詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

クリント・イーストウッド監督「15時17分、パリ行き」(★★★★★)

2018-03-04 23:53:27 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 アンソニー・サドラー、アレク・スカラトス、スペンサー・ストーン

 「実話」の映画である。「実話」の核心はとても「劇的」なものである。しかし、これが実にあっさりと描かれている。
 映画は(あるいは、あらゆる芸術は)、時間と空間を自在に変形させる。「編集」といった方がいいかもしれないけれど。たとえば昨年評判になったクリストファー・ノーラン監督「ダンケルク」は三つの時間を「ひとつ」にしてクライマックスまで観客を引っ張っていった。これは極端な例だが、たいていの映画はクライマックスをいろいろな角度で「時間」を重複させたり引き延ばしたりしてみせる。イーストウッドの「ハドソン川の奇跡」も同じシーンが繰り返されている。(この反復は、裁判での「再現」ではあるが。)
 ところが、この映画ではイーストウッドは、そういう「劇的」にみせる手法をあっさり捨ててしまっている。「一回性」をそのままに、ぱっと再現している。カメラのアングルは考えられているが、カメラが「演技」することを拒絶し、あの瞬間を、あの瞬間のまま、ぱっとつかみ取っている。
 だから、とても奇妙な言い方だが、「はらはらどきどき」しない。「はらはらどきどき」しているひまがない。映画で「はらはらどきどき」するのは、実は、感情を楽しむ余裕があるときなのだ。「現実」は「無我夢中」のうち終わってしまう。「無我夢中」ということさえ、わからないうちに終わってしまう。
 とても特徴的なのが、列車内での銃撃を試みた「犯人」の人間像が、まったくわからない。銃をもって列車に乗り込み、乗客を殺そうとした、という以外のことを、乗客も(観客も)知らない。だから、映画ではその映像がとても少ない。
 うーむ。
 私はうなってしまう。「映画」であることを、やめている。あ、もっと、そのシーンを見たい。このシーンはこれから起きるストーリーの展開と、どうつながるのか。そういう「なぞとき」をさせない。このシーンで「はらはらどきとき」したい、というような観客の感情もあおらない。(とはいうものの、止血のために指で押さえているシーン。スペンサー・ストーンが看護師と交代する一瞬などは、とてもしっかりと描写している。どうしてスペンサー・ストーンが素手で犯人に立ち向かえたのか、という伏線はきちんと紹介されているが。)
 その結果、どういうことが起きるか。
 「一回」しか起きない事件そのものに立ち会っている感じがするのである。この「立ち会っている」という感じがすごい。「映画」であることを忘れる。
 どのシーンも「一回」しか撮影していないのではないかと感じさせる。
 でも、そうではない。予告編を見た人は気づくと思うが、列車の中のスナックタイム。コーラを注文するのだが、予告編では「コーラがちっちゃい」「フランスだから」というようなやりとりだったが、本編では「フランスだから」という台詞にはなっていない。何度か撮り直し、そのなかから一番いいシーンをつないでいる。しかし、とても、そうは思えない。そういう不思議さがある。
 ストーリーというか、クライマックスとは無関係の子ども時代のシーン、列車に乗るまでの旅行のシーンさえも同じである。あらゆることが、ごく普通に起きる「一回性」をそのまま浮かび上がらせる。「一回」だけれど、忘れらないことがある。それを「一回性」のまま映画にしてしまっている。これは、すごい。
 (ユナイテッドシネマ・キャナルシティスクリーン8、2018年03月04日)

 *

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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(20)

2018-03-04 09:30:20 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(20)(創元社、2018年02月10日発行)

 「ケトルドラム奏者」。ケトルドラムを私は知らない。ドラムの一種だろう。

どんなおおきなおとも
しずけさをこわすことはできない
どんなおおきなおとも
しずけさのなかでなりひびく

 「どんなおおきなおとも」で始まるからケトルドラムは大きな音が出るドラムなのだろう。一連目は「おと」を主語にして語っている。「しずけさ」を「こわすことはできない」「なりひひびく(ことしかできない)」。四行目に「できない」を補って読むと、「おと」と「しずけさ」では「脇役」を演じている「しずけさ」の方が「力がある」ということがわかる。
 ここから主語(主役)が逆転して二連目へつづく。

