詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(29)

2018-03-13 11:46:13 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(29)(創元社、2018年02月10日発行)

 「夜のラジオ」から、二つのことを書いてみたい。

半田鏝を手にぼくは一九四九年製のフィルコのラジオをいじっている
真空管は暖まってるくせにそいつは頑固に黙りこくっているが
ぼくはまだみずみずしいその体臭にうっとりする

 「もの」に対する愛着。「半田鏝」「真空管」に、それを感じる。谷川はことばよりも「もの」が好きなのだ。「もの」の確かさと言えばいいかもしれない。それは「頑固」「黙りこくっている」に象徴的にあらわれている。「ことば」を拒絶している。
 この「ことばの拒絶」を愛するというのは、前に読んだ「きいている」の最終連に通じる。

ねこのひげの さきっちょで
きみのおへその おくで

 それまで書いてきた「ことば」の運動が突然飛躍する。延長線上を動かない。それまでの「意味」を拒絶して「ねこのひげ」「さきっちょ」「きみのおへそ」が「もの」として「ある」。
 これをナンセンス(無意味)と、私は呼ぶ。
 ここでいう「無意味」というのは、「きみの言っていることは無意味だ」というときの「無意味」ではない。「意味」という連続性を断ち切って、ただ「もの」として「ある」。その「力」のことである。
 あらゆる「もの」は「意味」づけられる。ラジオを組み立てるときの「半田鏝」「真空管」もラジオの構造の中で確かな「意味(位置)」をもっている。人間の意識が「もの」を「意味」に変える。
 この「意味」の連続性を断ち切って、「もの」そのものとして「ある」がままにする。それを、私は「無意味」と呼んでいる。
 で、これから書きすすめることは、「論理的」に書けるどうかわからないのだが。(他人につたわることばになるかどうかわからないのだが。)私の感じていることは、こういうことだ。
 「半田鏝」も「真空管」もラジオ(をつくる)という過程の中では「意味」をもっている。どことどこをつなげるか。真空管をどうやってつなげるか、ということはラジオの構造にとって「意味」をもっている。つなぎ方を間違えたら、ラジオは鳴らない。
 それがわかっているけれど、谷川はここでは「意味/構造/接続」を一瞬わきにおいておいて、「半田鏝」「真空管」という「もの」を「もの」として愛している。愛着をもって、「もの」をみつめている。「意味(構造/位置づけ)」を離れて、その「存在」を納得している。
 だから、ラジオが「頑固に黙りこくっている」としても、何かうれしい。まだラジオになっていない(?)のに、ラジオを超えて、その存在が「好き」。これは、「論理的」には「ナンセンス(無意味)」なことである。でも、そこに「こだわる」。
 そして、その「ラジオ以前」に特別の「名前」をつけるところまで、ことばは動いていく。

体臭

 たしかに「真空管」にも「におい」はある。ガラスにも金属にもにおいはある。真空管独自のにおいを「真空管の体臭」と呼ぶことはできるかもしれない。でも、そのときの「体臭」の「意味」は、流通言語でいうときの「体臭」とは違う。「意味」を超えている。「意味の超越」と言ってもいいが、おおげさなことばは私は苦手なので、「無意味(ナンセンス)」と呼ぶ。
 真空管がどんな「体臭」をもっていようが、それはラジオの「構造/鳴る仕組み」とは関係がない。「におい」を利用して音が出るわけではないのだから。
 こういう「意味の構造」をこえることばが動くところに、谷川の詩の魅力がある。それは「もの」に対する愛好、「もの」が「意味づけられる」前の状態を愛するというのとつながる。
 完成された「もの」も好きだが、「完成以前のもの」も好きである。「完成以前」を「未生」と言い換えると、谷川の多くの詩を動かしている「方向性」のようなものが、そこから見える。「ことば以前のことば」を書くことが詩であるように、「完成されたもの以前のもの」に目を向け、それを「もの」として生みなおす、というのが谷川の、「もの」との関係の「詩」の行為なのだ、と思う。
 これが、書きたかったことの、ひとつ。

