福間明子『雨はランダムに降る』(石風社、2017年10月10日発行)
福間明子『雨はランダムに降る』の中では、「夢の切れ端」の二連目がいい。
特に二行目の「フワフワに逢える」がいい。ここはほかのことばで言い換えられない。つまり、書いてあることは「わかる」が、それを自分のことばで言いなおせない。
以前、詩の講座をやっていたとき、私はこういう行を取り上げて、「これをほかのことばで言ってみて」と受講者に聞いた。すると、みんなびっくりする。言いなおしてみようとは思わない。言いなおさなくても、そのまま「わかる」。つまり、それは自分のことばではなく、福間のことばであるにもかかわらず、まるで自分が言っているみたいに感じということ。瞬間的に、「肉体」のなかから、そこにかかれていることがよみがえるのだ。
「フワフワ」は「新しい綿の感じ」とか「布団の感触」とか言いなおすことができる。詩を読みながら「あ、私も母の仕事を鉄だったことがある」という具合に話が弾むかもしれない。
でも、「逢える」は、どうだろうか。私は意地悪だから「逢う」というのは「ひとと逢う」という具合につかう。ここで「逢う」をつかうのは、「文法的に変」である。もし、ふつうのことばで言いなおすとどうなる? という具合にさらに質問するのである。
なぜ、「逢う」なんだろうか。
このとき「逢う」は「知っている」だれかと「逢う」というのと、「知らない」だれかと「逢う」というときと、どちらに近いだろうか。こう質問を変えれば、きっと「知っているだれか」という答えが返ってくる。
福間は「知っている」からこそ、「逢う」ということばをつかっている。
そして、この「知っている」が「逢う」という動詞の奥から、ことばを突き破って読者の方へやってくる。「布団の綿」に「逢う」のではなく、「なつかしいもの/大好きなもの」に「逢う」のだ。
こういう瞬間だね。あ、これはいいなあ、と感じるのは。
「フワフワ」はだから「なつかしい/大好き」であり、それは福間のことばで言いなおせば一行目の「恋しい」ものである。「こころ」を誘うものなのだ。
「キリンの日々」は、こんな具合にはじまる。
「ベランダからキリンが見える」というようなことは、ふつうは、ない。だから、これは「比喩」なのだと「わかる」。何の比喩だろうなあ、と思いながら読んでいくと「心が細って」ということばに出会う。これを福間は「キリンの首のようだと思う」と言いなおし、一行目を「説明」する。
この「曲がりくねり」具合が、詩である。
キリンということばから思い出すのは、まず「首」である(と、私は思う)。長い首は細い首でもある。その「細い」を中心にして、最初のわけのわからない「キリン」が「首」のなかでしっかり「像」になる。
さらに、この「曲がりくねり」の過程に「うららかな日向」ということばが入り込んでいる。「うららかな日向」なら、こころはゆったり、晴れやかになりそうだが、それが「あまりにもうららか」だと事情は違ってくる。「あまりにも」幸せだと、逆に「不安」になる。そういうことを、私たちは「知っている」。「肉体」がそういうことを「おぼえている」。だから、そこから「心が細って」ということばがあらわれてきても違和感がない。
二行目のすべてのことばが一行目、三行目としっかりとつながって動いている。だから、詩になる。詩は一種の「でたらめ」(とんでもない空想、たとえば「ベランダからキリンが見える」というようなこと)を書いているようであって、実はそうではない。「でたらめ」を利用しながら、その奥に「必然」を書いている。「必然」が噴出してきたとき、それを詩と呼ぶ。
「サカナのしんり」も書き出しがおもしろい。
一行目の「機」ということばは「硬い」が五行目に「縁」が出てくる。「機縁」という「ことば」が、このとき遠くから突然やってくる。
福間のことばは、どこか辞書頼みのようなところがあり、それはおもしろくないのだが、この「機」「縁」は辞書ではなく、福間の「暮らし」のなかで「肉体」にしみついたものだろう。知らない内におぼえこんだことばの動きだろう。そういう「強さ」を感じる。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
福間明子『雨はランダムに降る』の中では、「夢の切れ端」の二連目がいい。
フワフワが恋しい
秋日和のころになるとフワフワに逢える
縁側の部屋から母の呼ぶ声
「端をしっかり持って」
布布団に綿を入れる作業だった
布ごとくるりとひんくり返して綿を包み込み
