詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「静かな環境」とは何か

2017-11-22 18:38:13 | 自民党憲法改正草案を読む
「静かな環境」とは何か
             自民党憲法改正草案を読む/番外151(情報の読み方)

 2017年11月22日の読売新聞(西部版・14版)の1面の見出し。

退位「19年4月末」有力/政府検討 来月1日 皇室会議

 2017年11月22日の読売新聞夕刊(西部版・4版)の1面の見出し。

退位日 来月8日決定/皇室会議受け閣議で

 天皇の「生前退位(強制退位)」の日にちに関するニュースである。来月1日に皇室会議が開かれ、それを受けて8日に「退位日」を決めるという。「退位日」というよりも、「強制退位日(強制生前退位日)」というのが正しいだろう。
 ブログで何度も書いたことだが、昨年の参院選後の「天皇生前退位意向」スクープは、籾井NHKをつかった「天皇強制退位」という安倍の仕組んだ「政策」である。天皇の「生前退位意向」自体は、それ以前から官邸に知らされていた。官邸は「選挙日程」をにらみながら、その「意向発表」を先のばしにしていた。参院選で大勝した。その勢いで、憲法改正を推し進めたい。しかし、護憲派の天皇が邪魔だ。排除したい。同時に「天皇は国政に対する権能を有しない」ということを天皇自身に言わせたい。そういうもくろみで、「生前退位意向」を公表し、つづいてメッセージで「天皇は国政に対する権能を有しない」と言わせたのである。
 天皇についての「配慮」など、どこにもない。改憲をどう推し進めるか、どうやって戦争をし、軍隊を指揮して「おれが一番えらいんだ」というかとしか考えていない。
 それは今回のニュースを読むと、いっそうよくわかる。
 「強制生前退位」の「日程」をめぐっては、最初「18年12月退位・19年元日改元」という「案」がスクープ(報道)された。元日改元だと、国民生活がスムーズに行く、というのがそのときの「説明」だった。途中だと「元号」と「西暦」の計算(?)をするのがわずらわしい、ということらしい。
 しかし、宮内庁から「元日は忙しい」という反論があり、これは見送れた形になっている。
 で、こんどは「19年3月31日退位・4月1日新天皇即位・改元」という案と、「19年4月30日退位・5月1日新天皇即位・改元」という案が浮上している。「区切りがいい」という点では「年度」の変わり目にあわせた「3月31日退位・4月1日改元」がつごうがよさそう。国民に「理解」されそうだが。
 なんと。

19年4月の統一選に伴う政治的対立を避ける狙いから、選挙後の「4月30日退位・5月1日改元」案が有力となった。(朝刊)

 というのである。
 「国民の理解」とか「国民の暮らし」はどうでもいいのである。だいたい、「政治的対立」をいうのなら、「退位/改元」をすませたあとで選挙戦に入った方がいいのではないだろうか。「おわったこと」は「選挙の争点」にはならない。
 政府の「狙い」はまったく違っている。「3月31日退位、4月1日即位」では、その仕事に手がとられ選挙に集中できない。選挙戦というのは「告示/公示」からはじまるのではなく、その前からはじまっている。「告示/公示」がおわれば、すでに「決着」がついている。(すぐに世論調査が発表され、自民〇議席、というような報道がされることからもわかる。)
 選挙で忙しい。天皇の退位、新天皇即位、改元に「労力」を奪われるのでは、「強制生前退位」の意味がない。
 これを、どうやって、「美しいことば」で言いなおすか。
 読売新聞朝刊の2面。

「静かな環境」4月末浮上/予算審議・統一選の後

 という見出しで、こう書いている。

予算審議が落ち着き、統一地方選が終わった後の「19年4月末退位・5月1日」案だ。大型連休期間中ということもあり、政治的対立から離れた「静かな環境」が実現できる。加えて、退位前日の4月29日は昭和天皇の誕生日に当たる「昭和の日」で、国民の硬質への関心の高まりも期待できるというわけだ。

 またまた、安倍の得意な「静かな環境」ということばが出てきた。
 民主主義の国なのだから、政治的な対立で議論が沸騰している(騒がしい環境)というのは、あって当然のことである。どんなときでも議論が沸騰して騒がしいというのが民主主義国家の理想だろう。「静かな」というのは対立意見のない「独裁国家」の姿である。
 だいたい大型連休中なら、国民の関心は「連休」であり、天皇制度なんかではない。平成も30年近くたって、いったい誰が昭和天皇をしのんだりするだろうか。50歳未満のひとで、昭和天皇について具体的な思い出(その姿を見た、という一方的な記憶を含めて)をもっている人が何人いるだろう。4月29日は、「ああ祝日のままでよかった、29日が祝日じゃないと連休が短くなってしまう」くらいの意味しかないだろう。ふつうの国民には。昭和天皇が死んだ日を思い出せばいい。だれも昭和天皇なんかしのんでいない。テレビが昭和天皇のことばっかりやっていてつまらない、というのでレンタルビデオ店のビデオが全部駆り出されてしまったではないか。国民の関心は、いつでも自分の「たのしみ」。
 「4月30日退位、5月1日即位・改元」ということになれば、一般国民が一番心配するのは、もしかして、「4月30日、5月1日の休みは取り消しということは起きないか」ということだろう。「学校で(組織で)感謝し、お祝いの催しをしよう(しなければならない)」ということにでもなったら、休みがなくなるぞ。そんなのは、いやだなあ。

