詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(23)

2018-03-07 09:11:03 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(23)(創元社、2018年02月10日発行)

 「おまえが死んだあとで」は、どんな具合に「音楽」と関係があるのか。二連目に「歌声」ということばがある。しかし私には「歌声」は聞こえない。単なる「ことば」として、そこにある、という感じしかしない。私が「音楽」を感じるのは、別なところである。

おまえが死んだあとで
青空はいっそう青くなり
おまえが死んだあとで
ようやくぼくはおまえを愛し始める
残された思い出の中で
おまえはいつでもほほえんでいる

 「通俗的」な歌、古い歌謡曲を思わせる。「おまえが死んだあとで」が繰り返されるところも歌謡曲っぽい。書かれている「意味(内容)」も通俗的かもしれない。二行目の「青空はいっそう青くなり」は、そのなかでは少し変わっている。だから、あ、ここがおもしろい、と思う。
 もし谷川の詩の特徴について語るならば、ここかなあ、と考えたりする。
 二連目は、一連目を繰り返しながら別なことばも動く。繰り返しと変化(変奏)が「音楽(歌謡曲)」という印象をいっそう強くする。

おまえが死んだあとで
歌声はちまたに谺して
おまえが死んだあとで
ようやくぼくはおまえに嘘をつかない
残された一通の手紙に
答えるすべもなく口をつぐんで

 「おまえが死んだあとで」とは別に、連をまたいで繰り返されることばがある。「ようやく」と「残された」である。こういう繰り返しの構造が「歌(音楽)」の感覚を呼び覚ます。繰り返しながら変化している。そのリズムが「歌(音楽)」である。
 この連では「おまえが死んだあとで/ようやくぼくはおまえに嘘をつかない」が「意味(内容)」として刺戟的である。「嘘をつかない」ではなく、「つけない」というのが現実である。「おまえ」が「いない」のだから、嘘をつきようがない。現実を別の角度から言いなおすと、そこに詩があらわれるのかもしれない。
 レトリックだね。

おまえが死んだあとで
人々は電車を乗り降りし
おまえが死んだあとで
ようやくぼくはおまえを信じ始める
残されたくやしさの中で
ぼくらは生きつづけひとりぼっちだ

 「ようやくぼくはおまえを信じ始める」は「ようやくぼくはおまえに嘘をつかない」を思い起こさせる。これも繰り返しと変化(変奏)のひとつである。
 そう思って読むと、この「変奏」の「繰り返し」にも微妙な違いが見えてくる。
 「ようやくぼくはおまえを愛し始める」「ようやくぼくはおまえを信じ始める」は「ようやく……始める」なのに、「ようやくぼくはおまえに嘘をつかない」には「始める」がない。けれど、これは「ようやくぼくはおまえにほんとうを語り始める」と言いなおせば「始める」が隠されていることになる。
 「繰り返し」も「変化」も、あまりにも自然に見えるが、どちらも「つくられたもの」(人間が創ったもの)であることがわかる。「工夫」が隠れている、というのが「つくりもの」の証拠である。
 「残された思い出」は「一通の手紙」「くやしさ」と言いなおされる。「思い出」を「感情」にまで凝縮していくところも「工夫」だし、「ちまた」を「電車」と言いなおすのも「変奏」である。
 と、読んできて。
 最後に、私は、「わっ」と声を出しそうになる。

ぼくらは生きつづけひとりぼっちだ

 「ぼくら」って、だれ?
 一連目は、「おまえはいつでもほほえんでいる」と「おまえ」が「主語」。二連目は「答えるすべもなく口をつぐんで」と主語は書かれていないが「ぼく」だろう。

残された一通の手紙に
「ぼくは」答えるすべもなく口をつぐんで(いる)

 と、ことばを補うと、繰り返しと変奏がわかりやすくなる。
 そうすると、三連目の「ぼくら」は、こう言いなおすべきなのだ。

「おまえ」と「ぼく」は生きつづけひとりぼっちだ(でいる)

 「ぼく」が「生きつづけ」「ひとりぼっち」というのは、「おまえが死んだあと」なので当然のことである。でも

おまえは生きつづけひとりぼっちでいる

 はどうか。「死んでいる」のに「生きつづける」は矛盾している。非論理的だ。しかし、ここに「残された思い出の中で」「残された一通の手紙の中で」「残されたぼくのくやしさの中で」とことばを補うと、どうなるだろう。
 「思い出の中で人が生きつづけている」という言い方は、しばしばだれもが口にする。人は死んでも「思い出の中で生きつづけている」。その人が「ひとりぼっち」なのは、「思い出」と「現実(いま)」が、接続しながら切断しているからだ。「思い出」に閉じこめられて、そこから出て来られない。「思い出」のなかで「ひとりぼっち」。
 ここには、「おまえ」と「ぼく」が切り離せない形で結びついている。「接続と切断」が、そこにある
 「おまえ」を「沈黙」、「ぼく」を「音」と言いなおしてみれば、これは谷川が語り続けている「音楽」の「構造」そのものになる。
 繰り返しと変奏という、感覚的につかみやすい部分だけを読んでいて、最後に、突然、「ここに音楽がある」と「音楽」をぶつけられたような衝撃を受ける。

 

*


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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
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