母と私とで四隅を持って引っ張るのだった
霜月 師走フワフワの布団
命長ければ睦月 如月
特に二行目の「フワフワに逢える」がいい。ここはほかのことばで言い換えられない。つまり、書いてあることは「わかる」が、それを自分のことばで言いなおせない。
以前、詩の講座をやっていたとき、私はこういう行を取り上げて、「これをほかのことばで言ってみて」と受講者に聞いた。すると、みんなびっくりする。言いなおしてみようとは思わない。言いなおさなくても、そのまま「わかる」。つまり、それは自分のことばではなく、福間のことばであるにもかかわらず、まるで自分が言っているみたいに感じということ。瞬間的に、「肉体」のなかから、そこにかかれていることがよみがえるのだ。
「フワフワ」は「新しい綿の感じ」とか「布団の感触」とか言いなおすことができる。詩を読みながら「あ、私も母の仕事を鉄だったことがある」という具合に話が弾むかもしれない。
でも、「逢える」は、どうだろうか。私は意地悪だから「逢う」というのは「ひとと逢う」という具合につかう。ここで「逢う」をつかうのは、「文法的に変」である。もし、ふつうのことばで言いなおすとどうなる? という具合にさらに質問するのである。
なぜ、「逢う」なんだろうか。
このとき「逢う」は「知っている」だれかと「逢う」というのと、「知らない」だれかと「逢う」というときと、どちらに近いだろうか。こう質問を変えれば、きっと「知っているだれか」という答えが返ってくる。
福間は「知っている」からこそ、「逢う」ということばをつかっている。
そして、この「知っている」が「逢う」という動詞の奥から、ことばを突き破って読者の方へやってくる。「布団の綿」に「逢う」のではなく、「なつかしいもの/大好きなもの」に「逢う」のだ。
こういう瞬間だね。あ、これはいいなあ、と感じるのは。
「フワフワ」はだから「なつかしい/大好き」であり、それは福間のことばで言いなおせば一行目の「恋しい」ものである。「こころ」を誘うものなのだ。
「キリンの日々」は、こんな具合にはじまる。
ベランダからキリンが見える
あまりにもうららかな日向では心が細って
キリンの首のようだと思う
「ベランダからキリンが見える」というようなことは、ふつうは、ない。だから、これは「比喩」なのだと「わかる」。何の比喩だろうなあ、と思いながら読んでいくと「心が細って」ということばに出会う。これを福間は「キリンの首のようだと思う」と言いなおし、一行目を「説明」する。
この「曲がりくねり」具合が、詩である。
キリンということばから思い出すのは、まず「首」である(と、私は思う)。長い首は細い首でもある。その「細い」を中心にして、最初のわけのわからない「キリン」が「首」のなかでしっかり「像」になる。
さらに、この「曲がりくねり」の過程に「うららかな日向」ということばが入り込んでいる。「うららかな日向」なら、こころはゆったり、晴れやかになりそうだが、それが「あまりにもうららか」だと事情は違ってくる。「あまりにも」幸せだと、逆に「不安」になる。そういうことを、私たちは「知っている」。「肉体」がそういうことを「おぼえている」。だから、そこから「心が細って」ということばがあらわれてきても違和感がない。
二行目のすべてのことばが一行目、三行目としっかりとつながって動いている。だから、詩になる。詩は一種の「でたらめ」(とんでもない空想、たとえば「ベランダからキリンが見える」というようなこと)を書いているようであって、実はそうではない。「でたらめ」を利用しながら、その奥に「必然」を書いている。「必然」が噴出してきたとき、それを詩と呼ぶ。
「サカナのしんり」も書き出しがおもしろい。
ある日を機に
サカナが我が家に押し寄せて来た
冷蔵庫の中は満杯になった
ドアを開けるたびにサカナか笑っている
かつてこんなにも縁があったっけ
などと思いながらサカナと笑う
夜寝ていると潮の匂いがしてくる
海辺の家で波の音が聞こえる
一行目の「機」ということばは「硬い」が五行目に「縁」が出てくる。「機縁」という「ことば」が、このとき遠くから突然やってくる。
福間のことばは、どこか辞書頼みのようなところがあり、それはおもしろくないのだが、この「機」「縁」は辞書ではなく、福間の「暮らし」のなかで「肉体」にしみついたものだろう。知らない内におぼえこんだことばの動きだろう。そういう「強さ」を感じる。
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。