ことりのさえずりと
みさいるのばくはつとを
しずけさはともにそのうでにだきとめる
しずけさはとわにそのうでに

 一連目の「おと」は「ことりのさえずり」(小さな音)と「みさいるのばくはつ」(大きな音)と言いなおされ、「しずけさ」の「うで」のなかにおさまる。「しずけさ」は「おと」よりも「大きい/広い/強い」。
 だが「おと」に「大きい」「小さい」があるなら、「しずけさ」にも「大きい」「小さい」があるかもしれない。
 「ことりのさえずり」をだきとめる「うで」は「大きい」のか「小さい」のか。小さな「しずけさ」でだきとめるのかもしれない。
 「みさいるのばつはつ(音)」をだきとめる「うで」はどうか。「大きい」か「小さい」か。「おおきいおと」をだきとめるのだから「おおきい」のかもしれない。
 「おと」が「大小」を自在に変えるように、「しずけさ」も「大小」を自在に変える。だきとめる「うで」が自在に大きさ(広さ、強さ)を変えるように、自在に変化するかもしれない。
 「自在な変化」があって「ともに」が生まれ、「とわに」も生まれる。
 「ともに」と「とわに」という音(ことば)の響きあいが、「意味」を一気に広げる。

 一連目の最終行に「できない」が省略されていたように、この連の最終行には「だきとめる」が省略されている。さらにそこに「できる」を補って読む必要がある。「だきとめることができる」と。
 一連目が「できない」ということばで「おと」の「不可能性」を描いていたのに対し、二連目は「できる」と「しずけさ」の「可能性」を描いている。
 この「音」と「静けさ(沈黙)」の関係は、この詩集で繰り返されるテーマだが、この詩から別のことを考えてみることができる。
 「音」は単に「沈黙」のなかで鳴り響くだけなのか。
 前に読んだ詩の中では、こういう行があった。

 ジャズのドラマーたちは、騒音をつくっているのではない。彼等
は沈黙に対抗するために、別の沈黙をつくっているのだ。

 音は「沈黙」を「音」そのもののなかにつくりだす。そしてその「音」は自然発生的なものではない。「音」を生み出す人がいるのだ。ジャズなら、ドラマーが。
 この詩ではケトルドラムの「奏者」がいる。
 ところが、この詩には「奏者」はなかなかみつからない。一連目は「おと」と「しずけさ」の関係を抽象的(?)に語っているだけのように読んでしまう。二連目も「ことりのさえずり(小さな音)」「みさいるのばつはつ(大きな音)」と「しずけさ」の関係だけを語っているように見える。
 でも、二連目の「しずけさ」に「そのうで」ということばがあることを思い出そう。
 「しずけさ」に「うで」はあるか。私は見たことがない。それは「比喩」である。「しずけさ」そのものは「うで」をもっていない。そこに「ない」からこそ「比喩」が動き、そこに「うで」を生み出す。
 言いなおそう。
 二連目は、

ことりのさえずりと
みさいるのばくはつとを
しずけさはともにだきとめる
しずけさはとわに(だきとめる)

 でも「意味」はかわらない。
 なぜ「うで」という「比喩」をつかったのか。「だきとめる」という「動詞」が「うで」を生み出したのだとも言えるが、ここに「ケトルドラム奏者」が反映されていると読むべきなのではないだろうか。
 この詩には具体的に「奏者」の姿は書かれていない。けれどタイトルに「奏者」がある以上、どこかで「奏者」は意識されている。
 それが、「うで」という「肉体」となって、ここにあらわれている。
 ここから、この詩をこんなふうに「誤読」することができる。(つまり、谷川が書いていないことを勝手に捏造しながら読み進むことができる。)
 ジャズドラマーが「沈黙と対抗するための、別の沈黙をつくっている」のだとしたら、「ケトルドラム奏者」も「沈黙」をつくっている。その「沈黙」は「ことりのさえずり」をだきとめることができる。「みさいるのばくはつ(音)」もだきとめることができる。ドラムをたたく、「そのうで」で、だきとめることができる。
 一連目から二連目への変化を「おと」から「しずけさ」への主語(主役)の変化として読んできたが、実は「ドラム」から「奏者」への変化でもあったのだ。「できる」の「主語」は「うで」をもった「奏者」である。

 「音楽」、人間のつくりだす「音と沈黙の結合」は、そうやって「世界」を変えていく。谷川は「音楽」にその可能性を見ている。





 

*


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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

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