詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ヨルゴス・ランティモス監督「聖なる鹿殺し」(★★★★+★)

2018-03-25 22:20:45 | 映画
監督 ヨルゴス・ランティモス 出演 コリン・ファレル、ニコール・キッドマン、バリー・コーガン

 映画が始まると、いきなり不気味なシーンがあらわれる。コリン・ファレルと同僚が病院の廊下を歩いているのだが、どこまでもどこまでも廊下がつづいている。それだけではなく「カメラの視点」が通常とは違う。一点透視の構図はキューブリックも好んでつかうが、ヨルゴス・ランティモスの「カメラの視点」はスクリーンの中央にない。通常の人間の「視点」よりも高い位置にある。3メートルくらいから見おろしているという感じ。その位置でカメラがコリン・ファレルスの動きにあわせて動く。見慣れた映像ではないので、「乗り物酔い」の感じがする。1分足らずのシーンだと思うが。
 このシーンに限らないが、「遠近感」がとてもかわっている。コリン・ファレルがバリー・コーガンと最初に会うファミリーレストランのような店内の映し方も、目の悪い私などは「くらり」としてしまう。
 息子と娘が「病気」になり、その「病気」の見当会議(?)のようなシーンも、ふつうはスクリーンに映らない天上、床が上下に広く映し出され、会議室が「遠近法」のなかに閉じこめられているようになっている。
 コリン・ファレルの家が外から映されるとき、単純に近づいていくのではなく、左右に行きつ戻りつしてアップになる。これなども「酔い」を引き起こす。
 これはいったい何なのか。
 「酔い」の感覚から、考え直してみる。「酔い」というのは「自分の頭の中にある世界(初めての風景でもこうだろうと予想している世界)」とは違ったものが「頭」のなかへ飛び込んできて起こる。三半規管が何かわからないけれど、そこがバランスを崩すと、「視覚」がゆれて、「予想していた世界」と「実際に見える世界」が微妙にずれる。その「ずれ」が「ゆれ」となって増幅し、「頭の中」が気持ち悪くなる。
 この「酔い」の感覚が「比喩」となって、この映画を動かしている。
 「自分の見る世界(コリン・ファレルの見る世界)」と「他人の見る世界(バリー・コーガン)」は違う。コリン・ファレルから見れば「手術ミス(自覚がある)」だが、バリー・コーガンから見れば「殺人」である。コリン・ファレルにはアルコールを飲んでのミスという意識があるから、バリー・コーガンの「殺人」という「世界」を完全に拒否できない。それは「罪滅ぼし」という意識になって、二人を結びつけるのだが、そこにはやはり「ずれ」が残り続ける。「許されたい」と「許せない」が交錯する。この「修正できないずれ(ゆれ)」が映画を支配する。
 この「ずれ(ゆれ)」をさらに気持ち悪くさせるシーンがある。バリー・コーガンがニコール・キッドマンの前でスパゲティを食べる。とてもだらしない食べ方である。食べながら、バリー・コーガンがこんなことを言う。「私の食べ方はとても特徴的で、父親に似ていると言われる。フォークでぐるぐるまいて口に運ぶ。そういわれて、私は父を引き継いでいる、と思った。けれど、それは特別かわった食べ方ではなく、みんなが同じようにフォークでぐるぐるまいて口に運ぶ。違っていない。」
 でも、そうかな? やっぱり違う。「ことば」にすれば同じでも、「見える」ものは違う。また「似ている」ということもある。「違い」と「同じ」が「ずれ」としてそこに隠されている。
 何が同じで、何が違うか。違うと感じるとしたら、それは何によってなのか。
 ここから映画のクライマックスが急展開する。家族の誰かを殺さなければ、全員が死んでしまう。さて、誰を殺すことになるのか。誰が殺されることになるのか。殺す主役は父(コリン・ファレル)と決まっているので、彼に対して「命乞い」がはじまる。「家族」は「みな同じ」はずなのに、自分はコリン・ファレルの気に入るようになるから、自分を許して(殺さないで)と言う。他人を蹴散らすというのではなく、自分を売り込む。この「エゴイズム」と「愛」の「ずれ(ゆれ)」が、なんとも言えず、「気持ちが悪い」。
 これは何かおかしいとわかるのだが、何がおかしいのか、どこを修正すれば「ゆれ」がなくなり、「酔い」の感じがなくなのか、明確に言えない。
 最後の決断を、コリン・ファレルが目隠しをしてぐるぐるまわり、「酔った」感覚のまま、誰かを射殺するという描き方も、「ゆれ(ずれ)」と「酔い(正常ではなくなる)」を強調している。

