谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(34)(創元社、2018年02月10日発行)
「聴く」は「ベートーヴェンの家」を訪問したときのことから書き出している。「雑音」と「音楽」の関係についての思いめぐらし。
本筋(?)ではなくて、「起承転結」の「転」の部分に、こういう文がある。
私は、「読む」ではなく「聴く」。「読んでいる」と感じたことはない。
私は、知っていることばは、すべて「読む」ではなく「聴く」感覚である。「文字」ではことばが覚えられない。私が文字を覚えたのが遅かったせいかもしれない。私は小学校に入学するまで「文字」を知らなかった。正確に言うと、入学式の前日、「名前くらいかけないといかんなあ」と言われて、自分の名前の「ひらがな」だけ教えてもらった。それまでは「声」でしかことばというものを知らなかったからかもしれない。
そのせいか、いまでも「聴いたことのないことば」というのは読めない。聴いたことがあることばなら「文脈」から「これかなあ」と思うことがある。
安倍や麻生が「云々」「未曾有」が読めなくて話題になったが、あれは文字が読めないというよりも、「うんぬん」「みぞう」という「音」を聴いたことがないのだろう。言い換えると、他人と会話したことがない。「声」に出したことがないせいだろうと思う。
あ、これは私に引きつけすぎた「感想」かもしれない。
知らない漢字は、私は、いまでも読みとばす。読める部分だけ読む。これは「聞こえる」ことばだけ読むということだ。
「おお」「ああ」は確実に読むことができるから、「聴いている」としか感じたことがない。
さらにいうと、そのときの「音(声)」というのは、自分の「声」である。私は「音読」はしないが、本を読んだあと、喉がつかれる。目ももちろん疲れるが、喉がつかれる。無意識に「声」を出しているのだと思う。
で、少し脱線すると。
私は「黙読」しかしないが、「語学」はさすがに黙読というのはめんどうくさい。それで「声」を出すのだが、そうすると「声」がきちんと出るようになってくると目が疲れない。「声」に出せない間は、とても目が疲れる。ここからも、私は「読む」というのは「声」を出そうが出すまいが、喉をつかっていると思う。もちろん舌も、唇も。「声」を出して読むと、「肉体」全体が解放されて、目の負担が軽くなるのかも、と自分勝手に考えている。
谷川の書いていることに戻る。こうつづいている。
うーん、「うさんくさい」か。黙読派の私には、これは厳しい指摘である。
しかし、たしかにそう思う。
先に書いたけれど、「黙読」というのはなんといっても「読みとばし」ができる。「音読」は「読みとばし」ができないからね。
でも、こんなことも考える。
では「音読(朗読)」ではなく、それを「聴いている」ときは、どうなんだろう。「おお」とか「ああ」とかということばを聴いているとき、私は「意味」を受け止めているのか、「音(声)」を受け止めているのか。
これはさらに「書く」という行為とも関係づけて見る必要がある。「書く」とき、それは「意味」を書いているのか、「音」を書いているか。私はワープロで書いているが、手書きに比べて喉がつかれる。手書きに比べて早く書けるから、それだけ喉が忙しい。私は書くときも無意識に「声」を出しているようだ。
で、そのときの「声」は「音」、それとも「意味」?
実際に「声」を出すわけではないから、「書く」もの「うさんくさい」?
