詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

星野元一『ふろしき讃歌』

2017-11-13 11:21:07 | 詩集
星野元一『ふろしき讃歌』(蝸牛社、2017年07月25日発行)

 星野元一『ふろしき讃歌』は、どの作品を読んでも「なつかしい」。書かれていることは星野の体験なのだが、おなじことを私の肉体が覚えている。
 「ふろしき讃歌」は、こういう書き出し。

ふろしきには
弁当が包まれていた
砂利道を子どもたちは駆けて行った
飯もお数もみんな踊って
背中まで染みだらけになった
教室の中は
漬菜と味噌漬の臭いがした

 昔は密閉式の容器なんてなかった。どうしても「汁」がもれだす。ふろしきに「染み」ができる。これは、すぐわかる。そのつづきで「背中まで染みだらけになった」も想像がつく。(私は、ふろしき包みで学校へ通った経験はないから、ここは想像。)
 そのあと、

教室の中は
漬菜と味噌漬の臭いがした

 これが、なかなか書けない(と、思う。)
 この行を読みながら思い出したことがある。冬になると教室にストーブがはいる。そこに弁当を載せる。温める。冷たいごはんは食べるのがつらいからね。そうすると、あたたまった弁当から匂いが出てくる。たくあんの匂い。
 それは、なんというか(両親にはもうしわけないが)、「貧乏の匂い」である。おかずが「つけもの」しかない、あるいは「つけもの」がかならず入っている。おかずを増やすために。そのことが「匂い」でわかる。
 この「匂い」というのは、「形」になって残らないけれど、「肉体の奥」にずーっと残っていて、「あ、これは〇〇の匂い」という具合によみがえってくる。「匂い」だけではなく、家での食事の「情景」までひきつれてよみがえってくる。
 それがまた「貧乏の肉体」という感じなんだなあ。むかしはみんな貧乏だから、貧乏を気にしなくてもいいのかもしれないけれど、たくあんの強い匂いの違いで、あ、あれは私の家のたくあんだとわかったりする。その「私の家の匂い」というのが、「恥」のように体の奥を熱くする。
 そんなことを思い出したりする。
 ふろしきは、子どもだけがつかうのではないから、詩にはいろんなふろしきが出てくる。

ふろしきは
富山の薬屋さんも背負って来た
薬はみんなサンコウガンの匂いがした
ほしいのは蜃気楼の海と
おまけの紙風船だったのに

ふろしきは
一張羅の着物も包んだ
ヤミ米が背負われて帰って来た
ドブロクも一升瓶になってぶらさがった

 とか。
 いろいろ出てくるが、やっぱり弁当を包んだふろしき、漬け物の匂いのしみついたふろしきがいちばん印象的だなあ。
 と書きながら思うのだが。
 私の書いている感想は、ふろしきよりも漬け物の匂い、教室に充満する匂いの方に「重心」が移ってしまっている。ほとんどふろしきを無視しているね。
 でも、こういうことが「詩」なんだろうなあ。
 「ふろしき」は、いわば「古い時代の象徴/比喩」(私はほんとうは「貧乏の比喩」と呼びたい)だけれど、その「比喩」をくぐると、ふろしきから、ふろしき以外のものが生まれてくる。ふろしきを広げたら「昭和」が出てきたという感じかなあ。ふろしきが漬けと一体になる、いれかわってつけものそのものになるということを通り越して、そこから次々に世界が生まれてくる感じ。
 この、「対象」そのものではなく、そこから「生まれてくる」何かに「はっ」と気づき、それを追いかけて、「肉体」が暴走する。星野が書きたかったことは、私が追いかけているものとは違うものかもしれない。けれど、私は星野の書きたかったものなんか気にしないで、ただ自分の思い出したいものだけを思い出す。この瞬間に「詩」が動いていると、私は思う。

 でも。
 星野が書いていることは、ほかの世代につたわるかどうか。たとえば、「夏の管」の次のような連。

ヒトも管だ
ミミズから学んだのだ
米と味噌と菜っ葉を詰め込んで
ヒトも生まれたかったのだ
たいがいのやつは
牛となって鼻輪をつけられ
馬になって尻をたたかれたが

 子どもは「ヒト」になりたかった。けれど、牛、馬のように(比喩だね)、田んぼや畑の仕事に駆り出された。さすがに「ミミズ」は比喩としてつかわれていないが、実質は土を耕すミミズかもしれない。土地に縛りつけられ、そこで生きていくしかなかった。
 その「管=ミミズ」も「時代の流れ」でたいへんなことになっている。

管は今や
巨大なヒューム管だ
塩ビ管やスチール管にもなって
地球に絡みついている
呑み込んでいるのは
お寺の鐘とお地蔵様と
夕やけ小やけのムラだ
吐き出されて行く街も
やがては消えて行くのだが

 過疎化が進み、ひとはどんどんいなくなる。「ムラ」が消滅し、「ムラ」から出て行った先の「街」もまた次々に消滅しようとしている。
 私のふるさとでは、小学校も中学校もなくなった。「街」の近くの学校に統合されている。その「街」さえも人口の減り方が激しい。私が小学生のころは7万人いたが、5万人を切っている。実感としては、半分の3万5千人くらいの印象である。
 星野は単に「昭和」をなつかしんで書いているのではなく、そこには「批判」も含まれているのだが、この批判は、「その土地」に住んでいる人以外には共有されないかもしれない。政治が「地方都市」を切り捨てることで動いている。「なつかしさ」にひきずられて読み始め、読み進むにつれて、そういうことも思う。

 脱線すると。
 加計学園の獣医学部新設。国家戦略特区とか何とか言っているが、最終的には愛媛県にも今治市にも「恩恵」などもたらさないだろう。どうみても、そこで暮らしている人(今治市民)の求めに応じてつくられるものではないからだ。今治特有の「産業」を活性化するためにつくられるものではない。
 星野がつかっている比喩を借用すれば、新設される獣医学部は単なる「管」だ。その「管」のなかを「学生」と通り抜け、吐き出されていく。「ミミズ」になって今治市、愛媛県を耕すわけではない。強烈な農薬のように、一瞬、その土地に実りをもたらすだろうけれど、そんな土地は結局疲弊して、どんな野菜も育てられなくなる。
 獣医学部の学生、教官が今治市、愛媛県に瞬間的に集まったとしても、ほかの人たちが今治市、愛媛県を棄てて、「都会」へと出て行く。卒業する学生と一緒に出て行く人もきっといる。

 星野が意図したことではないかもしれないが、読み進むと、だんだん、いまの社会に対して怒りが込み上げてくる詩集でもある。星野は怒りを声高に訴えているわけではないが、小さな声で書かれた「批評」に揺さぶられる詩集でもある。

星野元一詩集 (新・日本現代詩文庫)
クリエーター情報なし
土曜美術社出版販売
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