詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ピーター・ランデズマン監督「ザ・シークレットマン」(★★★★)

2018-03-15 10:08:45 | 映画
ピーター・ランデズマン監督「ザ・シークレットマン」(★★★★)

監督 ピーター・ランデズマン 出演 リーアム・ニーソン、ダイアン・レイン

 現代は「マーク・フェルト」。FBI副長官であり、ウォーター・ゲート事件の「ディープ・スロート」である。
 ウォーター・ゲート事件を引き起こしたのは大統領であり、捜査を妨害しているのは権力だと「内部告発」をする。
 これを見ながら思ったのは、いま日本で起きている「森友学園」事件である。「文書改竄事件」と呼んでしまうと、「ウォーター・ゲート事件」を「盗聴事件」と呼ぶのに似てくる。「事件」が非常に狭い範囲に限定される。「改竄」「盗聴」に限定され、その背後で動いているものが見えなくなる。
 「森友学園事件」は、まさにそういう展開になろうとしている。文書を改竄したのは佐川であり、佐川が保身のために動いた。国会答弁と文書の間に「齟齬」が生じれば、佐川が嘘をついたことになるので、それをごまかすために改竄したということになる。
 なぜ、「文書は廃棄した(存在しない)」と言い張ったのか。そう言わざるを得なかったのはなぜなのか。その追及がおこなわれないことになる。
 映画にもどる。
 マーク・フェルトは、頻繁に、FBIは独立機関である。行政機関の指示は受けないと強調する。「犯罪は許さない」という強い信念がある。そして、新しいFBI長官が大統領にべったりであり、捜査に非協力的であるとわかると、「内部告発」に踏み切る。情報をリークし、さらにそれがどんな「意味」をもつのかまで、記者に教える。ただ情報をリークするだけではだめなのだ。
 一方、「内部告発者」がフェルトであると特定されないようにするため、部下に嘘もついている。「内部告発社」として誰それがうわさされている、というようなことまで言ったりする。
 うーむ。
 日本に、ここまで決意をもって「内部告発」できる人間がいる。自分の仕事に対して信念を持っている人間がいるか。
 その一方で、この映画はFBIの「裏側」も描いている。集めた情報には、人に知られたくないこともある。「秘密」がある。それをちらつかせて、人を動かす。「妻ではない女性と一緒に行動していた。女性ではない愛人がいる」とかの「情報」を公開する(妻に知らせる)と脅すのである。
 こういうことは、日本の場合、「捜査機関」ではなく、もっと別なところでおこなわれているかもしれない。
 与党第二党の、あまりにも自民党べったりの言動を見ていると(自民党内部からさえ、内閣批判、財務省批判が出ているのに、批判しない)、これは「知られたくない情報」をちらつかせて圧力をかけられているのではないか、と疑いたくなる。
 あ、ついつい、脱線してしまうなあ。
 映画そのものとしては、「音」の使い方がおもしろい。「盗聴」が映画のもう一つのテーマであることと関係しているのだが、背景に複数の声が流れる。ニュースであり、テレビのなかのコマーシャルであったりするのだが、そのなかから「必要」なものをピックアップして「情報」にする。「声」(音)というのは、「映像」以上に「事実」を語るときがある。「ことば」には「映像」とは別の「論理」があるからだろうなあ。
 「劇的」なことを「劇的」にせず、たんたんと描いている。それがそのままマーク・フェルトの「姿」に重なる。
 リーアム・ニーソンはスピルバーグの「リンカーン」役をことわったけれど、彼が演じていたらどういうリンカーンになったかなあ、というようなことも考えた。
 (t-joy 博多スクリーン10、2018年03月14日)


 *

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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(31)

2018-03-15 09:14:50 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(31)(創元社、2018年02月10日発行)

 「ないしょのうた」のことばの変化がおもしろい。

じめんのしたからうたがきこえる
もりのおくからも
ゆうやけのむこうからも
ほしとほしのあいだからも
ないしょのうたがきこえてくる

 「じめんのした」の「した(下)」は見えない。同じように「奥」も「向こう」も見えない。地面の下は土にさえぎられている。森の奥は木にさえぎられている。夕焼けの向こうは、たとえば山にさえぎられている。でも星と星の「あいだ(間)」と見える。
 しかし、これはまた別の言い方もできる。
 「地面の下」には何かが「ある」。「土」がある。「森の奥」には木が「ある」。「夕焼けの向こう」には知らない街が「ある」。でも、「星と星の間」には? 何も「ない」。「無」が「ある」。
 「あいだ」は不思議な「存在」である。
 二連目では「あいだ」はこうつかわれる。

