詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(34)

2018-03-18 20:35:14 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(34)(創元社、2018年02月10日発行)

 「聴く」は「ベートーヴェンの家」を訪問したときのことから書き出している。「雑音」と「音楽」の関係についての思いめぐらし。
 本筋(?)ではなくて、「起承転結」の「転」の部分に、こういう文がある。

 詩の中にときおり〈おお〉とか〈ああ〉とかの感嘆詞を読むこと
がある。それらを私は読んでいるのか聴いているのか。

 私は、「読む」ではなく「聴く」。「読んでいる」と感じたことはない。
 私は、知っていることばは、すべて「読む」ではなく「聴く」感覚である。「文字」ではことばが覚えられない。私が文字を覚えたのが遅かったせいかもしれない。私は小学校に入学するまで「文字」を知らなかった。正確に言うと、入学式の前日、「名前くらいかけないといかんなあ」と言われて、自分の名前の「ひらがな」だけ教えてもらった。それまでは「声」でしかことばというものを知らなかったからかもしれない。
 そのせいか、いまでも「聴いたことのないことば」というのは読めない。聴いたことがあることばなら「文脈」から「これかなあ」と思うことがある。
 安倍や麻生が「云々」「未曾有」が読めなくて話題になったが、あれは文字が読めないというよりも、「うんぬん」「みぞう」という「音」を聴いたことがないのだろう。言い換えると、他人と会話したことがない。「声」に出したことがないせいだろうと思う。
 あ、これは私に引きつけすぎた「感想」かもしれない。
 知らない漢字は、私は、いまでも読みとばす。読める部分だけ読む。これは「聞こえる」ことばだけ読むということだ。
 「おお」「ああ」は確実に読むことができるから、「聴いている」としか感じたことがない。
 さらにいうと、そのときの「音(声)」というのは、自分の「声」である。私は「音読」はしないが、本を読んだあと、喉がつかれる。目ももちろん疲れるが、喉がつかれる。無意識に「声」を出しているのだと思う。
 で、少し脱線すると。
 私は「黙読」しかしないが、「語学」はさすがに黙読というのはめんどうくさい。それで「声」を出すのだが、そうすると「声」がきちんと出るようになってくると目が疲れない。「声」に出せない間は、とても目が疲れる。ここからも、私は「読む」というのは「声」を出そうが出すまいが、喉をつかっていると思う。もちろん舌も、唇も。「声」を出して読むと、「肉体」全体が解放されて、目の負担が軽くなるのかも、と自分勝手に考えている。

 谷川の書いていることに戻る。こうつづいている。

                         前後の文脈
に従って私は無意識のうちに、それらにある声を与えてはいるけれ
ど、本当の声は文字の中に閉じこめられている。黙読ということに
は、どこかうさんくさいところがある。

 うーん、「うさんくさい」か。黙読派の私には、これは厳しい指摘である。
 しかし、たしかにそう思う。
 先に書いたけれど、「黙読」というのはなんといっても「読みとばし」ができる。「音読」は「読みとばし」ができないからね。
 でも、こんなことも考える。
 では「音読(朗読)」ではなく、それを「聴いている」ときは、どうなんだろう。「おお」とか「ああ」とかということばを聴いているとき、私は「意味」を受け止めているのか、「音(声)」を受け止めているのか。
 これはさらに「書く」という行為とも関係づけて見る必要がある。「書く」とき、それは「意味」を書いているのか、「音」を書いているか。私はワープロで書いているが、手書きに比べて喉がつかれる。手書きに比べて早く書けるから、それだけ喉が忙しい。私は書くときも無意識に「声」を出しているようだ。
 で、そのときの「声」は「音」、それとも「意味」?
 実際に「声」を出すわけではないから、「書く」もの「うさんくさい」?

