監督 クリント・イーストウッド 出演 アンソニー・サドラー、アレク・スカラトス、スペンサー・ストーン
「実話」の映画である。「実話」の核心はとても「劇的」なものである。しかし、これが実にあっさりと描かれている。
映画は(あるいは、あらゆる芸術は)、時間と空間を自在に変形させる。「編集」といった方がいいかもしれないけれど。たとえば昨年評判になったクリストファー・ノーラン監督「ダンケルク」は三つの時間を「ひとつ」にしてクライマックスまで観客を引っ張っていった。これは極端な例だが、たいていの映画はクライマックスをいろいろな角度で「時間」を重複させたり引き延ばしたりしてみせる。イーストウッドの「ハドソン川の奇跡」も同じシーンが繰り返されている。(この反復は、裁判での「再現」ではあるが。)
ところが、この映画ではイーストウッドは、そういう「劇的」にみせる手法をあっさり捨ててしまっている。「一回性」をそのままに、ぱっと再現している。カメラのアングルは考えられているが、カメラが「演技」することを拒絶し、あの瞬間を、あの瞬間のまま、ぱっとつかみ取っている。
だから、とても奇妙な言い方だが、「はらはらどきどき」しない。「はらはらどきどき」しているひまがない。映画で「はらはらどきどき」するのは、実は、感情を楽しむ余裕があるときなのだ。「現実」は「無我夢中」のうち終わってしまう。「無我夢中」ということさえ、わからないうちに終わってしまう。
とても特徴的なのが、列車内での銃撃を試みた「犯人」の人間像が、まったくわからない。銃をもって列車に乗り込み、乗客を殺そうとした、という以外のことを、乗客も(観客も)知らない。だから、映画ではその映像がとても少ない。
うーむ。
私はうなってしまう。「映画」であることを、やめている。あ、もっと、そのシーンを見たい。このシーンはこれから起きるストーリーの展開と、どうつながるのか。そういう「なぞとき」をさせない。このシーンで「はらはらどきとき」したい、というような観客の感情もあおらない。(とはいうものの、止血のために指で押さえているシーン。スペンサー・ストーンが看護師と交代する一瞬などは、とてもしっかりと描写している。どうしてスペンサー・ストーンが素手で犯人に立ち向かえたのか、という伏線はきちんと紹介されているが。)
その結果、どういうことが起きるか。
「一回」しか起きない事件そのものに立ち会っている感じがするのである。この「立ち会っている」という感じがすごい。「映画」であることを忘れる。
どのシーンも「一回」しか撮影していないのではないかと感じさせる。
でも、そうではない。予告編を見た人は気づくと思うが、列車の中のスナックタイム。コーラを注文するのだが、予告編では「コーラがちっちゃい」「フランスだから」というようなやりとりだったが、本編では「フランスだから」という台詞にはなっていない。何度か撮り直し、そのなかから一番いいシーンをつないでいる。しかし、とても、そうは思えない。そういう不思議さがある。
ストーリーというか、クライマックスとは無関係の子ども時代のシーン、列車に乗るまでの旅行のシーンさえも同じである。あらゆることが、ごく普通に起きる「一回性」をそのまま浮かび上がらせる。「一回」だけれど、忘れらないことがある。それを「一回性」のまま映画にしてしまっている。これは、すごい。
(ユナイテッドシネマ・キャナルシティスクリーン8、2018年03月04日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
「実話」の映画である。「実話」の核心はとても「劇的」なものである。しかし、これが実にあっさりと描かれている。
映画は(あるいは、あらゆる芸術は)、時間と空間を自在に変形させる。「編集」といった方がいいかもしれないけれど。たとえば昨年評判になったクリストファー・ノーラン監督「ダンケルク」は三つの時間を「ひとつ」にしてクライマックスまで観客を引っ張っていった。これは極端な例だが、たいていの映画はクライマックスをいろいろな角度で「時間」を重複させたり引き延ばしたりしてみせる。イーストウッドの「ハドソン川の奇跡」も同じシーンが繰り返されている。(この反復は、裁判での「再現」ではあるが。)
ところが、この映画ではイーストウッドは、そういう「劇的」にみせる手法をあっさり捨ててしまっている。「一回性」をそのままに、ぱっと再現している。カメラのアングルは考えられているが、カメラが「演技」することを拒絶し、あの瞬間を、あの瞬間のまま、ぱっとつかみ取っている。
だから、とても奇妙な言い方だが、「はらはらどきどき」しない。「はらはらどきどき」しているひまがない。映画で「はらはらどきどき」するのは、実は、感情を楽しむ余裕があるときなのだ。「現実」は「無我夢中」のうち終わってしまう。「無我夢中」ということさえ、わからないうちに終わってしまう。
とても特徴的なのが、列車内での銃撃を試みた「犯人」の人間像が、まったくわからない。銃をもって列車に乗り込み、乗客を殺そうとした、という以外のことを、乗客も(観客も)知らない。だから、映画ではその映像がとても少ない。
うーむ。
私はうなってしまう。「映画」であることを、やめている。あ、もっと、そのシーンを見たい。このシーンはこれから起きるストーリーの展開と、どうつながるのか。そういう「なぞとき」をさせない。このシーンで「はらはらどきとき」したい、というような観客の感情もあおらない。(とはいうものの、止血のために指で押さえているシーン。スペンサー・ストーンが看護師と交代する一瞬などは、とてもしっかりと描写している。どうしてスペンサー・ストーンが素手で犯人に立ち向かえたのか、という伏線はきちんと紹介されているが。)
その結果、どういうことが起きるか。
「一回」しか起きない事件そのものに立ち会っている感じがするのである。この「立ち会っている」という感じがすごい。「映画」であることを忘れる。
どのシーンも「一回」しか撮影していないのではないかと感じさせる。
でも、そうではない。予告編を見た人は気づくと思うが、列車の中のスナックタイム。コーラを注文するのだが、予告編では「コーラがちっちゃい」「フランスだから」というようなやりとりだったが、本編では「フランスだから」という台詞にはなっていない。何度か撮り直し、そのなかから一番いいシーンをつないでいる。しかし、とても、そうは思えない。そういう不思議さがある。
ストーリーというか、クライマックスとは無関係の子ども時代のシーン、列車に乗るまでの旅行のシーンさえも同じである。あらゆることが、ごく普通に起きる「一回性」をそのまま浮かび上がらせる。「一回」だけれど、忘れらないことがある。それを「一回性」のまま映画にしてしまっている。これは、すごい。
(ユナイテッドシネマ・キャナルシティスクリーン8、2018年03月04日)
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