詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(18)

2018-03-02 10:18:08 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(18)(創元社、2018年02月10日発行)

 「音楽のように」には「音楽」ということばは出て来るが、それがどんな音(旋律)、リズムなのか、書かれていない。かわりに「からだ」と「心」、「迷路」と「やすやすとたどりつく」、「かき乱す」と「安らぎ」という具合に「対」が書かれる。

音楽のようになりたい
音楽のようにからだから心への迷路を
やすやすとたどりたい
音楽のようにからだをかき乱しながら
心を安らぎにみちびき
音楽のように時間を抜け出して
ぽっかり晴れ渡った広い野に出たい

 「対」は、音楽ならば「音」と「沈黙」、詩ならば「ことば」と「沈黙」という形でこれまでの作品でも見てきた。「対」になって、世界が「完全」になる。
 「からだ」と「心」の「対」は、いわば「二元論」であり、それについてはまたあとで書くが、私はこの作品では「迷路」と「たどりつく」、「かき乱す」と「安らぎ」の「対」にとても考えさせられた。
 「名詞」と「動詞」が「対」になっている。
 「迷ってたどりつけない」と「やすやすとたどりつく」、「かき乱す」と「安らぐ」ではない。「迷路」と「脱出(到達)」、「攪乱」と「安らぎ」ではない。
 谷川は、無意識に「名詞」を「動詞」に、「動詞」を「名詞」にすりかえている。
 「二元論」で考えるなら、「名詞と名詞」「動詞と動詞」の方が「対」が明確になる。「からだ」と「心」は「名詞と名詞」である。
 谷川は、そういう「単純な二元論」をどこかですり抜けている。

 どうやって?
 すぐには「答え」が出せない。
 だから、「からだ」と「心」という「二元論」に戻って、そこから詩を読み直してみる。
 「からだ」と「心」を入れ替えてみる。

音楽のように心からからだへの迷路を
やすやすとたどりたい
音楽のように心をかき乱しながら
からだを安らぎにみちびき

 どうだろう。
 どっちが、「しっくり」くる?
 実は私は、この詩を、「からだ」と「心」を入れ替えながら読んだ。単純に入れ替えるのではなく、何度も入れ替える。谷川が書いていたのがどちらかわからなくなるくらいに入れ替え続ける。そうしていると、これは「からだ」と「こころ」を入れ替え続けながら読まなければならない作品だと感じてくる。
 「からだ」と「心」は、明確に区別できるものではなく「ひとつ」のものなのだ、と実感できるようになる。
 私は、「心」とか「精神」というものの「実在」を信じていない。存在しているのは「肉体」だけだと思っている。「心」「精神」というのは、ことばを動かすときの「方便」のようなもので、ほんとうは存在していない。「肉体」の「動き」の、どこが動いていると明確に指摘できないものを「心」「精神」と読んでいるだけだと考えている。
 で、この、どこが動いているかわからないけれど、動いてしまう何か。「臓腑」なのか「細胞」なのか、「遺伝子(情報)」なのか、わからないけれど動いてしまうもの。このときの「動く(動き)」というのは、「ある状態」から「別の状態」へ「変わる」ということでもある。
 これを「からだ」と「心」ではなく、「ことば」に移して考えてみる。
 「名詞」が「動詞」に変わる(動いていく)、「動詞」が「名詞」に変わる(動いていく)。「名詞」には「動詞派生」のものがある。「動詞」にも「名詞派生」のものがあるかどうかわからないが、私は「ことば」を自分のものにするとき、「動詞」を基本にして考える癖があるので、「動詞派生の名詞」と考えるのかもしれない。
 「迷路」は「迷い路」であり、それは「迷う」という「動詞」がなければ生まれないことばだと思う。道に迷ったという経験(肉体の記憶)が「迷路」をリアルに浮かび上がらせる。
 そして、この「動詞」というか、「肉体が動く」、「肉体を動かした記憶」というものは、動きを通して、「からだ」でも「心」でもない、別なものを生み出す。

音楽のように時間を抜け出して

 ここに書かれている「時間」を。
 「時間」はどうして存在するか。いつでも存在しているものなのか。
 ふつうは、いつでも、どこでも存在している「客観的」なものと考えるのかもしれない。
 けれど私は「時間」は「肉体」が動くことで「生み出される」ものだと考えている。自分の「肉体」がなければ「時間」というものもない。「肉体」の何かを語るための「方便」として「時間」というものがある。
 「方便」として生み出された「ことばとしての時間」。
 「からだ」も「心」も、「肉体」の何かを語るための「方便として生み出されたもの」と考えている。

 「肉体」があって、「肉体」が何かに触れる。そうすると「肉体」に刺戟が返ってくる。そして「世界」が姿をあらわす。「あらわれた世界」は客観的なものではなく、あくまでも「肉体」の延長である。見えているもの、聞こえているもの、認識しているもの、その広がりすべてが「肉体」であるという具合に、私は「一元論」でとらえる。
 この「一元論」の世界は、「二元論」と比べるととても不安定だ。「からだ」は「からだ」のままではない。「心」は「心」のままではない。瞬間瞬間に、入れ代わる。どちらと呼んでもかまわない、というよりも、入れ替えないが呼ばないといけないものになる。「どっちが、ほんとう?」と聞かれたら、「両方ともほんとう」と答えるしかないものなのである。
 少し余分なことを書きすぎたかもしれない。
 谷川が、私の考えているように考えているとは思わないが、どこかでそういう考えに通じるものを抱えていると感じる。

 そうやって生み出された「時間」と「音楽」の関係を谷川は、

音楽のように時間を抜け出して

 と書いている。「音楽」は人間が生み出した「時間」を抜け出すことができる。「時間」から自由になるのが「音楽」ということになる。「人間(肉体)」にとらわれないのが「音楽」ということになる。
 このことを谷川は、また別な形であらわしている。

音楽のように許し
音楽のように許されたい

 「許す」「許されたい」。これは切り離せない。「許す」が「許される」であり、「許される」が「許す」。
 「音楽」では、「音」が存在することを「沈黙」が「許す」。「音」は「沈黙」に存在することを「許される」だけではない。「音」が「沈黙」が存在することを「許す」。「沈黙」は「音」に「許される」。それは、どちらがどちらかを「許す」、あるいは「許される」という関係ではなく、「対」の形で強く結びついている。
 それが人間がつくりだす「時間」を超えて動いていく。

音楽のように死すべきからだを抱きとめ
心を空へ放してやりたい
音楽のようになりたい

 ここでも「からだ」と「心」を入れ替え(読み替え)、また「抱きとめる」と「放す」も入れ替える(読み替える)ことが大事なのだ。「対」を入れ替え、自在に動くとき、その「対」は「音楽」になるのだ。



 

*


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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
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