肉体」のなかの「音」を「聞いて/語る」。川上は「語って/聞く」、自分の「語った」音に酔うところがあるのかもしれない。だからしつこくなる。

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*


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キム・ジウン監督「密偵」(★★★★)

2017-11-27 00:33:24 | 映画
監督 キム・ジウン 出演 ソン・ガンホ、コン・ユ、ハン・ジミン、鶴見辰吾

 日本が統治する1920年代の朝鮮半島が主要な舞台なのだが、どこで撮影したのだろう。なんとなくセットっぽく見える。そして、この「セット感覚」がなかなかおもしろい。リアルというよりも作り物、作り物だけどリアルを装う。その嘘と現実の感覚が、ストーリーにぴったりあっている。だれがほんとうのことを言っている? ほんとうの密偵はだれ? だましているのは、どっち? 最初の、逃げる男を警官が追いかけるとき、道ではなく屋根の上を走るというのは「忍者」みたいで、そういう「嘘っぽさ」もなかなかい。信じちゃいけないよ、と観客に言うことで、「虚構」を完璧にする。「信じろ」といわれるより、「信じちゃいけない」と言われた方が、「ほんとうなんじゃないか」と思ってしまうからねえ。
 映画のクライマックスは、列車の中になるのかなあ。逃げ場がないところで、どう戦い、どう知られざる「密偵」を探り出すか。わざと嘘の情報を流すという、まあ「スパイもの」の「定番」トリックなんかもつかわれている。うーん、そこは「安心」して見ていられるのだけれど、ちょっと「虚構性」からオリジナルなものが消えるのが惜しいかなあ。
 サッチモの音楽、ボレロの音楽のつかい方も、まあ、「定番」だねえ。「世界」に売り込もうとすると、どうしてもそういう音楽の選択になるのだと思うけれど、オリジナルで勝負してほしかったなあ、という気がする。

 ということは別にして。
 映画を離れて、いろいろ考えてしまった。
 主人公は日本の警察の中で「地位」を確立している韓国人。韓国人にとっては「裏切り者」だね。その彼をどう「韓国独立派」の方へ引き入れるか。「裏切り者」を「密偵」として利用できないか、ということを中心に映画は動いてく。
 いまは「裏切り者」だけれど、「民族の血」が最終的に主人公を寝返らせる、ということを期待して独立派集団が主人公に接近していく。なぜ、「裏切り者」であるとわかっていて接近してくるのか、主人公はいぶかるのだけれど、その接近を利用すれば「手柄」を立てることができる。さらに出世できるという思いもあって、揺れ動きながら交渉をつづける。
 これからあとのことは、書いても書かなくても、どうでもいいことだが。
 ここに描かれているようなことは、日本が朝鮮半島を統治していたとき、さまざまにおこなわれていただろうと思う。「密偵」になったひとは、どうなったのだろう。深い心の傷がいつまでも残っただろうと思う。
 主人公のように、最終的に「日本側」から独立派へ変わった人間にしても、「日本側の密偵」をやっていたときの苦悩は尾を引くだろう。
 そういうことを、いま安倍があおっている「北朝鮮の脅威」と結びつけると、安倍が見落としているものが見える。
 安倍は「北朝鮮の脅威」を言うけれど、また現実に北朝鮮と韓国は国境を挟んで対立しているけれど、北朝鮮が韓国に侵攻する(戦争をしかける)というようなことはあるだろうか。同じ民族なのに、戦うということはあるだろうか。たぶん、多くのひとが苦悩し、また実際には戦争などしないだろうなあと思う。
 朝鮮民族が戦うとしたら、彼らを「分断しているもの」と戦うことになると思う。簡単に言いなおすと、南北朝鮮という「世界戦略図」をつくった国との戦いになるだろうなあ。韓国は日本同様アメリカの支配下にあるように見える。言いなおすと、戦いを「宣告」するとしたら、それは「韓国」ではなく「北朝鮮」であり、相手は「アメリカ」だね。「韓国にいるアメリカ」だね。
 日本が北朝鮮から攻撃されるとしたら、それはアメリカの基地があるから、というだけのこと。「韓国にいるアメリカ」は「日本にもいるアメリカ」である。
 もし不幸にして戦争がはじまったとしたら韓国にもアメリカ軍の基地があるから、韓国も戦場になるだろう。そのとき、軍人はどう動くのかなあ。北朝鮮と韓国の兵士はたがいに殺し合うか。「抵抗」があるだろうなあ。どうしても、そこで戦うのは「アメリカ兵対北朝鮮兵」ということになるだろう。「アメリカ軍」には「集団的自衛権」を憲法違反ではないと言った「日本軍(自衛隊ではなくなっているね)」が加担することになるだろう。そのとき、韓国人はどう思うかなあ。「韓国のために日本が戦ってくれている」と思うだろうか。この戦争をきっかけにして「日本の統治」がふたたびはじまると思うだろうか。不安や、憎しみがつのるだろうなあ。不安や憎しみをもったひとたちのなかで、「日本軍」は「アメリカ軍」と協力できるだろうか。「韓国軍」は「アメリカ軍」とは協力しても「日本軍」とは協力したがらないだろうなあ。日本が朝鮮半島に侵攻しなければ、朝鮮民族の南北分断ということも起きなかっただろう。戦争がはじまれば、「反日感情」はいっそう強くなるだろう。
 安倍は、人間の、ひとりひとりの「感情」というものを見落としている。いや、「ひとりひとりなんてどうでもいいと思っているから「独裁」を目指すのだろうけれど。
 映画の中では、日本の「指揮官」は最後は殺される。「指揮官」には実際に「殺し合わなければならない個人(ひとりひとり)」がわからないから、その「ひとり(個人)」に反撃される。人間は、自分が「ひとり」であることを忘れると、「ひとり」に反撃される。「国家」ではなく「ひとり」に。「ひとり」という存在は、絶対になくならないものである。

 「北朝鮮の脅威」を言う前に、近隣の国との「完全な和解」が必要なのだ。戦争で「脅威」をたたきつぶせば「平和」が確立されるわけではない。いつまでもいつまでも「憎しみ」が残る。それは必ず「反撃」してくる。
 「ひとりひとり」の感覚が大事なのだと、映画を見ながら思った。 
(KBCシネマ2、2017年11月25日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/


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