詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

日本政府の「歴史感覚」(情報の読み方)

2017-11-09 10:18:20 | 自民党憲法改正草案を読む
日本政府の「歴史感覚」(情報の読み方)
産経新聞に、こういうことが書いてある。
http://www.sankei.com/politics/news/171107/plt1711070043-n1.html
 安倍晋三首相とトランプ氏は6日の会談で、北朝鮮に対し「最大限の圧力」をかけるために日米韓の連携の重要性を確認したばかりだった。日韓間の問題を持ち出して緊密な日米関係に水を差し、米韓の距離を縮めることを狙ったような韓国の動きに対し、日本政府内には「信じられない」「韓国はいったい何がしたいのか」といった強い不快感とあきれが広がっている。
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「日本政府」の関係者はノーテンキだなあ。
韓国は米国とは連携するが、日本とは連携しない。
日本はかつて朝鮮半島を侵略した。
日本人を信じない、ということをトランプに宣言したのである。
日本が朝鮮半島を侵略しなければ(第二次世界大戦を起こさなければ)、朝鮮半島の分断、民族の分断もなかったかもしれない。
少しは、「もし自分が朝鮮半島に住んでいたら」という視点で歴史を見直してみればいい。
韓国にしてみれば、日本は韓国を踏み台にして(韓国を北朝鮮との戦場として利用し)、日本の安全を守ろうとしているとしか見えないだろう。
日本の戦後復興の「出発点」は、朝鮮戦争の「軍需特需」である。
そういうことも韓国は知っている。
日本が対韓政策を根本的に変えないかぎり、韓国は日本とは連携など絶対にしない。
日米が連携するのだから、その米国と連携する韓国は日本とも連携すべきであるというのは、日本政府の「思い上がり」である。
韓国の協力が必要なら、日本は頭を下げて韓国に頼むべきなのである。
韓国人なら、そう思って当然だろう。


詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」

2017-11-09 10:16:00 | 詩(雑誌・同人誌)
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」(「交野が原」83、2017年09月01日発行)

 疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」は書き出しの二行の呼吸がとてもいい。

あの蛇口から垂れた水滴の内側まで覗いてはいけない、
なぜなら中心に赤い町が透けているのだから、

 「……いけない」「なぜなら」。禁止と、その理由。たたみかけるリズムがいい。これを受けて三行目は、こう動く。

それは不気味な不気味な、耳をすませば窓の割れる音が聞こえる、青い音の、

 「それは」ということばを利用して、世界を広げていく感じも気持ちがいい。リズムがことばを動かしている。だから、ついつい「不気味な不気味な」という「ノリ」になるのだと思う。
 ことばと肉体、論理とリズム(呼吸)が一体になっている。
 一、二行目が「覗いてはいけない」「透けて(見える)」という具合に、視覚の世界だったのが「耳」に拡がっていくのもいいなあ。せっかく「聴覚」へと肉(ことば)体の領域が拡がったのに、「青い」音と、また「視覚」にもどってしまうのは残念ではあるけれど。

僕はあれほど言われた忠告も聞かずに、ろくな睡眠もとらないまま、
今ではひらべったくなった軒下で、屈伸ばかり続けている朝、
蟻やてんとう虫がちらつく歩道に寝そべり、その水道に鼻を近づけては、
もう冷めてしまった白湯を置いて、ときどき欠伸して、
涙目になって赤い町を覗いている、水中で燃えるような赤い町、
電柱に立ち止まる子供たちはただ笑い、遠くで赤い鐘が時間を知らせている、

 うーん、「肉体」があっちへ行ったり、こっちへ来たり。散漫だなあ。強い統合力が、次々に感覚器官(肉体)を貫いて、その先に「新しい世界」が誕生するというのとは、少し違うね。
 がむしゃらに動き、息が弾んでいる感じ。
 これはこれで、若さの特権だ。

 で。

 なぜ、ここまで引用したかというと。
 「青い音」が、「赤い鐘」と変化しながらからみあっているところに、「おもしろみ」を感じたのだ。あ、これが疋田の思想か、と「誤読」したくなるのである。
 「赤い鐘」は「鐘」そのものが赤いのではなく、「鐘の音」が赤いのだと思う。そして、このとき疋田は、実は「音」を聞いていない、というのが私の印象である。
 最初、「視覚」が「聴覚」に拡がる、肉体が拡がるというようなことを書いたけれど、ここまで読んで、違うのだと感じた。疋田は「音」を聞いていない。「色」をみているだけである。いつも「視覚」へ引き返していく。「視覚」が「声」を引っぱりだすように動いている。「声」を「視覚」が急がせている。それが「不気味な不気味な」というような「リズム」をつくっている。その「リズム」は、この詩では読点「、」によって視覚化されているとも言える。
 途中に出てきた「白湯」は「さゆ」と読むだろうから、「音/声」にしてしまうと「白」は消えるが、文字の中には「白」がある。そして、この詩の中にはこのあと「白濁」ということばも出てくる。疋田は、赤、青、白を、見ている。
 それは「分光」かもしれない。
 プリズムを通って光が分解する。そんな感じで、「水滴のなかの町」を分解し、見ている。
 見る/見えるということ、視覚(目)にこだわりがあるのかもしれない。
 この「視覚」至上主義が、「……いけない/なぜなら」という「論理」でもう一度統合し直されるとおもしろいだろうなあと感じた。まだ、「色理論」が生まれていないが、もしかすると、と期待したくなるのである。





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