それとも「読む」と「書く」は、わけて考えるべきなのかなあ。
「朗読」にもどる。
私は、実は「朗読」を聴くというのがとても苦手だ。「声」がもっている「意味」以外のものが多すぎる。「感情」と簡単に言ってしまうといけないんだろうけれど、私は他人の感情なんか知りたくない。他人の「意味」も実は知りたくない。自分の「意味」と「感情」で手一杯である。もちきれない。「ことば」は自分のペースで(つまり、声で)読みたい。「意味」と「音」は密接なので、よけい、他人の朗読が納得できないのかもしれない。
「結」の部分は、こう書かれている。
「雑音→信号、信号→楽音」という「運動の構造」が文をつくっている。「信号」を中間項にはさみ、「雑音」が「楽音」にかわっていく。このとき「信号」とは何だろうか。「信号」を「意味」に限定すると、たぶん、「超合理主義(経済主義)」の何かになってしまうなあ。「意味」がすべてを支配(統一)してしまう。
それでは「芸術」なんて、なくなってしまう。
「意味」そのものではなく、「意味」になる前の「未生の意味」ということだろうか。「雑音」のなかにかくれている「未生の意味」が、「雑音」を「楽音」に変えていく。「既成の意味」ではなく「未生の意味」だから、それがどんなものか「わからない」。つまり、まったく「新しい何か」(独自の何か)かもしれない。
でも、その「未生の意味」は、どうして人間にわかるのだろう。「かくれている」とどうしてわかるのだろう。
ひとが呻く。それは「声」を聴くだけではなく、たいていの場合「肉体」そのものをも見る。そして、肉体を見て、呻きを聴くと、自分がおなじカッコウで呻いていたことを思い出す。それで「痛い」とか「悲しい」とか「悔しい」とか、「呻きの意味」を「ことば」を媒介にせずに、わかってしまう。この「わかる」は「未生のことば」を肉体で反芻するということだろうなあ。
どんなことばも、そういう「領域」をとおって生まれてくると思う。「言葉のボディ」についての谷川の定義はわからないけれど、私は「ことばの肉体」と「人間の肉体」はつながっていると思う。
とりとめもなく、ここまでことばを動かしてきて、ぱたっと止まった。どこかで何かを間違えているのかもしれない。
*
「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
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目次
小川三郎「沼に水草」2 岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13 タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21 最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28 鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47 佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64 及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
「聴く」は「ベートーヴェンの家」を訪問したときのことから書き出している。「雑音」と「音楽」の関係についての思いめぐらし。
本筋(?)ではなくて、「起承転結」の「転」の部分に、こういう文がある。
詩の中にときおり〈おお〉とか〈ああ〉とかの感嘆詞を読むこと
がある。それらを私は読んでいるのか聴いているのか。
私は、「読む」ではなく「聴く」。「読んでいる」と感じたことはない。
私は、知っていることばは、すべて「読む」ではなく「聴く」感覚である。「文字」ではことばが覚えられない。私が文字を覚えたのが遅かったせいかもしれない。私は小学校に入学するまで「文字」を知らなかった。正確に言うと、入学式の前日、「名前くらいかけないといかんなあ」と言われて、自分の名前の「ひらがな」だけ教えてもらった。それまでは「声」でしかことばというものを知らなかったからかもしれない。
そのせいか、いまでも「聴いたことのないことば」というのは読めない。聴いたことがあることばなら「文脈」から「これかなあ」と思うことがある。
安倍や麻生が「云々」「未曾有」が読めなくて話題になったが、あれは文字が読めないというよりも、「うんぬん」「みぞう」という「音」を聴いたことがないのだろう。言い換えると、他人と会話したことがない。「声」に出したことがないせいだろうと思う。
あ、これは私に引きつけすぎた「感想」かもしれない。
知らない漢字は、私は、いまでも読みとばす。読める部分だけ読む。これは「聞こえる」ことばだけ読むということだ。
「おお」「ああ」は確実に読むことができるから、「聴いている」としか感じたことがない。
さらにいうと、そのときの「音(声)」というのは、自分の「声」である。私は「音読」はしないが、本を読んだあと、喉がつかれる。目ももちろん疲れるが、喉がつかれる。無意識に「声」を出しているのだと思う。
で、少し脱線すると。
私は「黙読」しかしないが、「語学」はさすがに黙読というのはめんどうくさい。それで「声」を出すのだが、そうすると「声」がきちんと出るようになってくると目が疲れない。「声」に出せない間は、とても目が疲れる。ここからも、私は「読む」というのは「声」を出そうが出すまいが、喉をつかっていると思う。もちろん舌も、唇も。「声」を出して読むと、「肉体」全体が解放されて、目の負担が軽くなるのかも、と自分勝手に考えている。
谷川の書いていることに戻る。こうつづいている。
前後の文脈
に従って私は無意識のうちに、それらにある声を与えてはいるけれ
ど、本当の声は文字の中に閉じこめられている。黙読ということに
は、どこかうさんくさいところがある。
うーん、「うさんくさい」か。黙読派の私には、これは厳しい指摘である。
しかし、たしかにそう思う。
先に書いたけれど、「黙読」というのはなんといっても「読みとばし」ができる。「音読」は「読みとばし」ができないからね。
でも、こんなことも考える。
では「音読(朗読)」ではなく、それを「聴いている」ときは、どうなんだろう。「おお」とか「ああ」とかということばを聴いているとき、私は「意味」を受け止めているのか、「音(声)」を受け止めているのか。
これはさらに「書く」という行為とも関係づけて見る必要がある。「書く」とき、それは「意味」を書いているのか、「音」を書いているか。私はワープロで書いているが、手書きに比べて喉がつかれる。手書きに比べて早く書けるから、それだけ喉が忙しい。私は書くときも無意識に「声」を出しているようだ。
で、そのときの「声」は「音」、それとも「意味」?