 で、ここでストーリーの「カギ」になっている「立てなくなる」「食べることができなくなる」という「病気」だが、これも振り返ってみれば「酔い」に通じる。船酔いをすると立っていられなくなる。ものも食べられない。食べても吐いてしまう。一口かじっただけのリンゴさえ、娘は吐いてしまう。
 コリン・ファレルの手術の失敗、この映画の「起点」も、「アルコールの酔い」である。

 「酔い」とは何なのか。これをテーマに「ギリシャ悲劇」風に仕立て、それを「映像」として結晶させたのが、この映画ということになる。とても「凝った」映画なのだ。この「凝り」をどう評価するかむずかしいが、気持ち悪いと感じるのは「酔い」そのものを「体感」した証拠、つまり映画が成功していることの証明になるので、★一個を追加した。
 こんな映画は、見たことがない。

 それにしても。
 バリー・コーガンはうまい。背中を丸めて、未成熟の16歳の肉体の不完全さを体現し、顔も半分だらしなくし、未成熟の不気味さを出している。めつき、口の動き、どこをとっても「演技」している。最初は「演技」しすぎているように感じるのだが、これがまた映画の狙いの「酔い」を引き起こすのだから、最初から「計画」されたものなのだろう。
    (KBCシネマ1、2018年03月25日)


 *

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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(41)

2018-03-25 14:09:03 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(41)(創元社、2018年02月10日発行)

 「* 夜ひそかに人が愛する者の名を呼ぶ時、」の最初の断章。

 夜、ひそかに人が愛する者の名を呼ぶ時、それもまた、沈黙との
ひとつの戦いである。その時、意味は言葉にはなく、むしろ声にあ
る。月の夜の草原でコヨーテが長い吠え声をあげるのと同じように、
われわれ人間もまた自らの声で、沈黙と戦う。

 「その時、意味は言葉にはなく、むしろ声にある。」という一文に強く惹かれる。「声」に思わず傍線を引く。私は「声」に対する「好き嫌い」が激しい。
 詩から脱線するが(谷川が書いているのは、私がこれから書くこととは関係ないのだが)、私は美空ひばりの声が好きだ。森進一の声も好き。都はるみは、若いときの声が好き。五木ひろしの声は嫌い。
 で、こう書いてしまって、なぜ「脱線」したのかなあ、私はほんとうは何が書きたかったのかなあ、と考え始める。「脱線」しなければならない「理由」が私にはあったのだ。それは何かというと……。
 「意味」だな。
 美空ひばりの歌を聴いているとき、私は「歌詞(ことば)」を聞いていない。「メロディー」も聞いていない。「声」を聞いている。それを思い出したのだ。
 美空ひばりが好きな理由を、谷川のことばを借りていいなおせば、美空ひばりを聞く「意味」は「歌(歌詞、曲)」にはなく、むしろ「声」にある、ということである。

 さて。

 ここからまた「脱線」するのだが、あるいは、詩にもどるのだがといった方がいいのか。私は考える。谷川の書いている「意味」とは何だろうか。「労働とは、働くという意味である」というときの「意味」とは違うね。
 あえて言いなおせば「重要なこと」だろうか。

その時、「重要なこと」は言葉にはなく、むしろ声にある。
(その時、重要なのは言葉ではなく、むしろ声である。)

 こう言い換えることができる。「大切なこと」とも言いなおせる。
 それでは「何にとって」重要なのか。大切なのか、と問い直す。「肉体」にとってである、と私は直感する。「自分の肉体」にとって重要である。
 先の一文は、

