夏目美知子「雨についての思索を一篇」(「乾河」80、2017年10月01日発行)
私がおもしろいと思うことばと、作者がおもしろいと思っている部分は違うかもしれない。
夏目美知子「雨についての思索を一篇」。
「どうかしている…」と、雨を詰(なじ)る。すると、思いがけず、気づいた時には雨が止んでいる。その不思議な関係。これを私は「取り残された構造」と感じた。夏目は、そのことを「取り残された構造」と呼んでいるのだと思った。
雨をなじった。その「なじり」を聞いて、いつのまにか雨が止んでいた。ふともらしたことばに相手が反応して、こたえるような感じ。はっきりした「関係」はわからない。すぐにではなく、「気がつけば」なのだから。「思いがけず/気づいた時」とは「いつの間にか」ということだろう。「間」がある。「間」とは「あいだ」であり「関係」だ。その「間」「関係」ははっきりとは定義できない。こういうとき「間(ま)」は「魔(ま)」かもしれない。ことばにできない。
だから、妙に「堪える」。不思議な形で「肉体」に響いてくる。「関係ない」と思ってもいいのだが、「関係ある」と思うと、その「関係」をはっきりさせたくなる。
「堪える」という動詞は、なかなか解釈がむずかしい。説明がしにくい。何かが働きかけてくる。それを持ちこたえる。受け止める。そこには耐える、とか、我慢する、ということもふくまれるかもしれない。それが転じて、こたえられない(気持ちがいい)になるかもしれない。(セックスなんかが最後の例だね。)
こんな、あいまいな、反対の意味さえ含んでいるような「ことば」が、そのまま「なじる」、「反応がある」、というような「構造」となって、一日をつくっているように感じられる。
なじっていた雨がやんだということに気づいたというよりも、なじったら雨がやんだであるかもしれない。そういう雨と私、対象と私の関係、つまり「構造」が、「堪える」。肉体に響いてくる。
うーん、たまらない。これは、無意識のセックス。こういうところが、私はとても好き。でも、私が感じたことは「誤読」かもしれない。夏目は違うことを書きたいのかもしれない。
「堪える」が「縺れる」「ほどける」(解く)という具合に「構造」として比喩化されている。私は、なんとなく「違う」と感じてしまう。
途中に、
という二行が出てくる。
これを中心点にして、ことばの世界が「一転」していることになる。不透明な「肉体」が「感情」に整えられ、それが「比喩」という「抒情」にかわる。「昇華する」という言い方もある。夏目が狙っているのは、それかもしれない。けれど私は、「抒情」にならないまま、「あいまい」なまま、ことばが動いている方に魅力を感じる。
私がおもしろいと思うことばと、作者がおもしろいと思っている部分は違うかもしれない。
夏目美知子「雨についての思索を一篇」。
目覚めた時、外はもう雨だった。そのうち止むだろうと
思っていたが、同じ強さで、いつまでもいつまでも降り
続いた。無表情な雨だ。一日が、閉ざされたように重く
暗く、「どうかしている…」と、独り言が出る。雨を詰
る。
それが、思いがけず、夕方遅く止んだ。止んだことに気
づいた時には、既に西日の最後の柔かな光が窓ガラスの
端に映っていた。そして夜になると、庇と庇の間にみず
みずしい満月さえ上がった。
ありふれた一日だが、取り残される構造が、堪える。何
かの反映かと。つまりそういうことなのだ。いつも空回
りに気づかないでいるだけなのだろう。
「どうかしている…」と、雨を詰(なじ)る。すると、思いがけず、気づいた時には雨が止んでいる。その不思議な関係。これを私は「取り残された構造」と感じた。夏目は、そのことを「取り残された構造」と呼んでいるのだと思った。
雨をなじった。その「なじり」を聞いて、いつのまにか雨が止んでいた。ふともらしたことばに相手が反応して、こたえるような感じ。はっきりした「関係」はわからない。すぐにではなく、「気がつけば」なのだから。「思いがけず/気づいた時」とは「いつの間にか」ということだろう。「間」がある。「間」とは「あいだ」であり「関係」だ。その「間」「関係」ははっきりとは定義できない。こういうとき「間(ま)」は「魔(ま)」かもしれない。ことばにできない。
だから、妙に「堪える」。不思議な形で「肉体」に響いてくる。「関係ない」と思ってもいいのだが、「関係ある」と思うと、その「関係」をはっきりさせたくなる。
「堪える」という動詞は、なかなか解釈がむずかしい。説明がしにくい。何かが働きかけてくる。それを持ちこたえる。受け止める。そこには耐える、とか、我慢する、ということもふくまれるかもしれない。それが転じて、こたえられない(気持ちがいい)になるかもしれない。(セックスなんかが最後の例だね。)
こんな、あいまいな、反対の意味さえ含んでいるような「ことば」が、そのまま「なじる」、「反応がある」、というような「構造」となって、一日をつくっているように感じられる。
なじっていた雨がやんだということに気づいたというよりも、なじったら雨がやんだであるかもしれない。そういう雨と私、対象と私の関係、つまり「構造」が、「堪える」。肉体に響いてくる。
うーん、たまらない。これは、無意識のセックス。こういうところが、私はとても好き。でも、私が感じたことは「誤読」かもしれない。夏目は違うことを書きたいのかもしれない。
何時止むと決まった雨なら、
私はタイマーをかけておきたい。
そして出来るなら、その間に、
縺れてほどけない糸を、
はらりと、解きたい。
「堪える」が「縺れる」「ほどける」(解く)という具合に「構造」として比喩化されている。私は、なんとなく「違う」と感じてしまう。
途中に、
けれど、私はやはり悲しかった。
何者でもないのだと思って。
という二行が出てくる。
これを中心点にして、ことばの世界が「一転」していることになる。不透明な「肉体」が「感情」に整えられ、それが「比喩」という「抒情」にかわる。「昇華する」という言い方もある。夏目が狙っているのは、それかもしれない。けれど私は、「抒情」にならないまま、「あいまい」なまま、ことばが動いている方に魅力を感じる。
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