 もうひとつは二連目を引用しながら書いてみる。

どうして耳は自分の能力以上に聞こうとするのだろう
でも今は何もかも聞こえ過ぎるような気がするから
ぼくには壊れたラジオの沈黙が懐かしい声のようだ

 これは一連目を受けた「起承転結」の「承」のような連である。「黙りこくっている」は「沈黙」と言いなおされている。
 その「沈黙」を含む一行は、とてもおもしろい。
 「壊れたラジオの沈黙が懐かしい」ではなく、「壊れたラジオの沈黙」を「懐かしい声」と比喩にしている。(「声のようだ」の「よう」は、そのことばが直喩であることを明らかにしている。)
 でも、「沈黙」と「声」というのは、同じ性質のもの? 正反対だ。「沈黙」があるとき、そこには「声」はない。共存し得ない。それなのに、その共存し得ないものを「比喩」として提示する。
 そして、それが共存し得ないものなのに、つまり「比喩」としては「論理的」には破綻しているにもかかわらず、この一行を読んだとき、とても惹きつけられる。「あっ」と思い、そこに惹きつけられる。つまり、「矛盾」など感じていない。
 このことばの切断と接続には、やはり「ナンセンス(無意味)」がある。流通している「意味」を否定して、ただ「ある」ものとして存在を確立する超越的なものがある。この「超越的な何か」を「詩」と呼んでしまえば、まあ、簡単なのだろうけれど。

 で。
 ここから、もう一度、

ねこのひげの さきっちょで
きみのおへその おくで

 に戻ってみる。
 この「ナンセンス(無意味)」と「沈黙」は、どう違うのか。
 音楽(詩)は「音/ことば」と「沈黙」の共存(拮抗)によって生み出される。そういう種類の音楽(詩)がある。
 また、詩にはもうひとつ「ことば」と「もの(意味にそまっていない存在)」が出会うことで生み出されるものがある。
 「沈黙」が「音のない状態」を呼ぶなら、「もの」は「意味のない状態」と呼ぶことができる。「無」である。「無意味」である。それは「意味」を破壊すると同時に、「意味」をあらゆる方向に解放する。完全に開いてしまう。そのど真ん中にほうりだされて、「私」がただ「ある」だけのものになる。「私」と「もの」とが、まったく新しく出合いなおす。
 そういうことが起きるのだと思う。
 そしてこのときの「無意味(ナンセンス)」のなかで起きているのは、「否定」ではない。「私の否定(自己否定)」でも、「ものの否定」でもない。逆に、「私」「もの」の「絶対肯定」なのだ。「私」が完全に存在する。どんな意味にもとらわれずに「私」で「ある」。「もの」も、どんな「意味」にもとらわれずに(アイデンティファイされずに)、ただ「もの」として「ある」。

 この詩の最後は、一行一連で、その一行がぽつんと置かれている。

生きることを物語に要約してしまうことに逆らって

 この一行を借りて言いなおせば「物語」は「意味の連鎖」である。それに逆らうのが、「意味」から解放された「もの」である。「意味」を叩きこわし、解放を手にするための出発点が「もの」という「無意味」である。







*


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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
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人はなぜ嘘をつくか

2018-03-13 07:58:18 | 自民党憲法改正草案を読む
人はなぜ嘘をつくか
             自民党憲法改正草案を読む/番外187(情報の読み方)

 2018年03月13日読売新聞朝刊(西部版・14版)の見出し。

森友文書15ページ分削除/理財局指示 佐川答弁に合わせ

 読売新聞は、あくまでも「佐川答弁との整合性」にこだわっている。この場合、「理財局指示」は「佐川指示」と同じだ。
 人はだれでも、自分のためにしか嘘をつかない。
 佐川の答弁と文書が食い違っていたとして、「理財局のだれ」が困るのか。佐川が嘘をついているといことが分かれば、理財局長としてふさわしくない。佐川の嘘をあばけば自分が理財局長になれる、と考える人がいてもおかしくはないだろう。他人の「功績」を奪ってのし上がるのではなく、他人の犯罪行為を摘発するのだから、これはやましいことでもなんでもない。