しらないあいだに
わたしのからだにはいってきたうた

 この「あいだ」は「時間」である。(星と星の「間」は「空間」である。)知らない「うち(内)」にであり、知らない「ま(間)」でもある。無意識と言いなおせば、そこに「無」がある。この「無」を「無間」と仮に呼ぶことができる。「無意識時間」の省略形である。そしてこの「無間」を「空間」と比較すると、ちょっと「錯乱」のようなものが私の中で動く。「空」と「無」は、どこか通じるものがあるからだ。
 三連目は、

もしかするとしんだおとうとも
うたってる ないしょのうた

 「しんだ」おとうとは、この世にはいない。「無」である。「いた」けれど「いなくなった」のが「死んだ」。「ある」と「ない」が不思議な形で結びついている。この世に「ない」。でも思い出すとき、この世に「ある」。思い出すというのは「意識」の働きだね。さらに「死ぬ」を「空しくなる」と言いなおすと、ここに「無」と「空」が再び重なり合うものとしてあらわれてくる。
 そして四連目。

こえをあわせて
わたしもからだのなかでうたっているの
だれにもいえないことがあるとき
どうしていいかわからないとき

 「あいだ」は「なか」にかわっている。
 この「なか」にいちばん近いものは、この詩では「奥」かなあ。からだの「奥」でうたっている。「しらないあいだに」を「しらない内に」と読み替え、その「内」を借りて言えば、「からだの内で」になるかもしれない。そのとき「なか」は「無」ではないね。からだの中が「空洞」ではないのだから。
 そうすると「あいだ(間)」は四連目で消えてしまう?

 「ほしとほしのあいだ(間)」は、「ほしとほしの真ん中」と読むことができる。そうすると、そこに「なか」が入ってくる。
 ただし、この「からだの真ん中」は「ほしとほしの真ん中」のように何もないではないね。ぎっしりつまっている「真ん中」。「ま(間、隙間)」が「ない」。
 ただし、その「真ん中」(奥、内)というものが、「からだ」のなかにあらわれるのは、

だれにもいえないことがあるとき
どうしていいかわからないとき

 なのだ。
 「だれにもいえないことがあるとき」には「ある」ということばがつかわれているのでわかりにくいが、これは「言いたいことがあるのに、いえないとき」である。そして「どうしていいかわからないとき」とは「しなければならないことがあるのに、どうしていいかわからないとき」である。
 「ある」と「ない」が絡み合っているのだが、「いえない」「わからない」の「ない」の方に力点がある。
 その「ない」が「からだのなか」を刺戟して「ぎっしりつまった中」を浮かび上がらせる。気づかせる。その「ぎっしりしまった中」というのは、言い換えれば、「なにもかもがからみあった混沌」のようなものだ。「ある」のだけれど、名前がまだ「ない」何か。
 名前が「ない」から、その「ない」ものをなんとかしたくて、「うた」にする。聞こえてくる「うた」にあわせてみる。「声」をあわせてみる。「声」は「からだのなか」から出てくる。「からだのなか」には「何か」を「生み出す」力がある。「力」が「なか(間)」を埋めている。

 「ないしょ」は「内緒」と書く。(「内所」「内証」という書き方もある。)「緒」は糸口、はじまり。「端緒」ということばがある。からまっているものが、ほどけて、そこから糸(道)がのびていく。まだ、どこにもつづいていない「混沌」のようなものに通じる。
 「ないしょ」は、自分ではわかっているが、他人にはわからないこと。「からだのなか」にある「混沌」は、まだ、ことばになっていないから、だれにもわからない。けれど、自分には「わかる」。
 声をあわせるのは、どこかから「聞こえる」ものを手がかりにして、からまっている「意識の糸(こころの糸)」をほどき始めるのに似ている。

 これって、「詩」の書き始めに似ていないだろうか。あるいは、詩の読み始めにも。
 書きたいことが「ある」。でも、それはどう書けばいいのか、わからない。最初のことばが出てこない。読んで感じることが「ある」。でも、それは、どう書いていいのかわからない。
 書き始めると、ことばが四方八方にひろがり、とりとめもなくなるが。
 こういうことを「からだのなか」と結びつけて考えているところがおもしろい。

 書きながら、読みながら、「からだ」は「じめん」や「もり」や「ゆうやけ」や「ほし」という形で世界になってあらわれている。「じめん」を見ると「地面」になる。「もり」を見ると「森」になる。「ゆうやけ」を見ると「夕焼け」に、「ほし」を見ると「星」になる。





*


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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
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