詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤本哲明『ディオニソスの居場所』

2017-11-10 08:38:05 | 詩集
藤本哲明『ディオニソスの居場所』(思潮社、2017年10月25日発行)

 藤本哲明『ディオニソスの居場所』の巻頭の詩、「九月一匹」に非常に気になる行がある。

有瀬潤和の
駐車場で、いつだったか六月下旬
誰だかのまき散らした吐瀉物を
カラスらしき鳥が啄ばんでいただろう

その吐瀉物と青黒いカラスを
背後から照らす朝のひかりをおまえにも見せたかった

 なぜ気になったか。いや、何が気になったか。「なぜ」の前に「何」がある。
 私は、この部分がとても好きだが、「啄ばんでいただろう」の「だろう」と、「朝のひかりをおまえにも見せたかった」の「をおまえにも見せたかった」がなければ、もっと好きになる。
 吐瀉物を食べるカラス。それを照らす朝のひかり。これは美しい。吐瀉物が美しいわけではない。これは汚い。カラスも美しいわけではない。汚い。朝のひかりは、まあ、美しいかもしれない。でも、それだけで汚いものふたつが美しいものに変わるだろうか。
 なぜ、美しいと感じたのだろう。
 「背後から照らす」ということばに、不思議な力を感じた。
 「背後から」というのはカラスの知らないところ(カラスには見えないところ)。意識できないわけではないだろうけれど、意識の外にある「絶対的」な何か、非情な何か。このときの「非情」というのは、カラスの「情」を配慮しないという意味であり、「非情」であることによって「絶対的」になっているものが、そこに「ある」ものを照らす。明るみに出す。「照らす」ことによって、「ある」を産み出している。その「産み出し方」が「絶対的」と感じた。照らされて、「もの」が絶対的になり、ひかりと拮抗する。
 「照らされて」、カラスは黒い鳥から「青黒い」にかわる。「青」が付け加えられる。それが「ひかり」をさらに「絶対的」なものにする。相乗の「運動」が起きる。この「運動」こそが「絶対」というものだ。
 そういうものを感じた。
 これに対し、「だろう」という「念押し」、「見せたかった」という「思い」が、なんとなく「不純」に感じた。「おまえ」なんかに頼らずに、たったひとりで、いま、ここに「ある」絶対と向き合えばいいじゃないか。向き合うことで、その「絶対」になってしまえばいいじゃないか、と思った。「だろう」「見せたかった」が「何を」を弱めてしまう。「もの(存在)」が、感情、意識にすりかわってしまう。
 別なことばで言うと。というのは、飛躍であり、「いちゃもん」にすぎないのだが。
 こんなところで、「おまえ」に頼るな。「他人」を出してくるな、と感じた。「他人(おまえ)」が登場すると、それまでの「絶対」が消えて、そこにあることが「関係」になってしまう。「抒情」になってしまう。昂奮が冷めてしまう。

 こういう書き方は藤本にとっては「不親切」な書き方になってしまうが。
 何と言えばいいのかなあ。詩が、「他人」の登場で「物語(ストーリー/意味)」になってしまうようで、それでは「古くさくなる」。既存の「意味」/ストーリー」にのみこまれてしまう。
 藤本自身が、吐瀉物を拾い食いするカラス、その青黒い翼になって、「絶対的」な何かによって「照らされ」るチャンスを逃してしまった。「絶対」になる瞬間を逃してしまった。

 「水没宣言」の書き出しも、とても気に入った。

うつろな焦燥から、その「焦燥。」という文
字を書きつけることに追いつかれること/も
しくは追いぬかれる希望、からも同時に逸れ
た場所で、ぼくたちは息を吸い込み/吐きま
た吸い込み、濾過されもした

 文字を書くのは「ぼく」だろう。その「ぼく」が追いつかれ、追い抜かれる。それを「希望」と感じる。この関係が「逸れる」という動詞でリセットされ、無関係になる。
 この「関係」と「無関係」は、吐瀉物を食べるカラスを照らすひかりと、ひかり照らされる吐瀉物、カラス、青黒い色の関係に似ている。相対化も固定化もできない。そこにただ「ある」。ことばによって産み出された「こと」として、そこにあらわれている。

 「物語」という「抒情」に入り込まずに、このまま「いま」を突き破っていってほしいなあ、と思う。

ディオニソスの居場所
クリエーター情報なし
思潮社

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