実際に「声」を出すわけではないから、「書く」もの「うさんくさい」?
それとも「読む」と「書く」は、わけて考えるべきなのかなあ。
「朗読」にもどる。
私は、実は「朗読」を聴くというのがとても苦手だ。「声」がもっている「意味」以外のものが多すぎる。「感情」と簡単に言ってしまうといけないんだろうけれど、私は他人の感情なんか知りたくない。他人の「意味」も実は知りたくない。自分の「意味」と「感情」で手一杯である。もちきれない。「ことば」は自分のペースで(つまり、声で)読みたい。「意味」と「音」は密接なので、よけい、他人の朗読が納得できないのかもしれない。
「結」の部分は、こう書かれている。
苦しみのあまり、また哀しみのあまり人が呻くとき、その声は表
記できない。〈おお〉でも〈ああ〉でもない呻きを聴くとき、私たち
の心身にうごめくもの、そこに言葉の本来のボディがあり、それを
聴きとることは風の音、波の音、星々の音を聴きとることにつなが
る。どんな雑音のうちにも信号がかくれている、どんな信号のうち
にも楽音がかくれている。
「雑音→信号、信号→楽音」という「運動の構造」が文をつくっている。「信号」を中間項にはさみ、「雑音」が「楽音」にかわっていく。このとき「信号」とは何だろうか。「信号」を「意味」に限定すると、たぶん、「超合理主義(経済主義)」の何かになってしまうなあ。「意味」がすべてを支配(統一)してしまう。
それでは「芸術」なんて、なくなってしまう。
「意味」そのものではなく、「意味」になる前の「未生の意味」ということだろうか。「雑音」のなかにかくれている「未生の意味」が、「雑音」を「楽音」に変えていく。「既成の意味」ではなく「未生の意味」だから、それがどんなものか「わからない」。つまり、まったく「新しい何か」(独自の何か)かもしれない。
でも、その「未生の意味」は、どうして人間にわかるのだろう。「かくれている」とどうしてわかるのだろう。
ひとが呻く。それは「声」を聴くだけではなく、たいていの場合「肉体」そのものをも見る。そして、肉体を見て、呻きを聴くと、自分がおなじカッコウで呻いていたことを思い出す。それで「痛い」とか「悲しい」とか「悔しい」とか、「呻きの意味」を「ことば」を媒介にせずに、わかってしまう。この「わかる」は「未生のことば」を肉体で反芻するということだろうなあ。
どんなことばも、そういう「領域」をとおって生まれてくると思う。「言葉のボディ」についての谷川の定義はわからないけれど、私は「ことばの肉体」と「人間の肉体」はつながっていると思う。
とりとめもなく、ここまでことばを動かしてきて、ぱたっと止まった。どこかで何かを間違えているのかもしれない。
*
「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
小川三郎「沼に水草」2 岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13 タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21 最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28 鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47 佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64 及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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