詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(19)

2018-03-03 11:44:44 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(19)(創元社、2018年02月10日発行)

 「奏楽」は「音楽」と「息」の関係を書いている。

きららかの
黄金の楽器に
憤る
息を吹きこめ

冴え渡る
銀の楽器に
憧れの
息を吹きこめ

ぬくもりの
木の楽器には
忘却の
息を吹きこめ

 最初の修飾語は「黄金」「銀」「木」にかかるのだが、あえてその行を飛ばして「憤る」「憧れ」「忘却」と結びつけるとどうなるだろうか。「きららか(な)憤り」「冴え渡る憧れ」「ぬくもりの忘却」。さらに言い換えて「憤りの輝き」「憧れの冴え渡り方」「忘却のぬくもり」。私には「ぬくもり」と「忘却」の結びつきが一番納得できる。「怒り」と「輝き」も納得できる。でも「憧れ」と「冴え渡る」(透明?)はなんとなくしっくりこない。「冴え渡る」を「透き通った」と読み直すと、「憧れる」ときの一途さとつながるかなあ。
 「息」との関係をみると、どうか。
 「怒る」とき「息」は燃える。だから、輝く。きらきら。
 「憧れる」とき「息」は静かだ。この「静寂」が「冴え渡る」なのかな?
 「忘却」のとき、忘れてしまったとき、「息」は複雑かもしれない。「悲しみ」も含まれるし、「なぐさめ」のようなものも含まれる。いちばん「人間的」かなあ。ひとの「ぬくもり」は、「忘却」(あるいは思い出)とともに動いている。
 金管楽器、木管楽器はあっても、銀管楽器がない。それなのに「金」「銀」「木」とことばを動かしているために、「無理」が動いているのかも。
 でも、この詩の力点は「楽器」ではなく、「奏楽」の「奏でる」の方にある。「息を吹きこめ」の方にある。
 だから、このあと「主語」がやってくる。

肉に
ひそむこころを
解き放て
地平の彼方

 「肉」には「ししむら」というルビがある。古い言い方だね。ことばが「いま」ではなく、「長い時間」へと遡っていく。「時間」の奥に「ひそむ」ものを暗示させる。その動きがひきつがれ「ひそむこころ」となる。
 「肉(体)」と「こころ」。「二元論」である。「肉(体)」のなかに「こころ」がある。その「肉体」が遠い過去とつながっているなら、「こころ」もまた遠い何かとつながっているだろう。
 この連には「息」ということばがないが、「肉」と「こころ」が結びついているのが「息」だからだろう。「息」を「肉」と「こころ」と言いなおしているのである。
 このとき「肉体」は「肉管楽器」かもしれない。

我等また
風に鳴る笛
野に立って
息を待つ

 「笛」は「楽器」、「肉管楽器」。それは「息」を吐きだす、つまり他の楽器に「息を吹きこむ」のだが、同時に「息を吹き込まれる」ことを待っている。「怒り」か「憧れ」か「忘却」か。「私ではない人の息」を待っている。

星々の
はた人々の
たえまない
今日の吐息を

 「星々」という「宇宙」につながることばが動くのが谷川だ。「人々」よりも先に「宇宙」があらわれる。「宇宙」を引き寄せてしまう。
 でも、「吐息」かあ。
 「吐息」は「吹きこむ」ものかなあ。「洩らす」ものである。「忘却」のとき、ふと「吐息」が漏れるかもしれないけれど、あるいは「憧れ」のときも「吐息」が漏れるかもしれないけれど。
 うーん、
 「吹きこめ」の強さがなくなっている。息が乱れている。




 

*


「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか1月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977



問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

詩を読む詩をつかむ
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池井昌樹『未知』

2018-03-03 10:47:26 | 詩集
池井昌樹『未知』(1)(思潮社、2018年03月20日発行)

