詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」

2018-03-10 15:10:31 | 詩(雑誌・同人誌)
近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」(「ぶーわー」39、2018年03月10日発行)

 近藤久也「暮れに、はみ出る」はローストチキンが食いたいと思い、骨つきチキンを買ってきて料理するときのことを描いている。

フライパンに油ひき
大きな骨付きチキン二個並べ焼きたいのだが
窮屈窮屈はみ出してしまう
無茶だ無理だ無茶苦茶に
知恵の輪見たく思案してたら
69にはまりこんだはめこんだ
タレつけ、こんがり焼きあげて
白地の皿に69で盛りつけて
はにかむ姿絵、シャイな抽象、シックスナイン
(ああ、おお)
乱れながら整えて
内気な欲望の
自画(自我)と自賛を密やかに盛りつける

 「窮屈窮屈」からはじまることばのリズムが、火のついたフライパンの上で悪戦苦闘している感じで楽しい。「69」を挟んで、「はまりこんだはめこんだ」がいいなあ。「はまりこんだ」のか「はめこんだ」のかわからない。
 これって、「69」のどちらが「6」で、どちらが「9」かわからないのと同じ。
 それはそのままセックスにつながる。この体位のとき、どっちが6、どっちが9? そんなことは区別しない。
 でもおかいしね。
 焼き終わったら「69」にこだわることはない。けれども「69」にこだわって皿に盛りつけている。一枚に一個の方が食べやすいんじゃない? なんて、チャチャいれたらいけないんだろうねえ。
 「69」まで書きながら、「はにかむ」「シャイ」「内気」と言いなおして「自画像」にしてしまう。「自画自賛」してしまう。
 なんでもないのだけれど、楽しい。



 和田まさ子「主語をなくす」の詩は久しぶりに読んだ。そして、ああ、つまらない、と思った。
 「壺」を「現代詩手帖」の投稿欄で読んだのは何年前だろうか。とてもおもしろかった。「金魚」の詩もおもしろかった。『わたしの好きな日』『なりたいわたし』は好きな詩集だ。だが、それ以後は知らない。
 今回の詩。

目が覚めて
夢の尻尾の色を考えない
振りきって今日の方に傾く
目の前にある余白が何を呼んでも
たじろがないでいたい
新世界はここからはじまるのだから

 「余白」は古くさい「現代詩」の流行語だ。こういうことばを好む人がいるかもしれないが、私はぞっとする。「新世界はここからはじまる」の「新」もつまらない。
 以前の和田は「新世界はここからはじまる」というような「客観」を語らず、ただ「いま/ここ」を和田しか知らないことばで語っていた。つまり、無意識に「新世界(独自世界)」をとらえていた。「新世界」と思っていなかったのかもしれない。そこが、たぶんおもしろい要因だった。
 この詩のことばは、「展開」が予測できる。その分、安定していると評価されるのかもしれないが、つまらない。

駅前に行く途中
敷石につまずき
迷い込んだ帝国の夏

 「つまずく」「迷い込む」が定型である。「帝国」もその延長である。
 なんとなく新井豊美の詩の変化を連想させる。『いすろまにあ』はとてもおもしろかった。でも、その後の作品は私はおもしろいとは思わない。
 最終行だけ

魚のように泳いでやってくる電車のなかの人になる

 と昔に書いたようなことばをつないでもねえ。
 昔の和田なら、電車の中で魚になってそのまま泳いでいただろうに、と思う。あるいは他人を魚にしてしまっていただろうと思う。「主語」をなくさずに、「主語」をまもったまま、「魚になる」というのがおもしろいところだったのに、と残念でならない。
 「主語をなくす」というような「現代詩のことばづかい」を「学習」したのが、詩をつまらなくさせている原因だ。
 もちん「主語をなくす」というような「現代詩流通語」が好きな人は、いまの和田の作品を高く評価するだろうけれど。



*


「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(26)

2018-03-10 11:01:49 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(26)(創元社、2018年02月10日発行)

 「目と耳」の一連目。

見たくないものには
目をつぶればいい
だが聞きたくないものに
耳をふさいでも音はもれてくる

 「意味」はわかるが、私はつまずく。
 「音はもれてくる」? 音は耳に入ってくる、ではないのか。目をつぶれば、目には見たくないものは入ってこない。しかし、耳を(手で)ふさいでも、大きな音は耳に入ってくる。見たくないものは「拒める」。でも聞きたくないものを「拒む」というのは、「耳(聴覚)」にはむずかしい。「対」構造で考えると、そうなる。
 私自身の「肉体」で体験できることは、そういうことである。しかし谷川は「音はもれてくる」と書く。
 うーむ。
 これは、「音」が「もれてくる」というよりも、「聴覚」が「肉体(耳)」の中から外へ出ていって(もれて)、「音」そのものをつかんでしまうということなのか。もしそうだとすると、「視覚」についても谷川はそう考えているのかもしれない。「視覚」が「肉体(目)」のの中外へ出て言って対象をつかんでしまう。
 「目をつぶればいい」には、「目をつぶれば、見たくないものは目に入ってこない」とは書かれていない。ふつうはそう考えるが、谷川は「目をつぶれば、見たくないものの方へ視覚(目)はもれていかない」と考えているのではないのか。
 「世界」が見える、聞こえる。それは「世界」が自分の「肉体」のなかに入ってくるからではなく、自分の「肉体」のなかにあるものが、「肉体」の外へ出ていって、「世界」と出会う。「見る/聞く」は「肉体」の拡張である。「見えたもの/聞こえたもの」、その「接点」までが「肉体」である。こう考えているのではないだろうか。
 私は、実は、そう考えている。だが、それをどういう「動詞」を使えば言い表わすことができるのか、いままで思いつかなかった。谷川の「耳をふさいでも音はもれてくる」という一行、その「もれてくる」という「動詞」に出合い、そうか、こういうことだったのか、と気づいた。
 ここから、二連目をつづけて読んでみる。

はるか上空のドローンは
暴力を映像に変換して地上に送る
だが破壊の音をドローンは聞かない
ヒトの断末魔の呻きも

 ドローンはカメラを搭載している。カメラは「肉体」の延長である。「視覚」が「肉体」を抜け出し、はるか上空までのぼり、そこから地上を見つめる。それを「映像」にして地上に送ってくる。
 「音」についても高性能のマイクを搭載すれば、収集が可能かもしれない。必要な音だけを「拡大」し収集するマイクというものができれば、「映像」と同じように「音声」を地上に送ってくることが出きるはずだ。「聴覚」については、科学がそこまで追いついていないだけなのだろう。
 この二連目の「映像」を「目(視覚)」、「音」を「耳(聴覚)」と読み直すと、ドローンが「肉体」を拡張したものであり、拡張した「肉体」を利用して世界をとらえようとしていることがわかる。「地上」とは「自分本来の肉体(拡張される前の肉体)のことである。

はるか上空のドローン(拡張された肉体)は
はるか遠くにある暴力を「拡張された目(視力)によって」見ることができる
だが破壊の音を「拡張された耳(聴力)」は聞くことができない(耳は、まだ拡張されていない)
ヒトの断末魔の呻きも「拡張された耳(聴力)」は聞くことができない(耳は、まだ拡張されていない)

 そして、ここには、もうひとつ注目しなければならないことが書かれている。谷川は「音」を「爆発音」と「呻き(声)」と二種類にわけて書いている。「爆発音」は大きい、「呻き」は小さい。大きいものは遠くからでも認識できる。小さいものは近くに行かないと気づかない。これは聴覚(耳)だけではなく視覚(目)にも当てはまることである。
 「視覚(目)」の方は高性能カメラ(拡張された肉体)によって、この対象との「遠近」の問題を克服しているかのように見える。二連目では。
 でも、それは錯覚かもしれない。そのことが三連目に書かれている。

テレビが毎日映しだす数えきれない顔
その腹の中はカメラでは見えない
秘密の囁きも聞こえない
一瞬で金を運ぶ電子の素早い動きも

 カメラ(拡張された視力)であっても「腹の中」は見えない。胃カメラとから、内視鏡というものもあるが、それはこの詩に書かれている「腹の中」ではなく、「生理的、物理的な肉体の内部」を見るだけのものである。
 簡単に言えば「こころ」が見えない。
 その「こころ」を「腹の中」と「肉体」を指し示すことばで言いなおしているところが、とてもおもしろい。
 「こころの変化(こころの中)」は表情になって顔に表れることがある。だから、それは「カメラ」を通して見ることができるともいえるけれど、それがほんとうに「こころの中」かどうかはわからない。「見えない」というしかないものになる。
 「秘密の囁き」は、聞こえないように発する「声」である。
 「こころの中」には、同じように、見えないように隠している「表情」がある。
 「隠している」ものがある。それは見えない、聞こえない。
 けれども、それは「もれる」こともある。
 ここで私は、突然一連目に引き戻される。「もれる」という「動詞」と「肉体」の関係へ引き戻される。
 「視覚/聴覚」は「肉体」の外へ出てゆき、「世界」をつかむ。「こころ」もまた「肉体」のい外へ出てゆき「世界」になる。「視覚/聴覚」というものは「こころ」と同じように、ある「動き」を語るためにある「便宜上のことば」であって、「実体」ではない。見たり聞いたり、感動したり不安になったりということは「日常的」なことなので「視力/聴力/こころ」というものは「もの」のように「ある」と思ってしまうが。
 「視覚/聴覚/こころ」は「ある」にはあるが、その「ある」はあいまいだ。「ある」けれど「ない」ようにも動く。「ない」ように装う(隠す)こともできる。逆に「ある」を強調することもできるだろうなあ。

 あ、私は、何を書いているのかなあ。
 最初に書こうと思ったこととは少しずつずれてきている感じがする。書きながら考え、考えながら書くので、どうしてもずれてくるのである。

耳を疑え 目を信用するな
たとえそれが自分のものであっても
音楽にすら時に嘘がある 偽善がある
聞こえない見えない魂を失くすな!

 「耳を疑え 目を信用するな」の「耳」は「耳で聞いたもの(音)」、「目」は「目で見たのも(映像)」と言いなおすことができる。つまり、「音を疑え 映像を信用するな」である。谷川は「目」と「映像」、「耳」と「音」を入れ替え可能なものとして書いている。自分の「肉体」を起点にするとき「耳と目」になり、「肉体の外」(拡張された肉体)を起点にするとき「音と映像」になる。
 二行目は、「たとえそれが自分の耳、目であっても」あるいは「自分の耳で聞き、自分の目であっても」、つまり「体験したものであっても」という意味であると同時に、「自分からもれたもの(出ていったもの)であっても」になる。言い換えると、自分で「視覚化したもの(描いたもの)」、自分で「音(ことば)にしたもの」であっても、ということである。
 「音楽にすら時に嘘がある 偽善がある」なら、詩(自分で発したことば、音)にも嘘があり、偽善があるかもしれない。
 それを「疑え」「信用するな」と谷川は書いている。
 ここに書かれている「音楽」は、谷川がいちばん信用しているもののことである。音楽は人間がつくりだしたもの。最高の存在だけど、そこには「嘘」「偽善」がないとは言い切れない。

 ふーむ。

 最後の一行、「聞こえない見えない魂を失くすな!」に、私はもう一度つまずく。谷川に限らず、多くの人が「魂」ということばをつかうが、私は、これがわからない。私は「魂」が存在するとは思えない。考えることができない。
 「こころ」も実は「耳」「目」のように、これが「こころ」と指し示す形では存在が「ある」とはいえない。「視覚/聴覚/こころ」などは、「動き」をあらわす便宜上のことば(方便)だと思っている。「こころ」「魂」と、二つに分けていう必要性を感じない。私の周辺(親、兄弟)では、だれも「魂」ということばをつかわなかったということも原因かもしれない。なじめないのである。
 「耳をふさいでも音はもれてくる」も、最初はなじめなかった。でも、ことばを動かしていると「なじめる」ものになる。というか、これが正しいと思う。「魂」は、しかし、どうしてもなじめない。
 だから、ここでは「魂」を、それが何なのか特定しないままに読む。

聞こえない見えない「何か」を失くすな!

 と読む。「聞こえない」「見えない」のだから、それは「特定」できない。「何か」としか言いようのないものである。「聞こえない」「見えない」は、しかし「何か」が「ない」ということではない。「ある」。けれども「聞こえない」「見えない」。
 このとき、それは何にとって「聞こえない/見えない」なのか。「主語」は何なのか。谷川の書いていることばをつかえば「魂」になるのだろうけれど。
 「主語」を「どこに」、「いつ」と言い換えると、どうなるだろう。「きこえない見えない何か」は「どこに」「いつ」あるのか。「私という肉体」の「外」にあるのか「内」にあるのか。「私」という存在が「肉体」を超えて、「外/内」の区別のないものなら、「私と一緒に」「ここに/いま」と言いなおすことができる。
 「私と一緒に」「ここに/いま」「ある」。そのまだことばになっていないものを「失くすな」と言っている。
 これでは抽象的すぎる。ことばが、ただ、ことばを追いかけて動いているだけだ。
 「聞こえない」「見えない」は、この詩の中で、どうつかわれていたか。「動詞」に戻って読み直さないといけない。どう、つかわれていた。

その腹の中はカメラでは見えない
秘密の囁きも聞こえない

 「腹の中」「秘密」は「見えない」「聞こえない」。「魂」とは、「腹の中」であり「秘密」なのだ。「腹の中」や「秘密」を「失くすな」と谷川は言っていることになる。
 抽象的(哲学的?)なことではなく、とても「現実的」な「処世訓」としてもよむことができるのだ。

 「私と一緒に」「ここに/いま」「ある」には「聞こえない見えないもの(腹の中の秘密)」のほかに「見たくない」「聞きたくない」ものがある。これは一連目に書いてあったなあ。この一連目と最終連の一行は、どういう関係にあるのだろうか。
 「聞こえない見えない何か/言いたくない何か(腹の中の秘密)」を守るために「見たくない」「聞きたくない」と思うのかもしれない。「言いたくない何か(腹の中の秘密)」を「失くさない」ために目をつぶり、耳を塞ぐ。
 そのとき。
 では、「もれていく」のは何だろう。
 目をつぶれば視界は「暗闇」。真っ暗。無。耳を塞げば、理想的には「無音」。静けさ。沈黙。
 「音はもれてくる」ではなく、「沈黙」がもれてくる。そのもれた「沈黙」の「場」を「音」が塞ぎに来る、ということかもしれない。
 そうであるなら、「聞こえない見えない魂を失くすな!」は「沈黙と闇」を失くすな、ということになる。
 (あ、ここからは、また「抽象」だなあ。疲れてくると、ことばは抽象へ傾く。)
 「沈黙」は「音楽」と固く結びついている。「沈黙」が「音楽の嘘/偽善」をあばくのかもしれない。「沈黙」が一緒に存在しない音楽は嘘である。

 「抽象」ついでに、さらに考えてみる。
 「聴覚がもれる」を「沈黙がもれる」と言いなおせるのならば、「視覚がもれる」は何と言えるだろうか。「沈黙」に相当するのは「闇」だが、「闇」がもれだせば世界は暗くなり、何も見えない。だから「視覚(目)」からもれだすのは「闇」ではなく「光」になるかもしれない。いや、そうではなくて、「闇」がもれだして、その空いた部分に「光」は入ってきて、それが「映像」になる。
 やっぱりだめだ。
 だんだんわからなくなってきた。
 目も痛くなり、考えるのが苦痛になってきた。
 「肉体」のなかから何かが出て行く。かわりに何かが入ってくる。そういう「交渉」が、たぶん生きるということなのだろう。
 と、書いて、きょうの感想を閉じておく。


*


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マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
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「一般人」とは?

2018-03-10 07:32:21 | 自民党憲法改正草案を読む
「一般人」とは?
             自民党憲法改正草案を読む/番外184(情報の読み方)

 2018年03月10日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の3面。森友学園文書問題をめぐり、佐川国税庁長官が辞任した。その関連記事の見出し。

森友 幕引き遠く/文書書き換え 曖昧なまま

 そのなかに、こういう部分がある。

政府・与党としては、辞任で佐川氏が一定の責任を負うことで、野党の(国会)招致要求を少しでもかわしたい思惑がある。自民党の森山裕国会対策委員長は9日夜、「(佐川氏は)一般人になったので(招致は)難しくなった」と語った。

 「難しくなった」のではなく「難しくさせる」ために辞任させたのだろう。「思惑」どころのことではない。
 それにしても。
 「一般人」とはなんだろうか。「一般人になった」ということは、どういうことだろうか。
 今後、佐川は「元国税庁長官」「財務省出身」というような「肩書」をいっさいつかわないということだろうか。今後の就職活動をするとき、ハローワークの「求職票」には、どう書くのだろうか。「減給処分を受けた」と書くだろうか。「一般人」と同じように、求職活動をするとは思えない。
 「元国税庁長官」という肩書をいかして就職活動をし、またその肩書ゆえに採用されるのだとしたら、「一般人」とはほど遠いだろう。
 どうして証人喚問ができないのだろうか。
 さらに、森友学園のもう一方の籠池の方はどうなのか。「森友学園理事長」という「肩書」があったから「一般人」にはあたらないのか。どの「肩書」から「一般人」と「一般人ではない人」の区別があるのか。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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アマゾンや一般書店では購入できません。
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松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
問い合わせは
yachisyuso@gmail.com


憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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