 佐川は、国会答弁が嘘だとばれると、佐川自身がどういう不利益を被ると考えたのか。クビ(懲戒解雇)になるとか、減給処分になるとか、そういうことを考えたのか。そうだとして、自分がクビにならないために、なぜ他人をまきこんだのか。15ページも削除する。小さな文言の細部を削る。そういう作業を部下にさせたのか。
 佐川個人がやった、とはだれも言っていないのだから、組織がそれに協力したということになるが、そういう嘘をつくことが、自分のためになると、他の局員が考えたというのも理解できない。
 さらに、佐川が指示してやったのなら、なぜ、もっとはやく、多くの人が声を上げないのか。野党の聴取の段階で、「佐川の指示でやらされた。改竄、隠蔽文書はこれだけある」と言ってしまえば、問題はもっとはやく進展しただろう。
 佐川の指示によっておこなわれた、ということになれば、その指示に従ったのはだれなのか。佐川の指示に従って、文書を改竄することで自分がどんな利益を得ると考えたのか。佐川に引き立てられて、出世すると考えたのか。
 佐川の後任にしても、嘘をつき続けて、だれから評価されると思ったのか。誰から「利益」となるものを受け取ることができると考えたのか。

 ここで嘘をつき続けないと出世できないと思っているのかもしれない。でも、その嘘がばれたときは、どうなるのか。
 佐川のように「辞任」させられ(解雇、だな)、退職金も減らされる。そういう成り行きが見えなくなるほど、「常識」をなくしてしまっているのだろうか。

 それにしても。
 「頭のいい人」たちというのは、なんとたくみに「他人の考えに合わせることができる人」なのだろう。学校にいたころは、「先生」が求める「答え」を「答える」。これが「百点」のこつとわかって、ひたすら自分より上の人が要求してくることに合わせる、それを先取りする。そういう「習性」が肉体にしみついてしまってほるだろう。
 これって、自分に嘘をつくことだと気づいていない。

 ふつうの人間は、他人をだますために嘘をつく。だませば自分の得になる。少なくとも不利益にはならないと考える。でも、頭のいい官僚たちは、自分をだますために嘘をつく、ということか。
 自分に自身に嘘をついてまで奉仕してくれる人だけを評価する組織というのは、不気味である。「独裁」社会である。独裁者の気に入られないと生きていけない社会が財務省という組織なのだろう。
 自殺者まで出たのに、何の反省もせずに、また嘘をつき始めている。



 コンビニで朝日新聞を買ってきた。
 大展開の報道である。そのなかで私が注目したのは、二面、

削られた「昭恵氏」

 という見出しの最後の部分。

書き換えの具体的な指揮系統に質問が及ぶと「俺に聞かないで」と明言を避けた。

 これは「知っている」、だから「俺に聞かないで」だね。
 知らないなら「知らない」と言う。あるいは「調査中」とかね。



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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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「見立て」への疑問(新聞の見出し、その2)

2018-03-13 01:17:57 | 自民党憲法改正草案を読む
「見立て」への疑問(新聞の見出し、その2)
             自民党憲法改正草案を読む/番外186(情報の読み方)

 「番外186(情報の読み方)」のつづき。
 2018年03月12日の読売新聞夕刊(西部版・4版)の見出にしは、いろいろなことを考えさせられる。

佐川答弁と整合性図る/問題発覚後書き換え/森友文書 昭恵氏名前も削除

 記事には、こう書いてある。

 学校法人「森友学園」への国有地売却に関し、財務省近畿財務局が作成した決裁文書などが書き換えられた問題で、書き換えは佐川宣寿・前国税庁長官が財務省理財局長時代に国会で答弁した内容と整合性を取るため、本省の主導で行われていたことが分かった。

 なるほど。
 佐川は「適正な価格で売却した」「不当な働きかけはなかった」「価格交渉はしていない」と答えている。それと辻褄を合わせるために文書を改竄した。
 こういう「論理」は佐川が嘘をついた、ということを出発点にすれば成り立つ。
 でも、それでは、佐川がなぜ嘘をついたかということがわからない。

 だいたい人が嘘をつくのは自分の利益を守るためである。
 たとえば銀行員が顧客の金を使い込む。ばれると首になる。だから次々にやりくりして使い込みと穴埋めを繰り返す。そのために「書類」を改竄する。
 でも、佐川は、「適正な価格で売却した」「不当な働きかけはなかった」「価格交渉はしていない」と答弁することで、佐川自身のどんな「利益」を守ろうとしたのか。
 その「動機」がわからない。

 「動機」は、ここで、こういう嘘をつけば、誰かに恩を売ることができる。その見返りがきっとある。そう思って嘘をつくのだろう。
 「見返り」以外に「利益」はない。

 では、佐川は「だれに」恩を売ろうとしたのだろう。
 もちろん「人事権」を握っている「上司」である。財務省を管理する麻生に恩を売るのか。さらには麻生の上の安倍に恩を売るのか。
 だれだって推測はできる。