その時、「こころを動かすのは(こころを支配するのは)言葉にはなく、むしろ声である。

 という具合に言いなおすこともできるかもしれないが、わたしは「こころ」の存在を信じていないので、わきにおいておいて考えをすすめる。
 「肉体」と「ことば」と「声」とどういう「関係」にあるのか。(谷川は、言葉、と書いているのだが、ここからは私の考えなので、私のいつもつかっている表記で書く。)
 「ことば」は「肉体」をとおって「声」になる。肉体をとおるから「具体的」である。「聞こえる」ものとしてつかむことができる。書かれていれば「読む」という形でつかむ。この場合も「文字」を「書く」という手を媒介とした動詞、「読む」という目を媒介とした動詞が動く。「ことば」は、こんなふうに「肉体」をともなわない。その分、私には「抽象的」な存在に思える。
 「声」は「肉体」を実際につかって「出す」ものである。「ことば」も「ことばを出す(発する)」という言い方があるが、「声を出す」というときのように、「肉体」の「ここ」をつかってというのとは違う。「声を出す」ときは、「のど」「舌」をどのように動かしているかはわかるが、「ことばを出す」とき「頭(能)」をどのように動かしているかはわからない。もしかすると「頭」ではなく「小腸」で「ことばを動かしている」のかもしれない。脳波を調べればわかるのかもしれないが、それはのどや舌のように、自分の思うようには動かせない。
 「ことば」と「声」を比較すると、「ことば」は抽象的。「声」は具体的である。「声」は「声を出す」という「動詞」を含めた「肉体」の動きとしてとらえなおすことができる。

その時、「重要なこと」は言葉にはなく、むしろ「声に出すこと」ある。

 さらに、「言葉」と書かれていたのは、「愛する者の名」であったから、これは

その時、「重要なこと」は「愛する者の名」にはなく、むしろ「愛するものの名を声に出して、呼ぶこと」にある。

 とも言いなおすことができる。
 「呼ぶ」のは「名」だけではない。「名」をもった「肉体」そのものを「呼ぶ」(招く)でもある。
 「ことば」もまた、「ことばで指し示されたもの」を「呼ぶ」ことだが、これもまた「声を出して呼ぶ」ことに比べると、抽象的である。「声に出して呼ぶ」というのは具体的で、「声の出し方」によって、「呼ぶ-呼ばれる」の間が具体的にゆれる。「やさしい声」で呼ぶ、「怒った声」で呼ぶ、では、その後の関係が違ってくる。

 さらに詩に引き返すのだが。

 谷川は、最初に「愛する者の名を呼ぶ」という「具体」から始まって、その「呼ぶ」という動詞を「声」という名詞で言いなおしている。(私は、これを逆に「声」から出発しなおす形で「声に出す」「呼ぶ」とたどってみたのだが。)言い換えると「具体」から始まり「抽象」へ、ことばを動かしている。
 「具体」は「個別的」であるのに対し、「抽象」は「個別」をこえる。「普遍」(真理)につながるからである。
 なぜ「普遍」につながることを書いたかというと、「コヨーテ」を出すためである。
 「人間」と「コヨーテ」が「普遍(声を出す)」という「動詞」でひとつになる。そうすると「人間」の「動詞」が「人間」の枠を超えて、「いのち」のようなものに結びつく。「人間」の「比喩」が「コヨーテ」なのか、「コヨーテ」の「比喩」が「人間」なのか。どちらでもない。「いのち」が「人間」と「コヨーテ」として、一緒に生まれてくる。「比喩」というか、「例示」というか、別なもので言いなおすとき、「二つの存在」は「一つ」につながり、「一つ」の奥にあるものを浮かび上がらせる。「声を出す」という「動詞」と一緒に。こういうことろが「詩」の魅力。論文では、こういう展開は頻繁には起きない。
 で、この「声を出す」ということを、谷川は「沈黙との戦い」と「定義」している。

 このとき「沈黙」というのは、どこにあるのだろうか。ひとりの「夜」、あるいは「月の夜の草原」ということばから「私」のまわり、「コヨーテ」のまわりに「沈黙」があると読むのがふつうかもしれない。「沈黙」につつまれて、孤独な「人間(私)/コヨーテ」と読むとわかりやすい。
 けれど、「声に出す」という「肉体」に引き返すと、「沈黙」は「肉体」そのもののなかに「ある」とも考えることができる。自分の中にある「沈黙」を突き破るために「声を出す」。その「声」は「名」というような「明確なもの」ではない。すでに存在するものではない。「声」はまだ「名づけられていないもの」を噴出させるためにもつかわれる。「名づけられていないもの」とは「未生のもの」である。「肉体」のなかにある「未生のもの」、それを「生み出す」ために「吠え声」をあげる。
 これが谷川のいう「戦い」。
 「詩」とは自分の中にある、まだ「ことばにらないないもの」と戦い、その存在を「声にする(声に出す)」ことである。声をつかって(肉体をつかって)、「形」を生み出すことである、と言える。
 
 最初に美空ひばりのことを書いたが、私が感じるのは、美空ひばりの声からは「何か」が生み出されていると感じる。それは「ことばの意味」ではない。「感情」という便利な「流通言語」があるが、「感情」と言ってしまうとまた違う。まだ名づけられていない何かがあると感じる。





*


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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
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聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
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