詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ことばを読む(『太宰治をスペイン語で読む』を読みながら考えたこと)

2018-03-24 13:25:21 | 詩集
ことばを読む(『太宰治をスペイン語で読む』)

 『太宰治をスペイン語で読む』(NHK出版、2017年10月25日発行)の「走れ、メロス」を読んでいる。一か所、勉強し始めの私にまったく歯が立たないところがある。対訳で、注もついているのだが、ページを開くたびにそこでつまずく。
 日本語では、こうである。

きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木端微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。

 漢字熟語が多いのだが、それでも「意味」はわかるし、イメージもぱっと目に浮かぶ。ところが、これがスペイン語になると、まったくお手上げなのだ。
 スペイン語を引用してもしようがないので省略するが(52ページを参照)、なぜなんだろう、とはたと考えた。
 そこから、また日本語にもどって読み直した。
「走れメロス」のなかにはさまざまな文体がある。
 「初夏、満天の星の夜である」というような簡潔で美しい文章もあり、それは私の大好きな一行だが、激流の凝縮した描写は他の部分とはあきらかに違う。太宰は、あえてこの部分をこう書いているのだ、と突然気づいた。
 私はうなってしまう。
 激流を目にして、メロスは立ちすくみ、絶望にかられるのだが、その激流を描写するのに、長く書いていては、読者の気持ちが激流の方に移ってしまう。メロスの感情を忘れてしまう。だから、精一杯短く書く。感情(気持ち)に突き刺さるように、強いことばで「一気」に書き上げている。
 激流はストーリーの一つの「山場」ではあるのだが、その「描写」そのものに時間をかけてしまうと、メロスがどう思ったかを書けなくなる。どうしても凝縮する必要があったのだ。しかも、激しさを実感させなければならない。

 ここに「見せ場」がある。「ことば」の見せ場である。「詩」がある。

 「走れメロス」は友情と信頼をテーマとしている。テーマからすると、こういう障碍は「説明」におわってしまうときがある。ストーリーを動かすだけの「説明」になってしまうときがある。太宰は、これを「説明」にせずに「詩」としてことばを輝かせている。
 この工夫を反映した結果、スペイン語は「複雑」になっている。
 私のスペイン語では、何度読んでも「意味」にならない。「イメージ」が思い浮かばない。スペイン語になれ親しんでいない私には、そのスペイン語が「強すぎる」のである。
 日本語の文章も強く複雑ではあるけれど、何度か聴いたことがあることばなので、イメージはできる。スペイン語は聞く機会がないので、そのことばが「肉体」に入ってこないのである。
 ことばは人間の習慣というか「暮らし」をひきずって動いている。
 太宰は、日本人の読者にそのことばがどう聴こえるかを明確に意識、またそれを利用しながら、そこを「詩」にしている。

 私は、こういう部分を探して読むのが好きである。
 「走れメロス」は中学生のとき読んだと思う。そのときは、この激流の描写に気がつかなかった。最後の「赤いマント」の部分が気になっただけである。それが嫌いで、太宰を読もうとは思わなかった。
 でもスペイン語で読んで、あ、ここがおもしろいところだったのだと気づかされた。突然、太宰を読んでみたいという気持ちになった。太宰の文章の中には、私の気づいていない「詩」があるに違いないと思った。
 本を読む(詩を読む)のは、テーマを読むのではなく(テーマに対する感想を書くのではなく)、そういうことばに触れて、どきどきするためである。
 テーマなど、関係ない。





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目次

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河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(40)

2018-03-24 08:33:45 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(40)(創元社、2018年02月10日発行)

