林和清『去年マリエンバートで』(書肆侃侃房、2017年10月15日発行)
林和清『去年マリエンドートで』は歌集。最近の、若い人の歌集とは少し違う。いや、かなり違うかなあ。
巻頭の一首。「あけぼののやうやうしろき山際を」は「枕草子」を踏まえている。この「古典を踏まえたことば」という部分が、最近の短歌とは大きく異なる。
どんなことばも、それぞれ「過去」を持っている。「過去」はことばの可能性を縛る。だから、「過去」を断ち切って、最近のひとはことばを動かすのだろう。もちろん、断ち切っても、断ち切っても、「過去」からことばはよみがえってくる。断ち切っているようで断ち切っていない。断ち切っていないのに断ち切ったつもりになっている。どんな世界で起きることだけれど。
林は、こういうことに対して自覚があるのだろう。断ち切ったつもりが断ち切れていないなら、断ち切るのではなく逆に接続を強くする。そうすると、接続できないものが見えてくる。接続できないもの、といっても、ことばに接続できないものはない。どうしても接続してしまうのがことばなのだけれど。
「リビング」くらいでは、単なる「名詞」の衝突。こういうことばは「やうやう」と同じように、アクセサリーになってしまう。
などということを思いながら。
「朝の茶」。うーん。これが、おもしろい。この「朝の茶」って、何? 緑茶? いわゆる日本茶? それともコーヒー? あるいはモーニング・コーヒーなんだけれど、ことばの数をあわせるために「朝の茶」と言ってみただけ? 「茶」だからコーヒーはありえない? そうかなあ。「あけぼののやうやうしろき」は、それでは、どう? 「現実」を「すでにあることば」で整えているだけであって、それは林の「オリジナル」ではない。つまり、そこには林はいても、それは林ではないということが起きている。そうであるなら、そこに「朝の茶」と書かれていても、それは「茶」ではないということが起きていてもいい。コーヒーなんだけれど、こういうときは「朝の茶」という方が世界が整う、という感じで。「リビング」に重きを置けばコーヒー、「あけぼの」に重きを置けば「茶」。さあ、どっちにする? 「事実」ではなく、ことばの問題だね。
これは別な言い方をすると、「あけぼののやうやうしろき」と同じように、「茶」にも「出典」があるかも、ということ。そうすると、その「出典」の選択そのものが、世界の整え方、ということになるけれど。そして、その「出典」というのは、「無意識」ということもある。「あけぼののやうやうしろき」というのも、多くの日本人にとっては「意識」というより、「無意識」。「ことばの肉体」になっている。「註釈」がいらない。こういう「註釈」なしのことば、というのは私たちの「肉体」のなかにたくさんあって、それが「自然」に動いている。「自然」と「無意識」は同じ。
で、この「自然」と「無意識」は同じというとろこから、「詩はわざと書くもの」、「意識的に書くもの」という「方法」もうまれる。「わざと」が「意識的」。
ややこしいのは、この「わざと」には「あけぼののやうやうしろき」のように、ほとんど「無意識」のものもある。だれもがわかる「わざと」と言えばいいのか。
そして私は、この「無意識」に近い「わざと」が好き。というか、「わざと」のなにか「無意識の肉体」が感じられることばが好きなのだ。「ことばに幅がある」「ことばに奥行きがある」と言ってもいいけれど。
そういうものを、ひさびさに、短歌から感じた。
そういうものを、林は「精神体」と呼んでいるようだけれど。
読み始めたばかりなのだけれど、
というような歌が私は好きだ。「来て-踏み倒しゆく」「ずるずる引き摺り出して-臓腑」「ひくい-しらず」ということばの「連絡」に、「ことばの肉体」の「強さ」を感じる。この「連絡」は、一首のなかで他のことばにも「通路」をつくっている。それをどう読んだかを書いていくと、どこまで書いても終わらない「誤読」になるので、きょうは書かない。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
林和清『去年マリエンドートで』は歌集。最近の、若い人の歌集とは少し違う。いや、かなり違うかなあ。
