詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『未知』(2)

2018-03-06 12:08:44 | 詩集
池井昌樹『未知』(2)(思潮社、2018年03月20日発行)

 「螢狩」という作品。その前半。

こんやはほたるがりだから
あさからこころときめいて
ごはんもおふろもうわのそら
ほたるがりとはなんなのか
だれからおしえられたのか
だれもしらないほたるがり

 「だれもしらないほたるがり」に思わず傍線を引いた。
 ここに書かれていることは、学校文法にしたがって読めば、「ほたるがり」とは「何か」、「ほたるがり」を「だれからおしえられたのか」を知らないということになるのかもしれないが、それをほっておいて

だれもしらないほたるがり

 だけを読むと、池井以外の「だれもしらないほたるがり」、池井だけが知っている「ほたるがり」とも読むことができる。一行をまわりの行とは無関係に読むというのは学校ではやらないだろうが、ある一行だけに惹かれる、ということは私の場合しばしば起きる。その惹かれる部分、引きつける力に身を任せてしまう。
 これは先走りしすぎた「誤読」ということになるかもしれないが。
 こんな「誤読」をしてしまうのは、「ほたるがり」が何であるかを私は知っているからだ。「ほたるがり」というような「おしゃれなことば」を私はこどものときにつかったことはない。「ほたるをつかまえにいこう」が最初のことばであり、こども時代をすぎると「ほたるを見に行こう」になった。捕まえる(狩り)が欲望として最初にあり、あとから「見るだけ」という気取った態度にかわった。そういう自分の中で起きた変化も含めて「ほたるがり」とは何かを私は知っている。たいがいの人は知っているだろう。
 「だれからおしえられたか」ということは、ちょっとむずかしい。特定できない。教えられたというよりも、なんとなく知ってしまうものである。炊いた白米を「ごはん」と呼ぶことを「誰から教えられたか」なんて、だれも知らないのと同じである。「誰から教えられたか」なんて、知る必要がない。
 では、なぜ、池井は「(だれも)しらない」と書いたのか。
 「しらない」けれど「ある」と言いたいのだと思う。「しらない」まま、「ある」ものはたくさんある。そして池井は「しらない」ということを「知っている」と言いたいのか。いや、そういう面倒くさいことを池井は考える人間ではない。(これは、個人的に池井を知っている私の「独断」であって、根拠はない。)
 
 池井は、

だれもしらないほたるがり

 が「ある」ことを知っている。このときの「だれもしらない」には池井も含まれる。「完璧な」といえばいいのか、だれも体験したことのない「ほたるがり」というものがある。
 「ほたるがりとはなんなのか/だれからおしえられたのか」というような「こざかしい質問」を叩きこわしてしまう「完璧なほたるがり」がある。まだ見たことがないけれど、また見たことがないからこそ、今夜見ることができるかもしれない「完璧なほたるがり」。
 それはどんな「ほたるがり」か。

まなこしずかにとざしたら
まんてんのほたるのあかり
とおのいてゆくあおい地球

 「地球」には「ほし」というルビがついている。地球(池井が生きている場所)が、「ほし」になって、ほたるのように飛んで行く。ほたるの群れが地球になって見える。地球とほたると星の区別がつかなくなる。
 空にあるのは「ほたる」、地上にあるのは「ほし」。
 放心して、そんな世界に迷い込む。「だれもしらない」ほたるがりは、そういう形で「ある」。

 あ、でも、どうして池井はそれを知っているのか。
 わからない。
 私にわからない以上に、池井にはそれがわからない。だから詩を書く。
 「わからない」けれど「ある」ものは「ある」。この「ある」を「だれもしらない」けれど、池井は「わかっている」。
 「知る」と「わかる」には、「説明」しにくい違いがある。

