ピーター・ランデズマン監督「ザ・シークレットマン」(★★★★)
監督 ピーター・ランデズマン 出演 リーアム・ニーソン、ダイアン・レイン
現代は「マーク・フェルト」。FBI副長官であり、ウォーター・ゲート事件の「ディープ・スロート」である。
ウォーター・ゲート事件を引き起こしたのは大統領であり、捜査を妨害しているのは権力だと「内部告発」をする。
これを見ながら思ったのは、いま日本で起きている「森友学園」事件である。「文書改竄事件」と呼んでしまうと、「ウォーター・ゲート事件」を「盗聴事件」と呼ぶのに似てくる。「事件」が非常に狭い範囲に限定される。「改竄」「盗聴」に限定され、その背後で動いているものが見えなくなる。
「森友学園事件」は、まさにそういう展開になろうとしている。文書を改竄したのは佐川であり、佐川が保身のために動いた。国会答弁と文書の間に「齟齬」が生じれば、佐川が嘘をついたことになるので、それをごまかすために改竄したということになる。
なぜ、「文書は廃棄した(存在しない)」と言い張ったのか。そう言わざるを得なかったのはなぜなのか。その追及がおこなわれないことになる。
映画にもどる。
マーク・フェルトは、頻繁に、FBIは独立機関である。行政機関の指示は受けないと強調する。「犯罪は許さない」という強い信念がある。そして、新しいFBI長官が大統領にべったりであり、捜査に非協力的であるとわかると、「内部告発」に踏み切る。情報をリークし、さらにそれがどんな「意味」をもつのかまで、記者に教える。ただ情報をリークするだけではだめなのだ。
一方、「内部告発者」がフェルトであると特定されないようにするため、部下に嘘もついている。「内部告発社」として誰それがうわさされている、というようなことまで言ったりする。
うーむ。
日本に、ここまで決意をもって「内部告発」できる人間がいる。自分の仕事に対して信念を持っている人間がいるか。
その一方で、この映画はFBIの「裏側」も描いている。集めた情報には、人に知られたくないこともある。「秘密」がある。それをちらつかせて、人を動かす。「妻ではない女性と一緒に行動していた。女性ではない愛人がいる」とかの「情報」を公開する(妻に知らせる)と脅すのである。
こういうことは、日本の場合、「捜査機関」ではなく、もっと別なところでおこなわれているかもしれない。
与党第二党の、あまりにも自民党べったりの言動を見ていると(自民党内部からさえ、内閣批判、財務省批判が出ているのに、批判しない)、これは「知られたくない情報」をちらつかせて圧力をかけられているのではないか、と疑いたくなる。
あ、ついつい、脱線してしまうなあ。
映画そのものとしては、「音」の使い方がおもしろい。「盗聴」が映画のもう一つのテーマであることと関係しているのだが、背景に複数の声が流れる。ニュースであり、テレビのなかのコマーシャルであったりするのだが、そのなかから「必要」なものをピックアップして「情報」にする。「声」(音)というのは、「映像」以上に「事実」を語るときがある。「ことば」には「映像」とは別の「論理」があるからだろうなあ。
「劇的」なことを「劇的」にせず、たんたんと描いている。それがそのままマーク・フェルトの「姿」に重なる。
リーアム・ニーソンはスピルバーグの「リンカーン」役をことわったけれど、彼が演じていたらどういうリンカーンになったかなあ、というようなことも考えた。
(t-joy 博多スクリーン10、2018年03月14日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
監督 ピーター・ランデズマン 出演 リーアム・ニーソン、ダイアン・レイン
現代は「マーク・フェルト」。FBI副長官であり、ウォーター・ゲート事件の「ディープ・スロート」である。
ウォーター・ゲート事件を引き起こしたのは大統領であり、捜査を妨害しているのは権力だと「内部告発」をする。
これを見ながら思ったのは、いま日本で起きている「森友学園」事件である。「文書改竄事件」と呼んでしまうと、「ウォーター・ゲート事件」を「盗聴事件」と呼ぶのに似てくる。「事件」が非常に狭い範囲に限定される。「改竄」「盗聴」に限定され、その背後で動いているものが見えなくなる。
「森友学園事件」は、まさにそういう展開になろうとしている。文書を改竄したのは佐川であり、佐川が保身のために動いた。国会答弁と文書の間に「齟齬」が生じれば、佐川が嘘をついたことになるので、それをごまかすために改竄したということになる。
なぜ、「文書は廃棄した(存在しない)」と言い張ったのか。そう言わざるを得なかったのはなぜなのか。その追及がおこなわれないことになる。
映画にもどる。
マーク・フェルトは、頻繁に、FBIは独立機関である。行政機関の指示は受けないと強調する。「犯罪は許さない」という強い信念がある。そして、新しいFBI長官が大統領にべったりであり、捜査に非協力的であるとわかると、「内部告発」に踏み切る。情報をリークし、さらにそれがどんな「意味」をもつのかまで、記者に教える。ただ情報をリークするだけではだめなのだ。
一方、「内部告発者」がフェルトであると特定されないようにするため、部下に嘘もついている。「内部告発社」として誰それがうわさされている、というようなことまで言ったりする。
うーむ。
日本に、ここまで決意をもって「内部告発」できる人間がいる。自分の仕事に対して信念を持っている人間がいるか。
その一方で、この映画はFBIの「裏側」も描いている。集めた情報には、人に知られたくないこともある。「秘密」がある。それをちらつかせて、人を動かす。「妻ではない女性と一緒に行動していた。女性ではない愛人がいる」とかの「情報」を公開する(妻に知らせる)と脅すのである。
こういうことは、日本の場合、「捜査機関」ではなく、もっと別なところでおこなわれているかもしれない。
与党第二党の、あまりにも自民党べったりの言動を見ていると(自民党内部からさえ、内閣批判、財務省批判が出ているのに、批判しない)、これは「知られたくない情報」をちらつかせて圧力をかけられているのではないか、と疑いたくなる。
あ、ついつい、脱線してしまうなあ。
映画そのものとしては、「音」の使い方がおもしろい。「盗聴」が映画のもう一つのテーマであることと関係しているのだが、背景に複数の声が流れる。ニュースであり、テレビのなかのコマーシャルであったりするのだが、そのなかから「必要」なものをピックアップして「情報」にする。「声」(音)というのは、「映像」以上に「事実」を語るときがある。「ことば」には「映像」とは別の「論理」があるからだろうなあ。
「劇的」なことを「劇的」にせず、たんたんと描いている。それがそのままマーク・フェルトの「姿」に重なる。
リーアム・ニーソンはスピルバーグの「リンカーン」役をことわったけれど、彼が演じていたらどういうリンカーンになったかなあ、というようなことも考えた。
(t-joy 博多スクリーン10、2018年03月14日)
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