あけぼののやうやうしろき山際を見つつリビングに朝の茶を飲む
巻頭の一首。「あけぼののやうやうしろき山際を」は「枕草子」を踏まえている。この「古典を踏まえたことば」という部分が、最近の短歌とは大きく異なる。
どんなことばも、それぞれ「過去」を持っている。「過去」はことばの可能性を縛る。だから、「過去」を断ち切って、最近のひとはことばを動かすのだろう。もちろん、断ち切っても、断ち切っても、「過去」からことばはよみがえってくる。断ち切っているようで断ち切っていない。断ち切っていないのに断ち切ったつもりになっている。どんな世界で起きることだけれど。
林は、こういうことに対して自覚があるのだろう。断ち切ったつもりが断ち切れていないなら、断ち切るのではなく逆に接続を強くする。そうすると、接続できないものが見えてくる。接続できないもの、といっても、ことばに接続できないものはない。どうしても接続してしまうのがことばなのだけれど。
「リビング」くらいでは、単なる「名詞」の衝突。こういうことばは「やうやう」と同じように、アクセサリーになってしまう。
などということを思いながら。
「朝の茶」。うーん。これが、おもしろい。この「朝の茶」って、何? 緑茶? いわゆる日本茶? それともコーヒー? あるいはモーニング・コーヒーなんだけれど、ことばの数をあわせるために「朝の茶」と言ってみただけ? 「茶」だからコーヒーはありえない? そうかなあ。「あけぼののやうやうしろき」は、それでは、どう? 「現実」を「すでにあることば」で整えているだけであって、それは林の「オリジナル」ではない。つまり、そこには林はいても、それは林ではないということが起きている。そうであるなら、そこに「朝の茶」と書かれていても、それは「茶」ではないということが起きていてもいい。コーヒーなんだけれど、こういうときは「朝の茶」という方が世界が整う、という感じで。「リビング」に重きを置けばコーヒー、「あけぼの」に重きを置けば「茶」。さあ、どっちにする? 「事実」ではなく、ことばの問題だね。
これは別な言い方をすると、「あけぼののやうやうしろき」と同じように、「茶」にも「出典」があるかも、ということ。そうすると、その「出典」の選択そのものが、世界の整え方、ということになるけれど。そして、その「出典」というのは、「無意識」ということもある。「あけぼののやうやうしろき」というのも、多くの日本人にとっては「意識」というより、「無意識」。「ことばの肉体」になっている。「註釈」がいらない。こういう「註釈」なしのことば、というのは私たちの「肉体」のなかにたくさんあって、それが「自然」に動いている。「自然」と「無意識」は同じ。
で、この「自然」と「無意識」は同じというとろこから、「詩はわざと書くもの」、「意識的に書くもの」という「方法」もうまれる。「わざと」が「意識的」。
ややこしいのは、この「わざと」には「あけぼののやうやうしろき」のように、ほとんど「無意識」のものもある。だれもがわかる「わざと」と言えばいいのか。
そして私は、この「無意識」に近い「わざと」が好き。というか、「わざと」のなにか「無意識の肉体」が感じられることばが好きなのだ。「ことばに幅がある」「ことばに奥行きがある」と言ってもいいけれど。
そういうものを、ひさびさに、短歌から感じた。
そういうものを、林は「精神体」と呼んでいるようだけれど。
読み始めたばかりなのだけれど、
母方の曽祖父母祖父母夜を来て月の屏風を踏み倒しゆく
浚渫船がずるずる引き摺り出してゐる東京の夜の運河の臓腑
木曽川長良川揖斐川とわたりつつ途中のひくい川の名をしらず
というような歌が私は好きだ。「来て-踏み倒しゆく」「ずるずる引き摺り出して-臓腑」「ひくい-しらず」ということばの「連絡」に、「ことばの肉体」の「強さ」を感じる。この「連絡」は、一首のなかで他のことばにも「通路」をつくっている。それをどう読んだかを書いていくと、どこまで書いても終わらない「誤読」になるので、きょうは書かない。
去年マリエンバートで (現代歌人シリーズ18) | |
クリエーター情報なし | |
書肆侃侃房 |
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。