谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(29)(創元社、2018年02月10日発行)
「夜のラジオ」から、二つのことを書いてみたい。
「もの」に対する愛着。「半田鏝」「真空管」に、それを感じる。谷川はことばよりも「もの」が好きなのだ。「もの」の確かさと言えばいいかもしれない。それは「頑固」「黙りこくっている」に象徴的にあらわれている。「ことば」を拒絶している。
この「ことばの拒絶」を愛するというのは、前に読んだ「きいている」の最終連に通じる。
それまで書いてきた「ことば」の運動が突然飛躍する。延長線上を動かない。それまでの「意味」を拒絶して「ねこのひげ」「さきっちょ」「きみのおへそ」が「もの」として「ある」。
これをナンセンス(無意味)と、私は呼ぶ。
ここでいう「無意味」というのは、「きみの言っていることは無意味だ」というときの「無意味」ではない。「意味」という連続性を断ち切って、ただ「もの」として「ある」。その「力」のことである。
あらゆる「もの」は「意味」づけられる。ラジオを組み立てるときの「半田鏝」「真空管」もラジオの構造の中で確かな「意味(位置)」をもっている。人間の意識が「もの」を「意味」に変える。
この「意味」の連続性を断ち切って、「もの」そのものとして「ある」がままにする。それを、私は「無意味」と呼んでいる。
で、これから書きすすめることは、「論理的」に書けるどうかわからないのだが。(他人につたわることばになるかどうかわからないのだが。)私の感じていることは、こういうことだ。
「半田鏝」も「真空管」もラジオ(をつくる)という過程の中では「意味」をもっている。どことどこをつなげるか。真空管をどうやってつなげるか、ということはラジオの構造にとって「意味」をもっている。つなぎ方を間違えたら、ラジオは鳴らない。
それがわかっているけれど、谷川はここでは「意味/構造/接続」を一瞬わきにおいておいて、「半田鏝」「真空管」という「もの」を「もの」として愛している。愛着をもって、「もの」をみつめている。「意味(構造/位置づけ)」を離れて、その「存在」を納得している。
だから、ラジオが「頑固に黙りこくっている」としても、何かうれしい。まだラジオになっていない(?)のに、ラジオを超えて、その存在が「好き」。これは、「論理的」には「ナンセンス(無意味)」なことである。でも、そこに「こだわる」。
そして、その「ラジオ以前」に特別の「名前」をつけるところまで、ことばは動いていく。
たしかに「真空管」にも「におい」はある。ガラスにも金属にもにおいはある。真空管独自のにおいを「真空管の体臭」と呼ぶことはできるかもしれない。でも、そのときの「体臭」の「意味」は、流通言語でいうときの「体臭」とは違う。「意味」を超えている。「意味の超越」と言ってもいいが、おおげさなことばは私は苦手なので、「無意味(ナンセンス)」と呼ぶ。
真空管がどんな「体臭」をもっていようが、それはラジオの「構造/鳴る仕組み」とは関係がない。「におい」を利用して音が出るわけではないのだから。
こういう「意味の構造」をこえることばが動くところに、谷川の詩の魅力がある。それは「もの」に対する愛好、「もの」が「意味づけられる」前の状態を愛するというのとつながる。
完成された「もの」も好きだが、「完成以前のもの」も好きである。「完成以前」を「未生」と言い換えると、谷川の多くの詩を動かしている「方向性」のようなものが、そこから見える。「ことば以前のことば」を書くことが詩であるように、「完成されたもの以前のもの」に目を向け、それを「もの」として生みなおす、というのが谷川の、「もの」との関係の「詩」の行為なのだ、と思う。
これが、書きたかったことの、ひとつ。
もうひとつは二連目を引用しながら書いてみる。
これは一連目を受けた「起承転結」の「承」のような連である。「黙りこくっている」は「沈黙」と言いなおされている。
その「沈黙」を含む一行は、とてもおもしろい。
「壊れたラジオの沈黙が懐かしい」ではなく、「壊れたラジオの沈黙」を「懐かしい声」と比喩にしている。(「声のようだ」の「よう」は、そのことばが直喩であることを明らかにしている。)
でも、「沈黙」と「声」というのは、同じ性質のもの? 正反対だ。「沈黙」があるとき、そこには「声」はない。共存し得ない。それなのに、その共存し得ないものを「比喩」として提示する。
そして、それが共存し得ないものなのに、つまり「比喩」としては「論理的」には破綻しているにもかかわらず、この一行を読んだとき、とても惹きつけられる。「あっ」と思い、そこに惹きつけられる。つまり、「矛盾」など感じていない。
このことばの切断と接続には、やはり「ナンセンス(無意味)」がある。流通している「意味」を否定して、ただ「ある」ものとして存在を確立する超越的なものがある。この「超越的な何か」を「詩」と呼んでしまえば、まあ、簡単なのだろうけれど。
で。
ここから、もう一度、
に戻ってみる。
この「ナンセンス(無意味)」と「沈黙」は、どう違うのか。
音楽(詩)は「音/ことば」と「沈黙」の共存(拮抗)によって生み出される。そういう種類の音楽(詩)がある。