 それとも「読む」と「書く」は、わけて考えるべきなのかなあ。

 「朗読」にもどる。
 私は、実は「朗読」を聴くというのがとても苦手だ。「声」がもっている「意味」以外のものが多すぎる。「感情」と簡単に言ってしまうといけないんだろうけれど、私は他人の感情なんか知りたくない。他人の「意味」も実は知りたくない。自分の「意味」と「感情」で手一杯である。もちきれない。「ことば」は自分のペースで(つまり、声で)読みたい。「意味」と「音」は密接なので、よけい、他人の朗読が納得できないのかもしれない。

 「結」の部分は、こう書かれている。

 苦しみのあまり、また哀しみのあまり人が呻くとき、その声は表
記できない。〈おお〉でも〈ああ〉でもない呻きを聴くとき、私たち
の心身にうごめくもの、そこに言葉の本来のボディがあり、それを
聴きとることは風の音、波の音、星々の音を聴きとることにつなが
る。どんな雑音のうちにも信号がかくれている、どんな信号のうち
にも楽音がかくれている。

 「雑音→信号、信号→楽音」という「運動の構造」が文をつくっている。「信号」を中間項にはさみ、「雑音」が「楽音」にかわっていく。このとき「信号」とは何だろうか。「信号」を「意味」に限定すると、たぶん、「超合理主義(経済主義)」の何かになってしまうなあ。「意味」がすべてを支配(統一)してしまう。
 それでは「芸術」なんて、なくなってしまう。
 「意味」そのものではなく、「意味」になる前の「未生の意味」ということだろうか。「雑音」のなかにかくれている「未生の意味」が、「雑音」を「楽音」に変えていく。「既成の意味」ではなく「未生の意味」だから、それがどんなものか「わからない」。つまり、まったく「新しい何か」(独自の何か)かもしれない。
 でも、その「未生の意味」は、どうして人間にわかるのだろう。「かくれている」とどうしてわかるのだろう。
 ひとが呻く。それは「声」を聴くだけではなく、たいていの場合「肉体」そのものをも見る。そして、肉体を見て、呻きを聴くと、自分がおなじカッコウで呻いていたことを思い出す。それで「痛い」とか「悲しい」とか「悔しい」とか、「呻きの意味」を「ことば」を媒介にせずに、わかってしまう。この「わかる」は「未生のことば」を肉体で反芻するということだろうなあ。
 どんなことばも、そういう「領域」をとおって生まれてくると思う。「言葉のボディ」についての谷川の定義はわからないけれど、私は「ことばの肉体」と「人間の肉体」はつながっていると思う。
 
 とりとめもなく、ここまでことばを動かしてきて、ぱたっと止まった。どこかで何かを間違えているのかもしれない。






*


「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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安倍を分析する

2018-03-18 18:22:22 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍を分析する
             自民党憲法改正草案を読む/番外192(情報の読み方)

 森友学園文書改竄を、少し違う角度から見てみる。安倍はしきりに「私が最高責任者」という。憲法に自衛隊を書き加えたいのも、自衛隊を「違憲ではなくす」というよりも、内閣総理大臣が最高指揮官という文言を憲法に書き加えたいからである。内閣総理大臣が「最高」責任者、「最高」指揮官というようなことばは、どこにもないからね。
 現行憲法には、72条にこう書いてあるだけ。

第七十二条 内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。

 これが自民党改憲案(2012年)では、こうなっている。

第七十二条 内閣総理大臣は、行政各部を指揮監督し、その総合調整を行う。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して、議案を国会に提出し、並びに一般国務及び外交関係について国会に報告する。
3 内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する。

 「最高指揮官」ということばが入っている。この「最高」を安倍は先取りして「実施」しようとしている。
 2012年の「改正案」では、この「最高指揮官」というこばは72条にならないと出てこないが、いま自民党がもくろんでいる改正案では、9条に出てくる。「天皇」「戦争の放棄」「国民の権利及び義務」という順序の現行憲法で「国民」よりも先に出てきて、しかも「最高指揮官」と定義する。
 ここから「自衛隊」を指揮するだけではなく、国民全体を指揮する(監督する)という方向へ「権力構造」を広げていく。
 安倍の「最高責任者」という発言は、「憲法改正」を先取りしているのである。

