たなかあきみつ『アンフォルム群』(七月堂、2017年09月30日発行)
たなかあきみつ『アンフォルム群』の作品群は、「息が長い」文体で書かれている。
[振りかざすナイフの刃に似た鳥の風切り羽(レミージュ)……] は二部構成。前半の「Ⅰ 濃霧のプラグを引き抜いて」の一連目。
「息が長い」というよりも、「息が余っている」のかもしれない。「息」が余っていて、「声」になってしまう。「ことば」になってしまう。「ことば」が多くなってしまう。--というのは、しかし、私の「誤読」だろう。田中は「多く」を書きたい、ことばにしたいのだろう。私はときどき、その「多さ」に混乱するが、「多い」ことが田中のリズムなのだから、ここでつまずいていたら田中の詩の中へは入っていけないかもしれない。と、思うけれど。
でも、やっぱり気になる。
この行の「褪色し」と「色褪せる」は、かなりしつこい。違う存在の中にある、同じ「動詞」を繰り返すことで、「動詞」そのものの中へ入っていくというのなら、こういう書き方があってもいいかもしれないと思うけれど。「やおら」と「文字通り」も、次のことばを待ちきれずに「息」が「声(ことば)」になってしまった感じがする。「褪色し」と「色褪せる」というのは、新しいことばを待ちきれずに、ついつい動いてしまう「喉」があるからなのだろう。
「息は長い」、けれど「気は短い」。
慣れてくると(?)、これはこれで「快感」だけれど、慣れるまでがなかなかたいへんである。私なんかは、ついつい、よそ見をしてしまう。
この部分など、目がちらちらして「郵送したい」と言っている「主語」の存在を忘れてしまいそうになる。そのあとに、
で、あ、「主語」がいたんだ思い出し、思い出した瞬間に、「首を振りつつ」と「申し立てる」のふたつの「動詞」でまた集中力がなくなってしまう。
私のような老人には、かなりつらい文体である。
私が好きなのは[とある美術館の、人工皮革の黒いソファーたち……]の一連目のような文体。
「ソファー」の繰り返しが、溢れ出ることばを、溢れ出させながら引き止めている。そして、その「係留」のなかに「時間のロープ」とか「欠伸」という「抽象」と「具象」がまじりあったことばが動く。「欠伸のようにずれた」という比喩は、誰も座っていなソファー、「空席のソファー」を「肉体の直喩」にかえてしまう。ソファーと肉体が、その瞬間、入れ替わってしまう。
[新型コロナウィルスの電子顕微鏡写真が放映されるたびに……]の、
「乗合バス」と「柿の木坂」の呼吸の仕方もいいなあ。「息の長さ」がとても効果的だと思う。でも、これは私が年寄りだからかもしれない。若い人は、こんなことばに「和音」を感じることはないかもしない。
詩集には、「外国語」の音もたくさん出てくる。私は耳に聞いたことがないことばは苦手だ。自分で「声」に出せないことばは、意味がつかめない。詩は意味ではないとは思うが、それも私はつらく感じてしまう。
たなかの「翻訳」を読んでいるときは、これは翻訳なのだと思うから(もとは外国の音なのだと思うから)、聞き取れなくても「耳をそばだてる」(耳に神経を集中する)ときの昂奮があるが、日本語なのに(翻訳ではないのに)という意識が動くと、どうもつらくなる。
[ともすればスクラップ・アンド……]の、
こういう展開は、とても気持ちがいいが、これも私はここに書かれている「カタカナ」を自分で言ったことがあるからだなあ、と思う。
「眼球」から始まり、「ゴーグル」を経由して「眼光」「眼精」「眼帯」とつづくと、「ゴーグル」という「音」に「眼」という「文字」をあてはめたくなる。「眼」と聞こえたような気がする。
詩集のなかでは、この行の展開がいちばん私の好きな部分。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
たなかあきみつ『アンフォルム群』の作品群は、「息が長い」文体で書かれている。
[振りかざすナイフの刃に似た鳥の風切り羽(レミージュ)……] は二部構成。前半の「Ⅰ 濃霧のプラグを引き抜いて」の一連目。
振りかざすナイフの刃に似た鳥の風切り羽(レミージュ)……
吊す鉤がやおら褪色し文字通り血潮が色褪せる死の鋸の目立て
Arz.氏の友人たる元高校教師の夫の死亡証明書を
簡易書留で郵送したいと郵便局の窓口で思わず首を振りつつ申し立てる
彼女の右に左に首の振りようはこの一年でますます激しくなった