また、詩にはもうひとつ「ことば」と「もの(意味にそまっていない存在)」が出会うことで生み出されるものがある。
「沈黙」が「音のない状態」を呼ぶなら、「もの」は「意味のない状態」と呼ぶことができる。「無」である。「無意味」である。それは「意味」を破壊すると同時に、「意味」をあらゆる方向に解放する。完全に開いてしまう。そのど真ん中にほうりだされて、「私」がただ「ある」だけのものになる。「私」と「もの」とが、まったく新しく出合いなおす。
そういうことが起きるのだと思う。
そしてこのときの「無意味(ナンセンス)」のなかで起きているのは、「否定」ではない。「私の否定(自己否定)」でも、「ものの否定」でもない。逆に、「私」「もの」の「絶対肯定」なのだ。「私」が完全に存在する。どんな意味にもとらわれずに「私」で「ある」。「もの」も、どんな「意味」にもとらわれずに(アイデンティファイされずに)、ただ「もの」として「ある」。
この詩の最後は、一行一連で、その一行がぽつんと置かれている。
この一行を借りて言いなおせば「物語」は「意味の連鎖」である。それに逆らうのが、「意味」から解放された「もの」である。「意味」を叩きこわし、解放を手にするための出発点が「もの」という「無意味」である。
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「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
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目次
小川三郎「沼に水草」2 岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13 タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21 最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28 鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47 佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64 及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
「夜のラジオ」から、二つのことを書いてみたい。
半田鏝を手にぼくは一九四九年製のフィルコのラジオをいじっている
真空管は暖まってるくせにそいつは頑固に黙りこくっているが
ぼくはまだみずみずしいその体臭にうっとりする
「もの」に対する愛着。「半田鏝」「真空管」に、それを感じる。谷川はことばよりも「もの」が好きなのだ。「もの」の確かさと言えばいいかもしれない。それは「頑固」「黙りこくっている」に象徴的にあらわれている。「ことば」を拒絶している。
この「ことばの拒絶」を愛するというのは、前に読んだ「きいている」の最終連に通じる。
ねこのひげの さきっちょで
きみのおへその おくで
それまで書いてきた「ことば」の運動が突然飛躍する。延長線上を動かない。それまでの「意味」を拒絶して「ねこのひげ」「さきっちょ」「きみのおへそ」が「もの」として「ある」。
これをナンセンス(無意味)と、私は呼ぶ。
ここでいう「無意味」というのは、「きみの言っていることは無意味だ」というときの「無意味」ではない。「意味」という連続性を断ち切って、ただ「もの」として「ある」。その「力」のことである。
あらゆる「もの」は「意味」づけられる。ラジオを組み立てるときの「半田鏝」「真空管」もラジオの構造の中で確かな「意味(位置)」をもっている。人間の意識が「もの」を「意味」に変える。
この「意味」の連続性を断ち切って、「もの」そのものとして「ある」がままにする。それを、私は「無意味」と呼んでいる。
で、これから書きすすめることは、「論理的」に書けるどうかわからないのだが。(他人につたわることばになるかどうかわからないのだが。)私の感じていることは、こういうことだ。
「半田鏝」も「真空管」もラジオ(をつくる)という過程の中では「意味」をもっている。どことどこをつなげるか。真空管をどうやってつなげるか、ということはラジオの構造にとって「意味」をもっている。つなぎ方を間違えたら、ラジオは鳴らない。
それがわかっているけれど、谷川はここでは「意味/構造/接続」を一瞬わきにおいておいて、「半田鏝」「真空管」という「もの」を「もの」として愛している。愛着をもって、「もの」をみつめている。「意味(構造/位置づけ)」を離れて、その「存在」を納得している。
だから、ラジオが「頑固に黙りこくっている」としても、何かうれしい。まだラジオになっていない(?)のに、ラジオを超えて、その存在が「好き」。これは、「論理的」には「ナンセンス(無意味)」なことである。でも、そこに「こだわる」。
そして、その「ラジオ以前」に特別の「名前」をつけるところまで、ことばは動いていく。
体臭
