監督 ヨルゴス・ランティモス 出演 コリン・ファレル、ニコール・キッドマン、バリー・コーガン
映画が始まると、いきなり不気味なシーンがあらわれる。コリン・ファレルと同僚が病院の廊下を歩いているのだが、どこまでもどこまでも廊下がつづいている。それだけではなく「カメラの視点」が通常とは違う。一点透視の構図はキューブリックも好んでつかうが、ヨルゴス・ランティモスの「カメラの視点」はスクリーンの中央にない。通常の人間の「視点」よりも高い位置にある。3メートルくらいから見おろしているという感じ。その位置でカメラがコリン・ファレルスの動きにあわせて動く。見慣れた映像ではないので、「乗り物酔い」の感じがする。1分足らずのシーンだと思うが。
このシーンに限らないが、「遠近感」がとてもかわっている。コリン・ファレルがバリー・コーガンと最初に会うファミリーレストランのような店内の映し方も、目の悪い私などは「くらり」としてしまう。
息子と娘が「病気」になり、その「病気」の見当会議(?)のようなシーンも、ふつうはスクリーンに映らない天上、床が上下に広く映し出され、会議室が「遠近法」のなかに閉じこめられているようになっている。
コリン・ファレルの家が外から映されるとき、単純に近づいていくのではなく、左右に行きつ戻りつしてアップになる。これなども「酔い」を引き起こす。
これはいったい何なのか。
「酔い」の感覚から、考え直してみる。「酔い」というのは「自分の頭の中にある世界(初めての風景でもこうだろうと予想している世界)」とは違ったものが「頭」のなかへ飛び込んできて起こる。三半規管が何かわからないけれど、そこがバランスを崩すと、「視覚」がゆれて、「予想していた世界」と「実際に見える世界」が微妙にずれる。その「ずれ」が「ゆれ」となって増幅し、「頭の中」が気持ち悪くなる。
この「酔い」の感覚が「比喩」となって、この映画を動かしている。
「自分の見る世界(コリン・ファレルの見る世界)」と「他人の見る世界(バリー・コーガン)」は違う。コリン・ファレルから見れば「手術ミス(自覚がある)」だが、バリー・コーガンから見れば「殺人」である。コリン・ファレルにはアルコールを飲んでのミスという意識があるから、バリー・コーガンの「殺人」という「世界」を完全に拒否できない。それは「罪滅ぼし」という意識になって、二人を結びつけるのだが、そこにはやはり「ずれ」が残り続ける。「許されたい」と「許せない」が交錯する。この「修正できないずれ(ゆれ)」が映画を支配する。
この「ずれ(ゆれ)」をさらに気持ち悪くさせるシーンがある。バリー・コーガンがニコール・キッドマンの前でスパゲティを食べる。とてもだらしない食べ方である。食べながら、バリー・コーガンがこんなことを言う。「私の食べ方はとても特徴的で、父親に似ていると言われる。フォークでぐるぐるまいて口に運ぶ。そういわれて、私は父を引き継いでいる、と思った。けれど、それは特別かわった食べ方ではなく、みんなが同じようにフォークでぐるぐるまいて口に運ぶ。違っていない。」
でも、そうかな? やっぱり違う。「ことば」にすれば同じでも、「見える」ものは違う。また「似ている」ということもある。「違い」と「同じ」が「ずれ」としてそこに隠されている。
何が同じで、何が違うか。違うと感じるとしたら、それは何によってなのか。
ここから映画のクライマックスが急展開する。家族の誰かを殺さなければ、全員が死んでしまう。さて、誰を殺すことになるのか。誰が殺されることになるのか。殺す主役は父(コリン・ファレル)と決まっているので、彼に対して「命乞い」がはじまる。「家族」は「みな同じ」はずなのに、自分はコリン・ファレルの気に入るようになるから、自分を許して(殺さないで)と言う。他人を蹴散らすというのではなく、自分を売り込む。この「エゴイズム」と「愛」の「ずれ(ゆれ)」が、なんとも言えず、「気持ちが悪い」。
これは何かおかしいとわかるのだが、何がおかしいのか、どこを修正すれば「ゆれ」がなくなり、「酔い」の感じがなくなのか、明確に言えない。
最後の決断を、コリン・ファレルが目隠しをしてぐるぐるまわり、「酔った」感覚のまま、誰かを射殺するという描き方も、「ゆれ(ずれ)」と「酔い(正常ではなくなる)」を強調している。
で、ここでストーリーの「カギ」になっている「立てなくなる」「食べることができなくなる」という「病気」だが、これも振り返ってみれば「酔い」に通じる。船酔いをすると立っていられなくなる。ものも食べられない。食べても吐いてしまう。一口かじっただけのリンゴさえ、娘は吐いてしまう。
コリン・ファレルの手術の失敗、この映画の「起点」も、「アルコールの酔い」である。
「酔い」とは何なのか。これをテーマに「ギリシャ悲劇」風に仕立て、それを「映像」として結晶させたのが、この映画ということになる。とても「凝った」映画なのだ。この「凝り」をどう評価するかむずかしいが、気持ち悪いと感じるのは「酔い」そのものを「体感」した証拠、つまり映画が成功していることの証明になるので、★一個を追加した。
こんな映画は、見たことがない。
それにしても。
バリー・コーガンはうまい。背中を丸めて、未成熟の16歳の肉体の不完全さを体現し、顔も半分だらしなくし、未成熟の不気味さを出している。めつき、口の動き、どこをとっても「演技」している。最初は「演技」しすぎているように感じるのだが、これがまた映画の狙いの「酔い」を引き起こすのだから、最初から「計画」されたものなのだろう。
(KBCシネマ1、2018年03月25日)
*