 問題は。
 「佐川答弁と整合性図る」とき、その「整合性」によって、だれがいちばん「利益」を得るかである。
 「適正な価格で売却した」「不当な働きかけはなかった」「価格交渉はしていない」という答弁で「利益」を得るのはだれか。籠池ではない。佐川でもない。麻生でもない。
 「不当な働きかけをしたのではないのか」と疑われている人だろう。
 だれが疑われていたか。

 「佐川答弁と整合性図る」という「見立て」は、佐川に罪をおしつけるように見えて、結果的に「論理破綻」に陥る。
 金を管理する責任者のような人間が、「損得勘定」を考えずに行動するはずがない。
 人はだれでも自分の利益のために動くということから考えれば、すぐにわかる。




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新聞の見出し(森友文書問題)

2018-03-13 00:10:07 | 自民党憲法改正草案を読む


新聞の見出し(森友文書問題)
             自民党憲法改正草案を読む/番外185(情報の読み方)

 2018年03月12日の夕刊は「森友文書」報道。朝日、毎日、読売、西日本各紙の見出しを比べてみると、とてもおもしろい。

朝日
財務省、書き換え認める/理財局の指示と認定/森友文書 答弁との整合性図る

毎日
書き換え十カ所/森友文書/昭恵氏記述 削除/財務省 理財局が主導

読売
佐川答弁と整合性図る/問題発覚後書き換え/森友文書 昭恵氏名前も削除

西日本
森友文書「昭恵夫人」削除/書き換えは14文書/財務省、与党へ報告

 朝日は、「朝日新聞記事は捏造である」という批判を前提にして反論している。「財務省が認めた」ということを前面に出している。文書に書き換えがあると財務省が認めるということはすでに日曜づけの各紙に載っている。だから、「財務省が認める」をメーン見出しにとる必要はないとも言えるが、あえて「嘘をついているのは財務省」と明確にしている。だれが改竄したのか、それを重視している。
 「昭恵」の名前を見出しにとっていないのは、たぶん朝刊でそのことを書くためだろう。夕刊と朝刊とセットでとっている家庭は少なくなっている。朝刊対策で見出しを残しておいているのだろうが、もしかすると、「第三弾」の特種を用意していて、そこに「昭恵」が出てくるのかもしれない。「第三弾」を書くために、夕刊では「昭恵」を外したとも考えられる。
 いつ書くのかわからないが「第三弾」が楽しみである。

 毎日は、書き換えの「数」を重視している。一か所、二か所ではない。大量である。これは「ミス」ではなく、明らかな「改竄」であると強調したいのだろう。だれが主導したかということよりも、「改竄の内容と規模」を重視している。これだけの大がかりな改竄は「ひとり」ではできない。そう示唆している。

 読売は、「改竄」を主導したのが佐川であるという「見立て」を主見出しにしている。他の各紙が「事実」をメーンの見出しにしていると、大きく異なっている。
 だれが主導したのか、動機は何なのか、これがこれからのテーマになるが、それをリーとする見出しといえる。

 西日本は、「昭恵」を削除することが改竄の主目的であると暗示している。「昭恵」の存在がなければ、今回の事件は起きなかったという見立てである。だから大胆にも、一面に昭恵の写真を掲載している。
 まあ、世間一般の大方は、そう見ているのだが。
 見出しは事実だから、これでいいが、写真掲載はかなり「大冒険」であると思う。昔の報道ならありふれていたかもしれないが、最近はこういう報道は見ない。
 
 ほんとうの「勝負」は「夕刊」ではなく、あしたの朝刊だ。
 どこまで「事実」に近づけるか。
 この場合の「事実」というのは、「だれが、何のために」ということだ。
 麻生が辞任するかどうかは、重大ではない。(というと、語弊があるが。)

 だれが「民主主義の基本」を踏み外したのか。だれが「議論させない」ということを狙ったのか。「議論させない」を「沈黙作戦」と私は呼んでいる。そう呼ぶと、おのずと「主語」が決まってくる。
 私のブログを読んでいる人には「主語」がわかるはずだから、ここでは明記しない。




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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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