「息が長い」というよりも、「息が余っている」のかもしれない。「息」が余っていて、「声」になってしまう。「ことば」になってしまう。「ことば」が多くなってしまう。--というのは、しかし、私の「誤読」だろう。田中は「多く」を書きたい、ことばにしたいのだろう。私はときどき、その「多さ」に混乱するが、「多い」ことが田中のリズムなのだから、ここでつまずいていたら田中の詩の中へは入っていけないかもしれない。と、思うけれど。
でも、やっぱり気になる。
吊す鉤がやおら褪色し文字通り血潮が色褪せる死の鋸の目立て
この行の「褪色し」と「色褪せる」は、かなりしつこい。違う存在の中にある、同じ「動詞」を繰り返すことで、「動詞」そのものの中へ入っていくというのなら、こういう書き方があってもいいかもしれないと思うけれど。「やおら」と「文字通り」も、次のことばを待ちきれずに「息」が「声(ことば)」になってしまった感じがする。「褪色し」と「色褪せる」というのは、新しいことばを待ちきれずに、ついつい動いてしまう「喉」があるからなのだろう。
「息は長い」、けれど「気は短い」。
慣れてくると(?)、これはこれで「快感」だけれど、慣れるまでがなかなかたいへんである。私なんかは、ついつい、よそ見をしてしまう。
簡易書留で郵送したいと郵便局の窓口で
この部分など、目がちらちらして「郵送したい」と言っている「主語」の存在を忘れてしまいそうになる。そのあとに、
思わず首を振りつつ申し立てる
で、あ、「主語」がいたんだ思い出し、思い出した瞬間に、「首を振りつつ」と「申し立てる」のふたつの「動詞」でまた集中力がなくなってしまう。
私のような老人には、かなりつらい文体である。
私が好きなのは[とある美術館の、人工皮革の黒いソファーたち……]の一連目のような文体。
とある美術館の、人工皮革の黒いソファーたち、
館内のソファーはその時たまたま全部空席で
若干の体躯の凹みのあるソファーもあれば《時間のロープ》上の
アイマスクの定位置から、欠伸のようにずれたソファーもある
「ソファー」の繰り返しが、溢れ出ることばを、溢れ出させながら引き止めている。そして、その「係留」のなかに「時間のロープ」とか「欠伸」という「抽象」と「具象」がまじりあったことばが動く。「欠伸のようにずれた」という比喩は、誰も座っていなソファー、「空席のソファー」を「肉体の直喩」にかえてしまう。ソファーと肉体が、その瞬間、入れ替わってしまう。
[新型コロナウィルスの電子顕微鏡写真が放映されるたびに……]の、
《乗合バス》というフレーズを耳にしなくなって久しいその秘文字
はセピア色の柿の木坂の絵葉書にインクの染みのように滲んでいる
「乗合バス」と「柿の木坂」の呼吸の仕方もいいなあ。「息の長さ」がとても効果的だと思う。でも、これは私が年寄りだからかもしれない。若い人は、こんなことばに「和音」を感じることはないかもしない。
詩集には、「外国語」の音もたくさん出てくる。私は耳に聞いたことがないことばは苦手だ。自分で「声」に出せないことばは、意味がつかめない。詩は意味ではないとは思うが、それも私はつらく感じてしまう。
たなかの「翻訳」を読んでいるときは、これは翻訳なのだと思うから(もとは外国の音なのだと思うから)、聞き取れなくても「耳をそばだてる」(耳に神経を集中する)ときの昂奮があるが、日本語なのに(翻訳ではないのに)という意識が動くと、どうもつらくなる。
[ともすればスクラップ・アンド……]の、
ともすればスクラップ・アンド
スクロール・アンド
スキャン・アンド
眼球・アンド
ゴーグルよ眼光・アンド
眼精疲労にして眼帯・アンド
こういう展開は、とても気持ちがいいが、これも私はここに書かれている「カタカナ」を自分で言ったことがあるからだなあ、と思う。
「眼球」から始まり、「ゴーグル」を経由して「眼光」「眼精」「眼帯」とつづくと、「ゴーグル」という「音」に「眼」という「文字」をあてはめたくなる。「眼」と聞こえたような気がする。
詩集のなかでは、この行の展開がいちばん私の好きな部分。
ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集 | |
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ふらんす堂 |
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。