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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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映画が始まると、いきなり不気味なシーンがあらわれる。コリン・ファレルと同僚が病院の廊下を歩いているのだが、どこまでもどこまでも廊下がつづいている。それだけではなく「カメラの視点」が通常とは違う。一点透視の構図はキューブリックも好んでつかうが、ヨルゴス・ランティモスの「カメラの視点」はスクリーンの中央にない。通常の人間の「視点」よりも高い位置にある。3メートルくらいから見おろしているという感じ。その位置でカメラがコリン・ファレルスの動きにあわせて動く。見慣れた映像ではないので、「乗り物酔い」の感じがする。1分足らずのシーンだと思うが。
このシーンに限らないが、「遠近感」がとてもかわっている。コリン・ファレルがバリー・コーガンと最初に会うファミリーレストランのような店内の映し方も、目の悪い私などは「くらり」としてしまう。
息子と娘が「病気」になり、その「病気」の見当会議(?)のようなシーンも、ふつうはスクリーンに映らない天上、床が上下に広く映し出され、会議室が「遠近法」のなかに閉じこめられているようになっている。
コリン・ファレルの家が外から映されるとき、単純に近づいていくのではなく、左右に行きつ戻りつしてアップになる。これなども「酔い」を引き起こす。
これはいったい何なのか。
「酔い」の感覚から、考え直してみる。「酔い」というのは「自分の頭の中にある世界(初めての風景でもこうだろうと予想している世界)」とは違ったものが「頭」のなかへ飛び込んできて起こる。三半規管が何かわからないけれど、そこがバランスを崩すと、「視覚」がゆれて、「予想していた世界」と「実際に見える世界」が微妙にずれる。その「ずれ」が「ゆれ」となって増幅し、「頭の中」が気持ち悪くなる。
この「酔い」の感覚が「比喩」となって、この映画を動かしている。
「自分の見る世界(コリン・ファレルの見る世界)」と「他人の見る世界(バリー・コーガン)」は違う。コリン・ファレルから見れば「手術ミス(自覚がある)」だが、バリー・コーガンから見れば「殺人」である。コリン・ファレルにはアルコールを飲んでのミスという意識があるから、バリー・コーガンの「殺人」という「世界」を完全に拒否できない。それは「罪滅ぼし」という意識になって、二人を結びつけるのだが、そこにはやはり「ずれ」が残り続ける。「許されたい」と「許せない」が交錯する。この「修正できないずれ(ゆれ)」が映画を支配する。
この「ずれ(ゆれ)」をさらに気持ち悪くさせるシーンがある。バリー・コーガンがニコール・キッドマンの前でスパゲティを食べる。とてもだらしない食べ方である。食べながら、バリー・コーガンがこんなことを言う。「私の食べ方はとても特徴的で、父親に似ていると言われる。フォークでぐるぐるまいて口に運ぶ。そういわれて、私は父を引き継いでいる、と思った。けれど、それは特別かわった食べ方ではなく、みんなが同じようにフォークでぐるぐるまいて口に運ぶ。違っていない。」
でも、そうかな? やっぱり違う。「ことば」にすれば同じでも、「見える」ものは違う。また「似ている」ということもある。「違い」と「同じ」が「ずれ」としてそこに隠されている。
何が同じで、何が違うか。違うと感じるとしたら、それは何によってなのか。
ここから映画のクライマックスが急展開する。家族の誰かを殺さなければ、全員が死んでしまう。さて、誰を殺すことになるのか。誰が殺されることになるのか。殺す主役は父(コリン・ファレル)と決まっているので、彼に対して「命乞い」がはじまる。「家族」は「みな同じ」はずなのに、自分はコリン・ファレルの気に入るようになるから、自分を許して(殺さないで)と言う。他人を蹴散らすというのではなく、自分を売り込む。この「エゴイズム」と「愛」の「ずれ(ゆれ)」が、なんとも言えず、「気持ちが悪い」。
これは何かおかしいとわかるのだが、何がおかしいのか、どこを修正すれば「ゆれ」がなくなり、「酔い」の感じがなくなのか、明確に言えない。
最後の決断を、コリン・ファレルが目隠しをしてぐるぐるまわり、「酔った」感覚のまま、誰かを射殺するという描き方も、「ゆれ(ずれ)」と「酔い(正常ではなくなる)」を強調している。
で、ここでストーリーの「カギ」になっている「立てなくなる」「食べることができなくなる」という「病気」だが、これも振り返ってみれば「酔い」に通じる。船酔いをすると立っていられなくなる。ものも食べられない。食べても吐いてしまう。一口かじっただけのリンゴさえ、娘は吐いてしまう。
コリン・ファレルの手術の失敗、この映画の「起点」も、「アルコールの酔い」である。
「酔い」とは何なのか。これをテーマに「ギリシャ悲劇」風に仕立て、それを「映像」として結晶させたのが、この映画ということになる。とても「凝った」映画なのだ。この「凝り」をどう評価するかむずかしいが、気持ち悪いと感じるのは「酔い」そのものを「体感」した証拠、つまり映画が成功していることの証明になるので、★一個を追加した。
こんな映画は、見たことがない。
それにしても。
バリー・コーガンはうまい。背中を丸めて、未成熟の16歳の肉体の不完全さを体現し、顔も半分だらしなくし、未成熟の不気味さを出している。めつき、口の動き、どこをとっても「演技」している。最初は「演技」しすぎているように感じるのだが、これがまた映画の狙いの「酔い」を引き起こすのだから、最初から「計画」されたものなのだろう。
(KBCシネマ1、2018年03月25日)
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