 で、この「最高責任者」ということばと、安倍がやっていることを結びつけながらみていく。
 最高責任者の「位置」というのは「三角形(あるいはピラミッド)」の頂点である。そこから全体を指揮(監督)する。このとき、安倍の視野には「三角形」の全部が入っている。国家全体を見れば、国民がいなければ「三角形」は成り立たない。行政においては、下部機関(省庁)がなければ「三角形」は成り立たない。
 「最高責任者(監督者)」ということばが「意味」をもつのは「三角形」が成り立つときだけである。
 ところが一方で、安倍は、17年の都議選の「応援演説」が象徴的だが、安倍を批判する人間を「こんな人たち」と呼んで排除する。「こんな人たち」を「国民」とは見なさない。「三角形」は成り立たない。「三角形」が崩れてしまえば、その頂点としての「総理大臣」も頂点とは言えなくなるのだが、こういうことを安倍は平気で言う。
 だから、安倍はこのとき「最高責任者(監督者)」という「意味」を捨てていることになる。「国」がどんな形かを無視して、「頂点」という「存在」として「自己規定」していることになる。
 安倍は「意味」と「存在」をつかいわけているのである。
 「意味領域」と「存在領域」と言い換えてもいいが、こんなことは、普通はだれも考えない。「意味」と「存在」は同じものだと思う。
 だから、安倍にだまされる。

 森友学園問題でも、同じことをしている。
 内閣総理大臣は行政の全体の最高責任者(監督者)である。こういうとき、安倍は「三角形」の全体を国民に「意味」として提示している。もし、その「意味」を守ろうとすると、その「三角形」の内部で問題が起きたとき(文書の改竄が起きたとき)、改竄行為の責任は内閣総理大臣にある。安倍にある。改竄が財務省でおこなわれたのなら、麻生も責任がある。
 ところが安倍は、改竄は自分がしたのではない。指揮していないと、「三角形」を離れて、「頂点」という「存在」に引きこもる。「三角形」を切り捨てる。都議選で「あんな人たち」と言ったのとおなじである。「あんな省」「あんな人(佐川)」がやっていることで、自分には関係がない。「指揮、監督する」という「意味」を捨てて、開き直るのである。
 改竄をした人間は「三角形の頂点」を守るために「三角形」であろうとしている。「底辺」を維持しようとしている。「底辺」でできることは何なのか、「意味」考えて行動している。これを安倍は「意味」のつながりを無視して、単なる「存在」として切り捨てる。「存在」は「補充」がきくからだ。
 安倍も麻生も、財務省や佐川に責任をなすりつけて平気なのは、財務省、佐川を「あんな人たち」とみているからである。自分には関係がない。守る必要など、ない、と思っている。

 ひとの考えていること(思っていること)は、いろいろな「ことば」になってあらわれる。
 安倍は誰に対しても「あんな人たち」という。そういうことが平気でできる人間である。この人間性を、佐川や財務省はつかみきれなかった。籠池もおなじだろう。安倍昭恵が「名誉校長」まで引き受けるなら、信じてしまう。まさか、問題が起きると「あんな人」と切り捨てられるとは思わなかっただろう。逮捕こそされたが、裁判で判決が出ていないのに、安倍は、詐欺師と呼んで切り捨てている。
 不都合な人間は、どんどん切り捨てる。自分は何もしていない、と言い張る。「三角形(意味)」と「頂点(存在)」をつかいわける「行動パターン」はおなじである。
 このことからも、今回の「森友学園事件」は、安倍の引き起こしたものだと言える。安倍以外の人間が首相なら、こんなことは起きなかった。安倍の「存在」が引き起こした事件である。