 「モーツァルト、モーツァルト」。高橋悠治の演奏を聞いたときのことを書いている。私は次の三行がとても好きだ。

譜めくりの女優の卵が譜をめくりそこねて
一瞬悠治は片手になって音楽はたゆたい
ぼくらの暮らしの中の物音のひとつとなり

 音楽が乱れる。不完全になる。それを谷川は「物音」になると書いているのだが、私はここに「音楽」があると思う。ふいにあらわれた、そのときだけの「音楽」。あ、これを聴きたい、と突然思った。
 そして思い出したことがある。何年か前、ニューヨークへ行った。ヴィレッジバンガードだったと思うが、ジャズを聴きにいった。目当ての演奏家が出演しているからではなく、ニューヨークへ来たからジャズクラブへ行ってみたかったというだけのことである。誰が演奏したのか、何と言う曲だったかも忘れた。しかし、忘れられない体験をした。演奏の途中に「ゴーッ」と音がする。地下鉄の走る音だ。これを聞いた瞬間、「あ、これがジャズなのだ(音楽なのだ)」と実感した。生活が、そのまわりにそのまま、ある。暮らしが共存している。暮らしといっしょに「音楽」が響いている。
 これはCDや、音響が完全なホールでは味わうことのできない「楽しさ」である。
 谷川が書いているのは、私の体験した「暮らし」とは違うものだが、「完全な音楽(理想の音楽)」が乱れる瞬間の「物音」。そこに「音楽」では表現できない何かがある。谷川が書きたいことは、そういうことではないかもしれないが、私は、聴いてもいない高橋のピアノのその瞬間の「乱れ」を思い、「音楽」を感じる。

 谷川が書こうとしていることは何か。前後を含めて引用し直してみる。

疾走なんかしないでぼくらの隣で
モーツァルトは待ってくれている
いつかぼくらがこの世から消えて失せるのを
譜めくりの女優の卵が譜をめくりそこねて
一瞬悠治は片手になって音楽はたゆたい
ぼくらの暮らしの中の物音のひとつとなり
そのくせ時計には決してできないやりかたで
時間を定義した

 「時間」とは「生きる時間(生きている時間/人生)」を指しているのだろう。「ぼくらがこの世から消え失せる」を言いなおしたものだろう。
 「時間(限りある人生)」の反対のものは「永遠」である。「永遠」を「完璧なもの」と言いなおせば、それは「音楽」であり、「音楽を完璧なもの」というとき、「物音」は「不完全なもの」と言いなおすことができる。「時間」と「永遠」との対比に、「物音」と「音楽」の対比が重なる。私には、そう感じられる。
 「永遠(完璧な存在)」のなかで、一瞬「不完全なもの(時間)」が自己主張する。「意味」のなかで、一瞬「無意味」が自己主張する。この「無意味」を、私は美しいと思う。「意味」を拒絶して、それでもそこに「存在している」。「ある」ことの、無防備な美しさを感じる。
 これは「きいている」の最終連に出てきた、

ねこのひげの さきっちょで
きみのおへその おくで

 の「無意味(ナンセンス)」に似ている。
 美しくて、しかも「強い」。
 ふうつ、あらゆるものは「意味」によって補強される。「意味」をもつことによって強くなる。重要になる、と考えられていると思う。「意味」があるから大切にされる。
 けれど、そうではなくて、「意味」から解放されて、ただそこに「ある」ことがとても不思議に刺戟的な瞬間がある。いや、「頭を殴られる」という感じに似ているかな。「あ、そうか、こういうものがあるのだ」と、その存在に気づかされる。
 それは、気づいた瞬間(いま)は、「意味」がない。しかし、いつかきっと「未知の意味」になると思う。「未生の意味」が「無意味」のなかに「自己主張している」と感じるのだ。

 谷川はモーツァルトを「定義」して、

オナラやウンコが大好きだった男

 と書いている。「オナラやウンコ」は、やはり、ふつうは「意味」から逸脱して「ある」ものだと思う。「意味から逸脱している」けれど、それは生きていくとき全体に「不可欠」なのものだ。「生きている」証のようなものだ。「生きている時間」を「定義」している何かなのだ。
 




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長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
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石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
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