詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

暁方ミセイ『魔法の丘』

2017-11-14 10:31:34 | 詩集
暁方ミセイ『魔法の丘』(思潮社、2017年10月25日発行)

 暁方ミセイ『魔法の丘』を開くと、最初に「風景の器官」という詩がある。「二〇一七年七月九日」という日付がある。この詩集のために書き下ろしたのかもしれない。(この作品のあとに「目次」がある。)

道路いっぱいのねこじゃらしは
内側に炎を灯して素気なく
じりじりした光で夕焼けに熱を返し
透明な手指がいくつか揺れて
その手を手繰り寄せている

わたしはひとなのでひとのかたちにそれを見
夢から続いてきたあざみの根っこ
 希求は記憶にとかしこまれ
 よく見えなくなってわたしを騙す
 追い重なった畑のみどりを
 ひとむらの赤やオレンジの花の株でまとめあげ
 高い支柱とビニールハウスの白い夕反射
 そのむこうにはアパートの黄色い照明灯
 あんなにいみじく変換された
 この世の夏を泳ぐのだ
  こんなに空気には
  植物の発する模様がいっぱい
  風景は何でもよく覚えていて
  わたしをたのしく見つめ返す

 二連目の最初の一行、「わたしはひとなのでひとのかたちにそれを見」に思わず傍線を引いた。
 一連目の「ねこじゃらし」の描写、特に「手指(手)」をつかった「比喩」のことを指して言っているのだと思う。「わたしはひと(人間)なので、ねこじゃらしの揺れる姿を描写しようとすると、その描写のなかにひとのかたち(手指)を見てしまう」。ねこじゃらしに「手指」はないが、「手指」の動きと重なるものがある。
 これは簡単に言うと「擬人化」ということなのだが、なぜ、それをおもしろく感じたのか。「ひとなので」と暁方が「理由」を書いているからである。

 なぜ、理由なんか書く必要があったのかな? 擬人化なんて、誰でもがやる。特に珍しい「技法」ではない。
 もしかすると、単なる「比喩」ではないのかもしれない。ただ、「ねこじゃらし」をひとにみたてて言いなおしているというのとは違うのかもしれない。
 「手指」ということばが出てくる前に「裏側」ということばが出てくる。
 「手指」になる前に、暁方は「ねこじゃらしの内側」に入り込み、内側で運動を起こしている。
 ねこじゃらしの「内側」に「炎を灯して」、その炎の発する光と熱を外側に発散させ、それを「夕焼け」に「返し」ている。炎の光、炎の熱を暁方は別々にとらえて、「炎の光」で「炎の熱」を「夕焼け」に返している。
 この「返す」という運動を言いなおしたのが「揺れて」いるであり、また「手繰り寄せている」でもある。
 うーん、でも、この「返す」と「手繰り寄せる」は、運動としてはベクトルが反対だねえ。夕焼けに「返す」は夕焼けの方に向けて「投げる」感じ。自分の外へ出してしまうのが「返す」である。自分からはなしてしまうのが「返す」である。「手繰り寄せる」は自分の近くに「寄せる」。
 では、これは「矛盾」なのか。「矛盾」といえば矛盾かもしれない。けれど、矛盾ではない。暁方は「往復運動」を書いているのだ。
 「ねこじゃらし」と「夕焼け」のあいだには「往復運動」がある。
 「ねこじゃらし」は、その「往復運動」を「自分の内側」と「自分の外側」でも展開している。「外側」ということばは書かれていないが、意識されている。暁方の関心は「往復運動」、ふたつの違った存在のあいだを往き来する運動に世界のあり方を見ている。
 この「往復運動」は「わたし」と「ねこじゃらし」のあいだでも起きている。
 「わたしの内側」にあるもの、「意識」とか「精神」とか「感覚」とかいうものが、「わたしの内側」から出て、「ねこじゃらしの内側」に入っていく。そして、その「内側」から「ねこじゃらし」をとらえなおす。そうすると「ねこじゃらし」のしていることがよくわかる。「内側」で「炎を灯し」て、その「炎の光と、炎の熱」を夕焼けの方に投げ返している。
 これは「擬人化」というよりも「自己同一化」、あるいは「自己拡張」というものだろう。「わたし」が「ねこじゃらし」になって、そこに「あらわれている」。「わたし」はここにいるのだが、その「わたし」はほとんど「非存在」になり、「ねこじゃらし」としてい生まれ変わり、生きている。
 自己拡張は「ねこじゃらし」にとどまらない。「ねこじゃらし」にまで自己拡張すると、その拡張に他のものもまきこまれる。「夢から続いてきたあざみの根っこ」になって、「見えなくなって」「わたし(ねこじゃらしを見つめたわたし/ねこじゃらしになってしまう前のわたし)」を「誘う」。暁方は「騙す」と書いているが、「騙す」のは「こっちのほうへと誘う」ためである。「あっちのほう」かもしれないが、ともかく「騙されて/誘われて」、「わたし」は「わたし以外のもの」になってしまう。そういう運動へと変化していく。
 この自己拡張はどんどん増殖する。そして、どれがどれだかわからなくなる。「どの存在」が「わたし」だったのか、特定できなくなる。「わたし」は「ねこじゃらしを見つめ、描写するひと」なのか、「ねこじゃらし」なのか、光のなか、熱なのか、そのあとに出てくる様々な色なのか。特定できない。そういうものの「内側」に入り込みながら、同時に「外側」(見えるもの)になっている。「世界全体」が「わたしがあらわれた世界」である。「わたしのいる世界」は「わたしそのものの世界」である。
 完全な「一元論」の世界、と言えるかもしれない。

 こんなめんうどうくさいことは、暁方は言わない。簡単に、こう言うのだ。

風景は何でもよく覚えていて

 「風景」とは「世界を構成する存在」である。たとえば「ねこじゃらし」である。その「ねこじゃらし」は暁方が自己拡張して「一体」になった存在だが、その「ねこじゃらし」を暁方が覚えているのではなく、「ねこじゃらし」の方が暁方(わたし)の方を覚えていて、

わたしをたのしく見つめ返す

 往復運動が、ふたたび、いやまったく新しく始まるのだ。

 このときの「往復運動」の動きというのか、往復運動で生まれる「時間(世界なのかなあ)」は、暁方の場合、不思議な透明感で満ちている。「不純物」がない。「人工」という感じがない。
 たとえば「地点と肉体」の一連目。

指が冷える頃には
山の向こうで
大きな光源が
どこへでもまっすぐ
血の混じる金のような光を注いでいるんだよな
それにかかると、
頭の中のことなどはすっかり忘れてしまって
かわりに感情の
一番純粋に澄み切った音のようなものが
血液の中から押し寄せ
今までのことなど
まるで
どうでもよかったみたいに
景色を変えてしまうんだよな

 強烈な夕日体験を書いているのだが、「かわりに感情の/一番純粋に澄み切った音のようなものが/血液の中から押し寄せ」がとても美しい。「一番純粋に澄み切った」というのはあまりにも「ことばことば」しているが、そのあとに「音」ということばを引き寄せると、印象が違ってくる。あ、そうか、それまでの「色」とは違うものをあらたに引き寄せるためには、こういういう「生っぽい」ことばも必要なのだとわかる。

魔法の丘
クリエーター情報なし
思潮社



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