たしかに「真空管」にも「におい」はある。ガラスにも金属にもにおいはある。真空管独自のにおいを「真空管の体臭」と呼ぶことはできるかもしれない。でも、そのときの「体臭」の「意味」は、流通言語でいうときの「体臭」とは違う。「意味」を超えている。「意味の超越」と言ってもいいが、おおげさなことばは私は苦手なので、「無意味(ナンセンス)」と呼ぶ。
真空管がどんな「体臭」をもっていようが、それはラジオの「構造/鳴る仕組み」とは関係がない。「におい」を利用して音が出るわけではないのだから。
こういう「意味の構造」をこえることばが動くところに、谷川の詩の魅力がある。それは「もの」に対する愛好、「もの」が「意味づけられる」前の状態を愛するというのとつながる。
完成された「もの」も好きだが、「完成以前のもの」も好きである。「完成以前」を「未生」と言い換えると、谷川の多くの詩を動かしている「方向性」のようなものが、そこから見える。「ことば以前のことば」を書くことが詩であるように、「完成されたもの以前のもの」に目を向け、それを「もの」として生みなおす、というのが谷川の、「もの」との関係の「詩」の行為なのだ、と思う。
これが、書きたかったことの、ひとつ。
もうひとつは二連目を引用しながら書いてみる。
どうして耳は自分の能力以上に聞こうとするのだろう
でも今は何もかも聞こえ過ぎるような気がするから
ぼくには壊れたラジオの沈黙が懐かしい声のようだ
これは一連目を受けた「起承転結」の「承」のような連である。「黙りこくっている」は「沈黙」と言いなおされている。
その「沈黙」を含む一行は、とてもおもしろい。
「壊れたラジオの沈黙が懐かしい」ではなく、「壊れたラジオの沈黙」を「懐かしい声」と比喩にしている。(「声のようだ」の「よう」は、そのことばが直喩であることを明らかにしている。)
でも、「沈黙」と「声」というのは、同じ性質のもの? 正反対だ。「沈黙」があるとき、そこには「声」はない。共存し得ない。それなのに、その共存し得ないものを「比喩」として提示する。
そして、それが共存し得ないものなのに、つまり「比喩」としては「論理的」には破綻しているにもかかわらず、この一行を読んだとき、とても惹きつけられる。「あっ」と思い、そこに惹きつけられる。つまり、「矛盾」など感じていない。
このことばの切断と接続には、やはり「ナンセンス(無意味)」がある。流通している「意味」を否定して、ただ「ある」ものとして存在を確立する超越的なものがある。この「超越的な何か」を「詩」と呼んでしまえば、まあ、簡単なのだろうけれど。
で。
ここから、もう一度、
ねこのひげの さきっちょで
きみのおへその おくで
に戻ってみる。
この「ナンセンス(無意味)」と「沈黙」は、どう違うのか。
音楽(詩)は「音/ことば」と「沈黙」の共存(拮抗)によって生み出される。そういう種類の音楽(詩)がある。
また、詩にはもうひとつ「ことば」と「もの(意味にそまっていない存在)」が出会うことで生み出されるものがある。
「沈黙」が「音のない状態」を呼ぶなら、「もの」は「意味のない状態」と呼ぶことができる。「無」である。「無意味」である。それは「意味」を破壊すると同時に、「意味」をあらゆる方向に解放する。完全に開いてしまう。そのど真ん中にほうりだされて、「私」がただ「ある」だけのものになる。「私」と「もの」とが、まったく新しく出合いなおす。
そういうことが起きるのだと思う。
そしてこのときの「無意味(ナンセンス)」のなかで起きているのは、「否定」ではない。「私の否定(自己否定)」でも、「ものの否定」でもない。逆に、「私」「もの」の「絶対肯定」なのだ。「私」が完全に存在する。どんな意味にもとらわれずに「私」で「ある」。「もの」も、どんな「意味」にもとらわれずに(アイデンティファイされずに)、ただ「もの」として「ある」。
この詩の最後は、一行一連で、その一行がぽつんと置かれている。
生きることを物語に要約してしまうことに逆らって
この一行を借りて言いなおせば「物語」は「意味の連鎖」である。それに逆らうのが、「意味」から解放された「もの」である。「意味」を叩きこわし、解放を手にするための出発点が「もの」という「無意味」である。
*
「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
小川三郎「沼に水草」2 岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13 タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21 最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28 鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47 佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64 及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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