 「皇室」のことを国民に知らせる(印象づける)ということだけなら、いっそう皇太子の誕生日(たしか2月じゃなかったかな?)にあわせて「改元」すればいい。新天皇の誕生日もきっと「祝日」になるだろうし、その方が皇室への関心も高まるだろう。
 私は「平成」の最初の日が何日だったか(昭和の最後の日が何日だったか)忘れてしまったが、「天皇誕生日」なら覚えている。「休日」だからね。親の誕生日はもちろん、命日も覚えていないが、毎年やってくる「休日」は忘れない。
 私は特別に「ずぼら」なわがまま人間なのかもしれないが、こういう私から見ると、安倍のやっていることは、とんでもなく「独裁的」。
 美しいことばでごまかして、すべてのことがらを、自分の地位保全のために利用している。
 「天皇の退位に反対」とか「天皇制を廃止しろ」という主張が、「強制生前退位の日」「新天皇即位の日(改元の日)」に自由に語られてこそ、民主主義の国家である。「静かな環境」で一連の行事が行われるとしたら、それは「独裁政治」がさらに進んだということである。
 「独裁」を推し進めるとき、安倍は必ず「静かな」ということばをつかい、マスコミはそれを追認している。「言論」はうるさいことが勝負なのだ。「静か」になってしまったら敗北なのだ。


#安倍を許さない #安倍独裁 #沈黙作戦 #憲法改正 #天皇生前退位
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督「悪魔のような女」(★★★★)

2017-11-22 14:38:15 | 午前十時の映画祭
監督 アンリ=ジョルジュ・クルーゾー 出演 シモーヌ・シニョレ、ベラ・クルーゾー、ポール・ムーリス

 アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督は、「ふたり」の関係を描くのがうまいなあ。「恐怖の報酬」も、いろいろあるが、結局「ふたり」の関係だった。「ふたり」が同性愛みたいな親密感をもって動くというのも特徴かなあ。
 この映画では、シモーヌ・シニョレとベラ・クルーゾーは、男の「愛人」と「妻」なのに、妙に「親密」である。男に対する「憎しみ」で一致し、殺人計画を練る。シモーヌ・シニョレが常にベラ・クルーゾーをリードする形で動く。その「力関係」というか、「かけひき」が、先日見た「アンダー・ハー・マウス」よりも、なぜか「濃密」に感じられる。おいおい、そんなことろで感情(憎しみ)を共有するなよ、とでもいえばいいのか。フランス人の奇妙なところは、それが憎しみであっても「共有」してしまえば「親密」になるという関係が起きることかなあ。愛し合っていなくても、何かが「共有」できれば親密になる。「共有」に飢えている(?)のがフランス人かもしれないと思う。
 だから(?)、自分が「共有」していたものが、誰かに奪われるととても複雑になる。いわゆる「三角関係」のことなんだけれど、こんな変な三角関係が成り立つのはフランスだけだろうなあと思う。
 この映画(ストーリー)の「出発点」は簡単に言ってしまえば「三角関係」。そのなかで誰と誰が「共謀」するか。「共感」をもって動くかというのは、ふつうは、すごく単純なのだけれど、フランスには「三角関係」というものがない。ばとんなときでも「一対一」、つまり「ふたり」の関係。動くときは「ふたり」がペア。
 ね。
 ネタバレになるけれど、シモーヌ・シニョレとベラ・クルーゾーは「ふたり」で動いているとみせかけて、実はシモーヌ・シニョレとポール・ムーリスが「ふたり」で動いていたというのがこの映画。そして、はじき出された「ひとり(ベラ・クルーゾー)」が生粋のフランス人(パリッ子)ではなく、カラカスの修道院育ち(聞き間違えかなあ)というのがミソだね。彼女は「三角関係」をどう生きるかが、身についていない。「ふたり」をうまく生きられない。
 これを「逆」に読むと。
 ベラ・クルーゾーは、あくまで「単独行動」。他人に利用されるふりをしながら、他人を振り切っているとも言える。ラストシーンで、子どもがパチンコ(遊具)を、死んだはずのベラ・クルーゾーからもらったという。それが「ほんとう」なら、彼女こそが「大芝居」を打って、シモーヌ・シニョレとポール・ムーリスの「ふたり」を出し抜いたことになる。こういうことは、常に「ふたり(共感)」を基本にして動くフランス人(パリッ子)にはできない。「私立探偵」は、いわば雇った第三者。「ふたり」の関係は、ベラ・クルーゾーにとってはいつでも「雇い主-雇われ人」という「契約関係」で「共感/共有」とは別なものだということ。
 映画なんだから、ストーリーなんてどうとでも「説明」できるから、結論だとか、謎解きだとか、そういうことはどうでもいい。やっぱり、そのストーリーを突き破って動く役者の「顔」(肉体)を楽しむことだなあ。
 シモーヌ・シニョレの、一種「冷たい」目の力はすごいなあ。「アンダー・ハー・マウス」のエリカ・リンダーの比ではない。この目で誘われたら、男も女も、みんな操られてしまうなあと感じてしまう。ベラ・クルーゾーよりも、私はシモーニュ・シニョレが好き。だから、最後は「うーん、残念」という気持ちになる。
 これもまあ「共感」の一種ということになるのかなあ。
 (午前十時の映画祭、中洲大洋スクリーン3、2017年11月22日)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/


アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督『悪魔のような女』Blu-ray
クリエーター情報なし
IVC,Ltd.(VC)(D)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする