詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(42)

2018-03-26 12:17:40 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(42)(創元社、2018年02月10日発行)

 「夕立の前」。三連目に印象的な二行がある。

沈黙は宇宙の無限の希薄に属している
静けさはこの地球に根ざしている

 「沈黙」と「静けさ」が「宇宙」と「地球」の「対」で語られている。「対構造」が強いので、ぐいと引きずり込まれる。その強さのせいで見落としてしまうのだが、ここにはもうひとつの「対」がある。
 「無限の希薄さ」と「対」になったものが、ほんとうはある。そして、それは省略されている。
 どういうときでもそうだが、「省略されたもの」が「キーワード」である。「キーワード」は書いている本人にはわかっているので、書く必要がない。書かずにすましてしまう。
 (今、日本中で騒いでいる「森友学園文書改竄」も同じである。最初はあったことばを「改竄」し、「削除」する。それでも「わかる」。最初に書かれていたことばは、もう「財務省」のなかにしみついてしまっている。省内では「意図」は通じる。対外的に消してみせただけのことである。)
 で、その「無限の希薄さ」の「対」とは何か。
 「無限の豊かさ」である。「地球の無限の豊かさ」。
 宇宙には空気がなくて(無限に希薄で)、「音」がない。しかし、地球には空気があって「音」が無限にある。
 この「無限」は、二連目に書かれている。

静けさはいくつものかすかな命の響き合うところから聞こえる
虻の羽音 遠くのせせらぎ 草の葉を小さく揺らす風……

 「いくつもの」は「無限」に対応している。その「いくつも」は「かすか」という「希薄」の積み重ねである。「音」と言わずに「命」と谷川は書く。「音」が「命(生きること/動くこと)」から生まれているからだ。虻は羽を動かして生きている。せせらぎ(水)は流れることで生きている。草は風に揺れて生きている。無数の「生きているもの(命)」が響きあっている。「生きている」ものを支える「静かさ」がある。
 この「静かさ」と「音」との関係は、芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を思い起こさせる。「音」から「音」ではなく、そのとき「共存」している「静かさ」を聞く。芭蕉の句には「蝉の声」とだけ書いてある。一匹の強靱な蝉の声か、無数の蝉の強靱な声か。一匹ととらえた方が「閑さ」が強靱になると思う。「一対一」の迫力。
 で、この「静けさ」を引き継いで、三連目、

いくら耳をすませても沈黙を聞くことは出来ないが
静けさは聞こうと思わなくても聞こえてくる
ぼくらを取り囲む濃密な大気を伝わって
沈黙は宇宙の無限の希薄に属している
静けさはこの地球に根ざしている

 と書かれている。「無限の希薄」の「対」は「濃密な大気」であり、それは「ぼくらを取り囲む」。「濃密な大気」のなかには「無限の小さな音」が「命」そのものとして「響き合っている」。
 このあと、詩は四連目に移り、

だがぼくはそれを十分に聞いただろうか

 という行から「転調」する。複雑になる。
 「それ」というのは直前の「静けさ」を指しているととらえるのが、たぶん「学校文法(学校解釈)」の読み方だと思うのだが、簡単には、そう読みきれない。

だがぼくはそれを十分に聞いただろうか
この同じ椅子に座って女がぼくを責めたとき
鋭いその言葉の刺は地下でからみあう毛根につながり
声には死の沈黙へと消え去ることを拒む静けさがひそんでいた

 「声」と「沈黙」と「静けさ」の関係が、一回読んだだけではわからない。自然の命が持っている「音」と「静けさ」、その彼方にある「宇宙の沈黙」との「対」のような「構造」が見えてこない。
 「声」は「人間の発する音」。(自然なら「虻の羽音」など。)
 それは「沈黙(死=個人の主張が拒絶/排除されること/消されること)」を拒んでいる。つまり「自己主張している」。それは、「うるさい」かもしれないが、そこには「静けさ」が「ひそんでいる」。
 この「静けさ」は、これまで書かれていた「静けさ」とは何かが違う。「自然の音/自然の静けさ」は「同居」している。「響き合っている」。
 ところが、この四連目には「拒む」ということばがある。「同居/響き合う」とは異質なものがある。
 「地下でからみあう毛根」の「音」は聞こえない。そこには「静けさ」ではなく、むしろ「沈黙」がある。「責める声(怒り)」はたいがいは「大声」である。そこには「静けさ」はない。むしろ、「沈黙」のような、「強い」ものがある。(「沈黙」という「漢字熟語」が強さを感じさせる。)「沈黙」していた何かが、自己主張する強さ。「沈黙」させられていたものが噴出してくる「力」がある。

声には静かさのなかに安住すること(静かさと同居/共存すること)を拒む沈黙があふれていた

声には生の静かさの中に消え去ることを拒む沈黙が隠れていた

 という具合に「死」と「生」、「沈黙」と「静かさ」を入れ替えて読んでみる必要があると思う。
 「だがぼくはそれを十分に聞いただろうか」の「それ」は「静かさ」である、あるいは「沈黙」であると相対化、固定化して読むのではなく、ふたつがあわさったもの、ある瞬間瞬間にあらわれてくる「それ」としか呼べないものとして読みたい。

はるか彼方の雲から地上へ稲光りが走り
しばらくしてゆっくりと長く雷鳴が尾をひいた
人間がこの世界に出現する以前から響いていた音を
私たちは今なお聞くことができる

 この「音」を支えているのは(この「音」と向き合っているのは)、「静けさ」なのか「沈黙」なのか。「宇宙」と「地上(地球)」、「人間」と「世界」(「私」と「他者」)を「対」にして、私は、この「わからなさ」に立ち止まる。
 「わからない」、言い換えれば、読む瞬間瞬間に感想が違ってきてしまう、そういう違いを生み出しながら生きているのが「詩」なのかもしれない。「わかってはならない」もの、その前で立ち止まるしかないものが「詩」なのだと思ってみる。





*


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目次

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河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
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     *
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水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」

2018-03-26 12:15:34 | 詩(雑誌・同人誌)
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」(「ヘロとトパ」2、2018年02月25日発行)

 水木ユヤ「わたし」について何が書けるか。どういう感想が書けるか。とてもむずかしい。

わたしはあさおきてがっこうへいきます
じゅぎょうちゅうにねていません
せんせいのめをみておへんじします
おともだちとけんかしません
だれもみてなくてもおそうじします
ゆうがたおうちにかえります
しゅくだいしてからあそびます
おとうさんおかあさんになまいきなくちをききません
きょうだいなかよくおてつだいします
おふろにはいってきれいにからだをあらいます
さっさとねどこにはいります
わたしはいいこです

 これは水木自身のことでも、水木のことばでもない。「小学生」の一日を書いている。そして、このなかに「ほんとう」があるとすれば、まあ、「わたしはあさおきてがっこうへいきます」だろうなあ。
 いや、すべて「ほんとう」かもしれないけれど、私は、そうは読まない。読めない。
 授業中に居眠りして、よそみして、先生と目をあわせない。友だちとけんかし、掃除はてきとうに手抜き。家に帰ることは、もう暗くなっている。宿題は遊んだあとでやる。父や母に生意気な口をきき、兄弟喧嘩をする。ふろも、てきとう。なかなか寝床に入らない。書いてあることは全部嘘。「いいこ」なんかではない。
 きっと叱られたことだけが書いてある。最初の「わたしはあさおきてがっこうへいきます」も、「早く起きて、さっさと学校へ行きなさい」と言われているのだ。
 で、こんな「嘘」ばっかり書いてあるのに、なぜか、おもしろい。
 ひとは「叱られたこと」をおぼえているのだ。「うらんで」いるかもしれない。それが「ことば」となってしみついている。叱られたことを、いちいち、おぼえている。その全部を一気に書いている。この「一気」がおもしろい。
 そして、この「一気」のなかには、もうひとつ不思議なことがある。たとえば「じゅぎょうちゅうにねていません」だけなら「わたしいいこです」は「ほんとう」になるのかもしれないが、「一気」に全部言うから「嘘」が丸見えになる。「いいこと」を重ねれば重ねるほど「嘘」が大きくなる。やっていることが「裏目」にでる。全部嘘じゃないか、と言われてしまう。たとえそのなかにひとつ「ほんとう」が書かれていたとしても。この関係が、なんともいえず、おかしい。楽しい。
 「ことばの肉体」がくっきりと見える。「見えすぎる」。まるで、自分自身の「肉体」そのものを見るみたいに。
 で、どうということはない、特に感想も書く必要もないことなんだけれど、やっぱり書いてみたいという気持ちになる。この詩の感想をきちんと書けたらいいだろうなあ、と刺戟される。
 いま書いたことが、感想になっているのかどうか、とてもあやしいが。

 特別な体験をことばにすれば詩になるのではない。
 あたりまえのこと、誰もがしていること(したこと)でも、書き方次第で詩になる。詩は、ことばの運動なのだ。
 「書き方」が詩ということになる。



 山本純子「いいことがあったとき」は、水木の作品に比べると「詩」と言いたくなる部分がある。

いいことがあったとき
帽子をつかんで
空へ 思いっきり
ほうりあげる人がいる

喜びが
空のあのへんまで
わき上がっているんだ
と はっきり
目に見えるように

 一連目は「実景」。だれもが見たことがあると思う。二連目は、ことばでしか「見えない」ものを書いている。「ことば」にすることによって初めて見えるものが書かれている。これは「詩」だね。
 水木の詩には「初めて」のことばがない。だれもがみんな知っていることばしか書かれていない。だから、ここが「新鮮」、ここが「発見」と言えない。「詩」がないとさえ、いえるかもしれない。
 でも、そこにも詩はある。
 山本の詩にもどる。

もちろん 帽子は
すぐに落ちてくるから
その人は
帽子をかぶりなおして
また 何もなかったかのように
歩いていく

 これは、また「実景」。「何もなかったかのように」というのは山本の感想。この感想が差し挟まれることで、「実景」が「実景」ではなく、山本だけが見た「新しい世界」になる。「新しい世界」といっても、それはすでにあった。あったけれど、だれも書かなかった。山本が書くことによって生み出された世界。
 「書き方」が詩になっているのだ。
 ちょっと、そういう楽しい「揺れ動き」があって、最終連。

注文した帽子を
受けとりに行くと
 帽子が
 空に浮かんでしまう
 ことがあります
と書いた
領収書をくれる

 これは完全な「嘘」。そんな帽子屋があるはずがない。そういう帽子もあるはずがない。でも、この嘘によって、そうか、いま山本は帽子が空に浮かんでしまうくらいうれしいんだ、とわかる。「書かれていること」は「事実(ほんとう)」ではないが、そのことばのなかに「ほんとう」がある。「書き方」のなかに詩がある。ことばが動くと詩になるのだ。

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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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自民党憲法改正案(1)

2018-03-26 12:13:41 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正案(1)
             自民党憲法改正草案を読む/番外197(情報の読み方)

 自民党憲法改正案の全文が発表された。引用は、2018年03月26日の読売新聞から。「自衛隊の根拠規定を明記する案は、多数派が指示する有力案」とのただし書きがついている。「正式」にはまだ未定ということか。
 改正案だけでは問題点が見えにくいので、関連する現行憲法と照らし合わせて読んでみる。

(現行憲法)
第2章 戦争の放棄
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 これに自民党は「自衛隊の根拠規定」を明示する。「 9条の2」を追加する。(1)(2)(3)という表記は自民党案にはないが、あとで項目ごとに説明するためにつけた。改行も、分かりやすくするためにつけくわえた。

9条の2
1項 (1)前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、
(2)そのための実力組織として、法律の定めるところにより、
(3)内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮官とする自衛隊を保持する。
2項 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
 自民党案のいちばんの問題点は「主語」が「国民」ではないことだ。
 現行憲法は「日本国民は」と「国民」を主語にして書かれている。すべての「動詞(述語)」の主語は「国民」である。
 1項は、わかりやすく書き直すと、
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する。
 日本国民は、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は(ここまでがテーマ)、永久にこれを放棄する。
 (この文体は、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」という文体と同じ。テーマを先にかかげ、「これを」という形で引き継ぐ。定義する。)
 途中にある「国際紛争を解決する手段としては」は「テーマの補足」である。
 日本国民は、国際紛争を解決する手段としては、(戦争と武力をつかうことは)永久にこれを放棄する、と言っている。
 2項目に「日本国民」を補うと、
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は(これがテーマ)、これを「日本国民は」保持しない。
 国の交戦権は(これがテーマ)、これを「日本国民は」認めない。

 自民党の案では「国民」が消えている。補うことが出来ない。
(1)前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、
 この「主語」は「前条の規定」である。それにつづく文章は「説明」である。「妨げず」という動詞(述語)の主語は「前条の規定」であり、これは「説明文」になる。
 前条は、「我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げる」とは「規定していない」と言う文章を「言い換えた」ものである。「規定していない」という「解釈」を、「解釈」とわからないように書いている。
 「解釈する」というときは「動詞」が必要である。
 「前条は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げるとは規定していない」と、「国民は」解釈するでは、「解釈」を「国民」に押しつけることなる。これは「思想、信条の自由」に反する。だから、そうは書けない。「前条」をそのように「解釈する」人間は限られている。
 これは、

(1)前条は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げるとは規定していないと、「政府は」解釈する

 なのである。「政府(政権)」という「主語」が明示されないまま、ここに登場してくる。案をつくった「自民党」と言い換えてもいい。
 この「政権/自民党」という「主語」が引き継がれていく。

(2)そのための実力組織として、「政権(自民党)が提出した」法律の定めるところにより、
(3)内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮官とする自衛隊を「政権(自民党)が」保持する。

 「法律」を「提案できる」のは「国民」ではない。「自衛隊」という組織を「保持できる」のは「国民」ではない。
 「動詞」と「主語」をていねいに補いながら読む必要がある。「動詞」と「主語」を補うと、「憲法」の「主役」が「国民」から「政権(自民党)」に移ってることがわかる。それも「隠したまま」、「主語」を乗っ取っているのである。
 「内閣総理大臣を最高の指揮官とする」ということばに従えば、主語は「内閣総理大臣(安倍)」ということになる。

(1)前条は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げるとは規定していないと、「安倍は」解釈する
(2)そのための実力組織として、「安倍が提出した」法律の定めるところにより、
(3)内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮官とする自衛隊を「安倍が」保持する。
 つまり、これは「独裁」の宣言なのだ。しかもその「独裁」は「自衛隊」という組織をバックボーンに持っている。「軍事独裁」が安倍の夢なのだ。(2)で現行憲法で禁じている「武力」ということばつかわず「実力組織」とあいまいにしているのも、国民をだますためなのだ。
 (2)で補った「安倍が提出した」を中心に改憲の動きを見直すと、このことがよくわかる。
 改憲は安倍が提案したのだ。憲法を守る義務がある安倍が、率先して憲法を否定している。「軍事独裁」のために、である。

2項 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
 にも、「日本国民」を補うことは出来ない。あえて補えば

自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、「国民を代表する」国会の承認その他の統制に服する。

になるかもしれないが、「内閣(総理大臣」と「国会」の出てくる順序が現行憲法とは違う。現行憲法は「天皇→戦争放棄→国民→国会→内閣」という順に規定している。重視するものから先に規定している。
 「9条の2」で「国民」を飛び越して「主語」になった「安倍(内閣総理大臣)」は当然のように、ここでは「国会」を飛び越している。「国会」のうえに君臨する。

 安倍(自民党)の改憲案は、「安倍軍事独裁」のための改憲案である。

(他の改憲案に対する意見は、後日書く。)
 民主主義の基本である「議論」。これを封じることで「独裁」を完成させる。その「線」ですべての「事件」、あるいは「できごと」はつながっている。そして、批判力を身につけさせないための「学校づくり」を、その根底においている。これが安倍のやっていることなのだ。憲法を変え、独裁者になるための下準備なのだ。







#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
問い合わせは
yachisyuso@gmail.com
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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