 池井昌樹『未知』は57篇。今回の詩集の特徴は「花」にあらわれている。

このよにはなのあることの
なんというふしぎさだろう
ああきれいだな
ふりむくこころ

 「このよ」「ある」「ふしぎ」「ああ」は、これまでの池井の詩に通じる。「このよ」とはいま、生きている世界。そのとき、池井の生いっしょに、池井以外の生が「ある」。これを池井は「ふしぎ」と考えている。「ふしぎ」以上に「わかる」ことをしない。「ふしぎ」のままにしておくのが池井の「思想/哲学」である。「わかる」かわりに、「ああ」と放心する。放心することで「世界」と一体になる。そのとき「このよ」の「枠」ははずれる。「世界」は「このよ」に限定されない。
 これに、今回は、

ふりむくこころ

 が加わっている。「放心」は「こころ」のあり方だが、その「こころ」に「ふりむく」という動詞がつけ加わっている。
 ここが特徴。
 これまでも池井は、「いま」ではなく「過去」からの「血」の流れを受け止めているし、「過去の誰か」を見つめてはいる。けれど、それは「ふりかえる」ではない。「過去(いのちの源)」をみつめることはあっても、それには「方向」はない。「放心」そのままに、どこを向いているか「限定」されていない。「過去」は「いま」であり「未来」である。いっしょに結びついていて、その全部に開かれているのが「放心」である。
 「過去(いのちの源)」を見ていても、それは「過去」を見ることではなく、「過去」を「いま」をとおして「未来」の方向へあふれさせることである。どこをみつめても、それは必ず「前」になってしまう。それが「放心」というものである。
 その「放心」が、「全方向」を失って、一点に向いている。「こころ」はその「動詞」の起点になっている。
 この四行は、こう繰り返される。

はなをきれいとおもうこころの
なんといううれしさだろう
はなときれいと
こころとひとと
このよにともにあることの
なんとふしぎなよろこびだろう

 「はなをきれいとおもう」の「おもう」は「わかる」である。「了解する」。そしてそれは、「こころ(肉体)」が「はな」に「なる」ことである。「こころ(肉体)」は、「おもう(わかる)」とき、「はな」として「ある」。
 こういう「変化」を「うれしい」と池井は呼んでいる。「うれしい」は「こころ(肉体)」が「他の何か」と「ひとつ」になったときの感情の「呼び方」だ。
 「はな」と「きれい」が切り離せないもの、一体のものと書いたあと、池井は、

こころとひとと

 と言いなおしている。「ひと」とは「他人」か。池井以外の人間か。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。でも私は「他人」と限定せずに「池井の肉体」であり、また「いのちの源」と呼んでみたい。
 「はな」の「いのちの源」が「きれい」であるように、池井の「いのちの源」が「ひと」ということばになってあらわれている。
 それは、

このよにともにある

 単独で「ある」のではなく、「ともにある」。この「ともに」は「共存」とか「併存」ではなく、「つながって」ということだ。「はな」「きれい」「ふしぎ」「こころ」「うれしい」ということばは、そういうことばになっているが、「限定」というか、「特定」できない「つながり」のなかに「ある」。どれかを切り離すと、そのすべてがきえる。つながると、すべてが一斉にあらわれる。
 これは、池井がこれまでも書いてきた「このよ(世界)」の形である。

それだけなのに
それでいいのに
こんなけわしくいやしくにがく
けさもひとごみかきわけながら
ああきれいだな
ふりむくこころ

 「それだけなのに」は「放心」を言いなおしたことばである。「放心」すると、すべてがつながってしまう。「それでいいのに」は、「放心」がつづかない悲しみの声である。「放心」できなくなっている。
 「放心」を許さないものがある。
 それでも、何かを見つけ出そうとする。
 そして実際に「はな」が「ある」。その「ふしぎ」を「きれい」と「おもう」。これを「ふりむく」という動きとして書いている。
 この「ふりむく」は、

あそこへはもうゆけないけれど              (月夜の丘)

よみがえらないひとたちがおり
よみがえらないひとときがあり              (泉下)

 という形で言いなおされている。「失われてしまった」、だからそれを「取り戻したい」という気持ちの動きが「ふりむく」であると、読みたい。
 どうしたら「放心」を取り戻すことができるか、それを探している詩集として読みたい。
 途中まで読んで考えたのは、そういうことである。





 

*


「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか1月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977



問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com


未知
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする