池井昌樹『未知』(2)(思潮社、2018年03月20日発行)
「螢狩」という作品。その前半。
「だれもしらないほたるがり」に思わず傍線を引いた。
ここに書かれていることは、学校文法にしたがって読めば、「ほたるがり」とは「何か」、「ほたるがり」を「だれからおしえられたのか」を知らないということになるのかもしれないが、それをほっておいて
だけを読むと、池井以外の「だれもしらないほたるがり」、池井だけが知っている「ほたるがり」とも読むことができる。一行をまわりの行とは無関係に読むというのは学校ではやらないだろうが、ある一行だけに惹かれる、ということは私の場合しばしば起きる。その惹かれる部分、引きつける力に身を任せてしまう。
これは先走りしすぎた「誤読」ということになるかもしれないが。
こんな「誤読」をしてしまうのは、「ほたるがり」が何であるかを私は知っているからだ。「ほたるがり」というような「おしゃれなことば」を私はこどものときにつかったことはない。「ほたるをつかまえにいこう」が最初のことばであり、こども時代をすぎると「ほたるを見に行こう」になった。捕まえる(狩り)が欲望として最初にあり、あとから「見るだけ」という気取った態度にかわった。そういう自分の中で起きた変化も含めて「ほたるがり」とは何かを私は知っている。たいがいの人は知っているだろう。
「だれからおしえられたか」ということは、ちょっとむずかしい。特定できない。教えられたというよりも、なんとなく知ってしまうものである。炊いた白米を「ごはん」と呼ぶことを「誰から教えられたか」なんて、だれも知らないのと同じである。「誰から教えられたか」なんて、知る必要がない。
では、なぜ、池井は「(だれも)しらない」と書いたのか。
「しらない」けれど「ある」と言いたいのだと思う。「しらない」まま、「ある」ものはたくさんある。そして池井は「しらない」ということを「知っている」と言いたいのか。いや、そういう面倒くさいことを池井は考える人間ではない。(これは、個人的に池井を知っている私の「独断」であって、根拠はない。)
池井は、
が「ある」ことを知っている。このときの「だれもしらない」には池井も含まれる。「完璧な」といえばいいのか、だれも体験したことのない「ほたるがり」というものがある。
「ほたるがりとはなんなのか/だれからおしえられたのか」というような「こざかしい質問」を叩きこわしてしまう「完璧なほたるがり」がある。まだ見たことがないけれど、また見たことがないからこそ、今夜見ることができるかもしれない「完璧なほたるがり」。
それはどんな「ほたるがり」か。
「地球」には「ほし」というルビがついている。地球(池井が生きている場所)が、「ほし」になって、ほたるのように飛んで行く。ほたるの群れが地球になって見える。地球とほたると星の区別がつかなくなる。
空にあるのは「ほたる」、地上にあるのは「ほし」。
放心して、そんな世界に迷い込む。「だれもしらない」ほたるがりは、そういう形で「ある」。
あ、でも、どうして池井はそれを知っているのか。
わからない。
私にわからない以上に、池井にはそれがわからない。だから詩を書く。
「わからない」けれど「ある」ものは「ある」。この「ある」を「だれもしらない」けれど、池井は「わかっている」。
「知る」と「わかる」には、「説明」しにくい違いがある。
「夕暮時は」には、こういう行がある。
「しらない」が「わかっている」のだ。
「階」には、こういう行がある。
「しらない」けれど「ある」、「だれか」が「いる」。それは「たしか」である。この「たしか」が「わかる」ということだ。
そして、「もういいかい」には、こういう行がある。
この二つを比較してみると、池井にとって「しらない」ことは重要ではない。池井が知らなくても「だれか」が「知っている」。その「だれか」に向き合うとき、「しらない」ものが「ある」ことが「わかる」。
「もういいかい」は、「だれか」を見失った詩である。
池井は、困惑している。「ある」を教えてくれる「誰か」がいないのだ。「待たされている」のである。「もういいかい」と、池井は池井を待たせている「だれか」に向かって叫んでいる。
「もういいよ」と「まあだだよ」が同時に聞こえる。
よく思い出せないが「わからない」ということばを池井はいままでに書いてきただろうか。非常に気になる。「もういいかい」は私の胸に、ずきんと響く。
*
「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
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目次
小川三郎「沼に水草」2 岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13 タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21 最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28 鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47 佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64 及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
「螢狩」という作品。その前半。
こんやはほたるがりだから
あさからこころときめいて
ごはんもおふろもうわのそら
ほたるがりとはなんなのか
だれからおしえられたのか
だれもしらないほたるがり
「だれもしらないほたるがり」に思わず傍線を引いた。
ここに書かれていることは、学校文法にしたがって読めば、「ほたるがり」とは「何か」、「ほたるがり」を「だれからおしえられたのか」を知らないということになるのかもしれないが、それをほっておいて
だれもしらないほたるがり
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こんな「誤読」をしてしまうのは、「ほたるがり」が何であるかを私は知っているからだ。「ほたるがり」というような「おしゃれなことば」を私はこどものときにつかったことはない。「ほたるをつかまえにいこう」が最初のことばであり、こども時代をすぎると「ほたるを見に行こう」になった。捕まえる(狩り)が欲望として最初にあり、あとから「見るだけ」という気取った態度にかわった。そういう自分の中で起きた変化も含めて「ほたるがり」とは何かを私は知っている。たいがいの人は知っているだろう。
「だれからおしえられたか」ということは、ちょっとむずかしい。特定できない。教えられたというよりも、なんとなく知ってしまうものである。炊いた白米を「ごはん」と呼ぶことを「誰から教えられたか」なんて、だれも知らないのと同じである。「誰から教えられたか」なんて、知る必要がない。
では、なぜ、池井は「(だれも)しらない」と書いたのか。
「しらない」けれど「ある」と言いたいのだと思う。「しらない」まま、「ある」ものはたくさんある。そして池井は「しらない」ということを「知っている」と言いたいのか。いや、そういう面倒くさいことを池井は考える人間ではない。(これは、個人的に池井を知っている私の「独断」であって、根拠はない。)
池井は、
だれもしらないほたるがり
が「ある」ことを知っている。このときの「だれもしらない」には池井も含まれる。「完璧な」といえばいいのか、だれも体験したことのない「ほたるがり」というものがある。
「ほたるがりとはなんなのか/だれからおしえられたのか」というような「こざかしい質問」を叩きこわしてしまう「完璧なほたるがり」がある。まだ見たことがないけれど、また見たことがないからこそ、今夜見ることができるかもしれない「完璧なほたるがり」。
それはどんな「ほたるがり」か。
まなこしずかにとざしたら
まんてんのほたるのあかり
とおのいてゆくあおい地球
「地球」には「ほし」というルビがついている。地球(池井が生きている場所)が、「ほし」になって、ほたるのように飛んで行く。ほたるの群れが地球になって見える。地球とほたると星の区別がつかなくなる。
空にあるのは「ほたる」、地上にあるのは「ほし」。
放心して、そんな世界に迷い込む。「だれもしらない」ほたるがりは、そういう形で「ある」。
あ、でも、どうして池井はそれを知っているのか。
わからない。
私にわからない以上に、池井にはそれがわからない。だから詩を書く。
「わからない」けれど「ある」ものは「ある」。この「ある」を「だれもしらない」けれど、池井は「わかっている」。
「知る」と「わかる」には、「説明」しにくい違いがある。
「夕暮時は」には、こういう行がある。
ゆうぐれどきは かえりたくなる
だれかがぼくを まつあそこへと
それがどこだか しりはしないが
だれがまつのか しりはしないが
「しらない」が「わかっている」のだ。
「階」には、こういう行がある。
あのなないろのきえたあたりに
だれもしらないところがあって
だれかがまっていることを
たしかにまっていることを
「しらない」けれど「ある」、「だれか」が「いる」。それは「たしか」である。この「たしか」が「わかる」ということだ。
そして、「もういいかい」には、こういう行がある。
ぼくがだれだったのかさえ
それさえももうわからない
しろいとばりのたれこめて
ここがどこかもわからない
この二つを比較してみると、池井にとって「しらない」ことは重要ではない。池井が知らなくても「だれか」が「知っている」。その「だれか」に向き合うとき、「しらない」ものが「ある」ことが「わかる」。
「もういいかい」は、「だれか」を見失った詩である。
池井は、困惑している。「ある」を教えてくれる「誰か」がいないのだ。「待たされている」のである。「もういいかい」と、池井は池井を待たせている「だれか」に向かって叫んでいる。
もういいかい
もういちどだけいってみる
もういいよ
というこえがする
しろいとばりのあちらから
まあだだよ
というささやきもする
「もういいよ」と「まあだだよ」が同時に聞こえる。
よく思い出せないが「わからない」ということばを池井はいままでに書いてきただろうか。非常に気になる。「もういいかい」は私の胸に、ずきんと響く。
*
「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
小川三郎「沼に水草」2 岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13 タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21 最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28 鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47 佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64 及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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