 「夕暮時は」には、こういう行がある。

ゆうぐれどきは かえりたくなる
だれかがぼくを まつあそこへと
それがどこだか しりはしないが
だれがまつのか しりはしないが

 「しらない」が「わかっている」のだ。
 「階」には、こういう行がある。

あのなないろのきえたあたりに
だれもしらないところがあって
だれかがまっていることを
たしかにまっていることを

 「しらない」けれど「ある」、「だれか」が「いる」。それは「たしか」である。この「たしか」が「わかる」ということだ。
 そして、「もういいかい」には、こういう行がある。

ぼくがだれだったのかさえ
それさえももうわからない
しろいとばりのたれこめて
ここがどこかもわからない

 この二つを比較してみると、池井にとって「しらない」ことは重要ではない。池井が知らなくても「だれか」が「知っている」。その「だれか」に向き合うとき、「しらない」ものが「ある」ことが「わかる」。
 「もういいかい」は、「だれか」を見失った詩である。
 池井は、困惑している。「ある」を教えてくれる「誰か」がいないのだ。「待たされている」のである。「もういいかい」と、池井は池井を待たせている「だれか」に向かって叫んでいる。

もういいかい
もういちどだけいってみる
もういいよ
というこえがする
しろいとばりのあちらから
まあだだよ
というささやきもする

 「もういいよ」と「まあだだよ」が同時に聞こえる。
 よく思い出せないが「わからない」ということばを池井はいままでに書いてきただろうか。非常に気になる。「もういいかい」は私の胸に、ずきんと響く。




 

*


「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(22)

2018-03-06 10:41:16 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(22)(創元社、2018年02月10日発行)

 「あのひとが来て」は最終連に「音楽」ということばが出てくる。それまでは「あのひとが来て」はじまった一日が語られている。
 きのうは長い感想になったので、きょうは短い感想にしたい。
 最終連だけを取り上げる。

夜になって雨が上がり星が瞬き始めた
時間は永遠の娘 歓びは哀しみの息子
あのひとのかたわらでいつまでも終わらない音楽を聞いた

 この「音楽」とは何か。ベートーベン、モーツァルト、ショパンの曲を指しているわけではない。具体的な音を指してはいない。実際には聞こえない「音楽」、つまり「沈黙の音楽」を指している。
 それはどこにあるか。
 「対比」が「音楽」となって響く。

時間は永遠の娘 歓びは哀しみの息子

 この一行にはいくつかの「対比」がある。「娘(女)」と「息子(男)」の対比はわかりやすいが、ほかにもある。そのことはあとでふれることにして、

夜になって雨が上がり星が瞬き始めた

 から見ていく。
 「夜になって」の「夜」は書かれていない「昼」ということばと「対比」することができる。「昼」は、詩の前半に書かれている。「なる」という「動詞」が「昼」を呼び出し、同時に否定する、あるいは超えていく。
 「雨」と「星」は共存しない。これも「対比」といえる。雨が「上がり」は「晴れる」。そのあとに星が瞬く。「上がる」という動詞が「対比」を「移行」(変化)として書かれているので、見落としてしまいそうになるが、「対比」である。「動詞」が「対比」されているものを接続している。連続させている。この「接続」には「雨が上がる」(雨がやむ)という「中断」が含まれている。「断絶」が「上がる」という「動詞」で「接続」されるという、おもしろい構造になっている。この構造は「暮らし」に密着しているので、ついつい見落としてしまう。
 「夜になって」が「夜になる前は昼だった」ということを意味するのだが、そういうことをいちいち意識しない。ここにも「暮らし」のなかにある「接続と切断(切断と接続)」がある。
 この「切断と接続(接続と切断)」は、

歓びは哀しみの息子

 ということばの奥にも隠れている。「哀しみ(母)」からやがて「歓び(息子)」が生まれる。それは「生む」ということばでは正確には伝えられない「変化」なのだが、私たちは確かに「哀しみ」がずっーと「哀しみ」のまま人間を苦しめるのではなく、どこからともなく「歓び」がやってくることを知っている。歓びは哀しみを超えていく。そこには「切断と接続」がある。間にあるのは不思議な「時間」である。
 その「時間」から、

