小津安二郎監督「麦秋」(★★★★★)
監督 小津安二郎 出演 原節子、笠智衆、菅井一郎、東山千栄子
1951年の映画。私の生まれる前だ。原節子なんて、知るはずがないなあ。あ、「東京物語」では老人夫婦をやっている笠智衆、東山千栄子が、この映画では母と子(長男)か。うーむ。などと、うなりながら見ている。
で、この映画も「東京物語」もそうなのだけれど。
原節子というのは、美人で「透明」そうな印象だけれど、実際はとっても「不透明」というところに魅力があるんだろうなあと、改めて思った。
映画の中で淡島千景が原節子を批評して「あなたって結婚したら(結婚するなら)、暖炉かなんかがある豪邸に住んで……」みたいなことをいう。「絵に描いた」純情なお嬢さん、というわけだ。
映画の中ではどこかの会社の専務(?)の秘書か何かをやっているが、まあ、苦労している庶民ではない。そういう暮らしが似合っている。そういう暮らしをしていても「不自然」に感じさせない。美人は、とても得だ。
それが淡島千景がいったような「縁談話」を振り切って、兄(笠智衆)の病院の同僚と突然結婚をすることになる。それも同僚の母(杉村春子)に、「あなたみたいな人が息子の嫁に来てくれたらどんなにいいんだろうと思っていた」という一言で決意する。
もちろん映画では、一緒の電車で通勤するとき語り合うというようなシーンも「伏線」としてきちんと描かれているが、原節子がその男のことをほんとうに好きなのかどうかは、あまりはっきりとは描かれていない。「不透明」に描かれている。
そのくせ、その「不透明」が「結婚(婚約)」というところに「結晶」すると、やっぱりね、と感じさせる。
こういうことを、「演技」というよりも、「存在感」として、そのまま表現できるというは、やっぱりすごいと思う。
倍賞千恵子は「演技」としてはできると思うが、「素材」としては無理かなあ。あ、私は若くて美しい時代の倍賞千恵子を知らないから、そう思うのかもしれないけれど。
で、この原節子の「存在感」を考えるとき(感じるとき)、それが日本の「家」の構造と似ているなあとも思うのである。障子やガラス戸などがあるけれど、それは完全に締め切られてはいない。たいてい明け離れていて、ひとつの部屋が他の部屋とつづいている。風通しがいい。「秘密」がない。「秘密」をもてない、という感じがある。ある意味で「透明」。たとえば、台所で料理をしている。その姿は食卓から見える。だれがどの部屋へ行ったか、それが見える、という感覚。
でも、そこでも人はプライバシーをもっている。「秘密」をもっている。
象徴的なのが、笠智衆が、「おい、妹(原節子)の縁談話はどうなった」と妻と話すシーン。原節子が部屋を出て行くと、となりで寝ている笠智衆がふすまを開けて「おい」と問いかけ、原節子がもどってくるのを察知するとすーっとふすまを閉める。間に合わなくて半分あいているとき、原節子がそっとふすまを閉めて出て行く。
「知っている」と「知らない」が、とても微妙である。
その微妙な感じを「構造」として抱え込んでいるのが原節子なのだ。「日本の家」が原節子なのだ。
これを小津安二郎は、畳に座ったときの人の「視線」の高さで、さらにしっかりと構造化する。
原節子の大足(と、思う)が、その畳を大地のように踏みしめて歩くのは、なかなかおもしろい。
(中洲大洋スクリーン4、2018年03月06日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
監督 小津安二郎 出演 原節子、笠智衆、菅井一郎、東山千栄子
1951年の映画。私の生まれる前だ。原節子なんて、知るはずがないなあ。あ、「東京物語」では老人夫婦をやっている笠智衆、東山千栄子が、この映画では母と子(長男)か。うーむ。などと、うなりながら見ている。
で、この映画も「東京物語」もそうなのだけれど。
原節子というのは、美人で「透明」そうな印象だけれど、実際はとっても「不透明」というところに魅力があるんだろうなあと、改めて思った。
映画の中で淡島千景が原節子を批評して「あなたって結婚したら(結婚するなら)、暖炉かなんかがある豪邸に住んで……」みたいなことをいう。「絵に描いた」純情なお嬢さん、というわけだ。
映画の中ではどこかの会社の専務(?)の秘書か何かをやっているが、まあ、苦労している庶民ではない。そういう暮らしが似合っている。そういう暮らしをしていても「不自然」に感じさせない。美人は、とても得だ。
それが淡島千景がいったような「縁談話」を振り切って、兄(笠智衆)の病院の同僚と突然結婚をすることになる。それも同僚の母(杉村春子)に、「あなたみたいな人が息子の嫁に来てくれたらどんなにいいんだろうと思っていた」という一言で決意する。
もちろん映画では、一緒の電車で通勤するとき語り合うというようなシーンも「伏線」としてきちんと描かれているが、原節子がその男のことをほんとうに好きなのかどうかは、あまりはっきりとは描かれていない。「不透明」に描かれている。
そのくせ、その「不透明」が「結婚(婚約)」というところに「結晶」すると、やっぱりね、と感じさせる。
こういうことを、「演技」というよりも、「存在感」として、そのまま表現できるというは、やっぱりすごいと思う。
倍賞千恵子は「演技」としてはできると思うが、「素材」としては無理かなあ。あ、私は若くて美しい時代の倍賞千恵子を知らないから、そう思うのかもしれないけれど。
で、この原節子の「存在感」を考えるとき(感じるとき)、それが日本の「家」の構造と似ているなあとも思うのである。障子やガラス戸などがあるけれど、それは完全に締め切られてはいない。たいてい明け離れていて、ひとつの部屋が他の部屋とつづいている。風通しがいい。「秘密」がない。「秘密」をもてない、という感じがある。ある意味で「透明」。たとえば、台所で料理をしている。その姿は食卓から見える。だれがどの部屋へ行ったか、それが見える、という感覚。
でも、そこでも人はプライバシーをもっている。「秘密」をもっている。
象徴的なのが、笠智衆が、「おい、妹(原節子)の縁談話はどうなった」と妻と話すシーン。原節子が部屋を出て行くと、となりで寝ている笠智衆がふすまを開けて「おい」と問いかけ、原節子がもどってくるのを察知するとすーっとふすまを閉める。間に合わなくて半分あいているとき、原節子がそっとふすまを閉めて出て行く。
「知っている」と「知らない」が、とても微妙である。
その微妙な感じを「構造」として抱え込んでいるのが原節子なのだ。「日本の家」が原節子なのだ。
これを小津安二郎は、畳に座ったときの人の「視線」の高さで、さらにしっかりと構造化する。
原節子の大足(と、思う)が、その畳を大地のように踏みしめて歩くのは、なかなかおもしろい。
(中洲大洋スクリーン4、2018年03月06日)
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