 で、こんなことも考えておきたい。
 戦争が起きる。みんな逃げまどう。国民が殺され、死んで行く。安倍とそのとき、どういうだろうか。「私は自衛隊の最高責任者であり、国民のすべてを指揮するわけではない。避難誘導を間違った知事や市長の責任である」と言うに違いない。
 安倍が「三角形」としての「最高責任者」を持ち出すのは、「独裁」を遂行するときだけである。批判を浴びたら、「頂点」として「存在」しているのであって、「三角形」の細部(面積)に責任があるのは別の人間だと言い逃れる。
 こんな人間が「最高責任者」のままでは、国民は「皆殺し」にあう。すでに財務省では自殺者が出ている。「自殺」は自分でするもの、安倍は何もしていない、というだろう。「何もしていない」を別な角度からとらえ直し、「何もしなかったから自殺者が出たのだ」と問い詰めなければならない。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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坂口簾『鈴と桔梗』

2018-03-18 09:24:34 | 詩集
坂口簾『鈴と桔梗』(書肆山田、2018年01月30日発行)

 坂口簾『鈴と桔梗』には細田傳造の詩とは違って「他人」がでてこない。ひとは出てくるが「他人」としては登場しない。「批評」が人に対してつけくわえられていない。これは別な意味で言えば、ことばに対して「批評」がおこなわれていない。
 「廃園」という作品。

目覚めの遅い廃園に来てみると
熟成した時間の露を縫いながら
今日の最初のひかりが
不揃いな模様を描きかけているところだった

たとえば
かつて少年がハモニカを吹きに来た檪の幹
熊笹におおわれていまは寄りかかることさえ出来ない
そこから見えた砂場
仙翁の朱の乱れるあたり
ブリキの如露が錆びた首を突き出していた

 ことばは互いに「呼び掛け合っている」。「廃園」はすたれた庭園。動き始めるものがない。これを「目覚めが遅い」ということばで強調している。「廃園は目覚めが遅い」と「主語+述語」の形で書かずに、「目覚めが遅い」と「認識」から語り始める。「認識が」全体のことばを統一している。したがって、ここには「批評」が入り込む余地がない。「熟成した時間」もおなじ。「廃園」にきて、その庭園の中にある「時間が熟成している」と気づくのではなく、あらかじめ「熟成した」という「認識」があり、それが「時間」ということばを修飾する。修飾は規定でもある。断定と言い換えてもいい。断定によって、「認識」を確固なものにする。これは「批評」というよりも「認識」の拡張である。「批評」は、他人とのぶつかりあいを誘い出すものだが、坂口のことばはそうした方向へは動かない。
 「認識」によってことばを統一する。強い力が「世界」を静かに整える。「不揃い」ということさえ、動くことをやめししまう。「ひかり」が射して影ができる。その模様が「不揃いになる」というのが実際に起きることだが、「不揃いな模様」が最初からあり、その「不揃い」のなかに「描く」という動詞まで引き込んでしまう。
 この「静謐」を破って、ことばが独自に動くというのはむずかしい。「認識」の「静謐」のなかで、ことばは整えられていく。
 「少年」と「ハモニカ」、「ブリキの如露」と「錆」。ここには「新しい組み合わせ」がない。だから、何が起きるのだろうという「不安」にかりたてられることはない。
 しかし、これはこれで、ひとつの「詩のスタイル」である。
 「鳥の伝説」の一連目。

鳥は
枝に来て
羽をたたむと
ふり向いて
おのれの飛跡をたしかめる

 ここに書かれた「鳥」を「私」と読み、「ことば」と読み替えてみる。「私のことば」の方がいいかなあ。
 「詩(私のことば)」は、書き終わると(完成すると)、ペンを置いて「ことば」を振り返る。そこに「私の軌跡(認識)」が見える。それを確かめる。その「軌跡」は「私の軌跡(認識)」であるが、またそこには「ことば(文学)としての認識(伝統)」も見える。そして、この「文学の伝統としてのことば」が、あらかじめの「認識」として働き、坂口に働きかけているということもわかる。その動き方に乱れはない。つまり完成されている。
 坂口は「他人」と交渉するかわりに、「文学」と交渉している。
 この「交渉」を坂口は「たしかめる」という動詞で語っている。「たしかめる」は「確固にする」でもある。

 「批評」のことばは「たしかめる」ことばではない。「批評」のことばは、「ある」ものを叩きこわしていくことばである。
 と、ここから細田の詩を振り返ってみたりする。






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     *
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