時間は永遠の娘

 を読み直すと、そこに書かれているものがとても複雑になる。
 「時間は永遠の娘」ということばを単独で読んだとき、「時間」は「一瞬(いま)」と読むことができる。「永遠」という「長い時間」のなかの「一瞬(いま)」は、「永遠」という「母」から生まれた存在。「娘(瞬間)」は「母(永遠)」につながっている。
 でも、その「時間」は「瞬間」であると同時に、「永遠」ではないけれど「幅(長さ)」をもった「時間」であることもある。「幅(長さ)」があれば、そのなかで「変化」が起きる。「切断と接続(接続と切断)」も起きる。
 この「変化(動き)」を起点に考え直すと「時間」は動くが「永遠」は動かないということになる。動くものが動かないものを浮かび上がらせる、とも言える。「永遠は時間の娘」と言っていいかどうかむずかしいが、私は、一瞬混乱する。
 どちらが「母」、どちらが「娘/息子」とは言えない。
 「哀しみは歓びの息子」というようなことも「暮らし」には存在する。「遊びすぎているから、そんな痛い目にあうのだ」「怠けているから、そうなったのだ」というような言い方は「暮らし」のなかに根付いている。
 「対比されるもの」、「対」になっているものは、ときには「入れ替え」が可能なのだ。むしろ、それは固定化せずに、入れ代わるものとして「対」そのものとし把握しないといけないのかもしれない。
 そうすると「対比」とは結局何になるのだろうか。
 「対比(対)」とはことばによって「つくりだされたもの」にならないか。
 「対比(対)」という意識によって整えられないかぎり、それはただ「ある」だけのもの。
 「対比(対)」は「ことば」によってつくりだされる。「ある」だけのものが、ことばによって「対(対比)」に「なる」。

 「つくりだす」という「動詞」から「音楽」を振り返ってみる。
 谷川は「自然の音」と「音楽」を対比して、「音楽」を「人間が創るもの」と定義していた。「人間が創るもの」が「音楽」ならば、「つくりだされた対比」もまた「音楽」ということになる。「楽器」や「声」によって表現される「音楽」ではなく「ことば」でかかれた「音楽」ということになる。
 この「音楽」と「沈黙」の関係はどうなるか。「音楽」と「沈黙」は切り離せないもの。同時に固く結びついて存在するもの。

夜になって雨が上がり星が瞬き始めた

 この一行に戻ってみる。
 「雨」と「星」を「対比」させていたのは何か。なにがそれを接続し、また切断したのか。「上がる」という「動詞」である。
 「動詞」は不思議だ。「雨」や「星」は、「それ」と指し示すことができる。でも「上がる」という「動詞」は指し示せない。「動き」を「方便」として「上がる」と呼んでいるが、それは「固定」できない。
 「上がる」と「ことば」にしているが、「雨」や「星」に比べると、それは「存在」とは違う。「動き」は存在するが、それを固定化すると「動き」ではなくなる。「動詞」は、「沈黙」に相当しないだろうか。「名づけられていないもの」にならないだろうか。「動詞」は「名詞」を生み出すための、「ことばにならない」何かということにならないか。

あのひとのかたわらでいつまでも終わらない音楽を聞いた

 最終行の「終わらない」は「動き続ける」ということである。
 「あのひと」と「私」は別個の存在である。つまり「切断」されている。けれども「触れる」ことができる。「接続」できる。二人の間で「切断と接続(接続と切断)」は繰り返され、終わることがない。「切断と接続」は、その都度「対比(対)」を浮かび上がらせる。「対」を生み出し続ける。
 それが「音楽」だ。
 「あなた」と「私」は、それぞれ個別の「音」。そのふたりの「あいだ」に「沈黙」がある。「音のない間」がある。それが「動く」。「沈黙」が動き、「あなた」と「私」という「音」を変化させる。いや、「沈黙」そのものが変化するとも言える。
 楽器ではないもの(沈黙)が奏でる「音楽」がそこにある。



 

*


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樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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