詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スティーブン・スピルバーグ監督「未知との遭遇」(★★★★★)

2019-04-11 20:50:24 | 午前十時の映画祭
スティーブン・スピルバーグ監督「未知との遭遇」(★★★★★)

監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 リチャード・ドレイファス、フランソワ・トリュフォー

 「午前10時の映画祭 10」のオープニング作品。(「ジョーズ」の映画館もある。)
 この映画で見たいシーンは、ただひとつ。巨大な宇宙船が山を越えて姿を現わす。船体を飾る光が美しい。「満天の星」を凝縮し、色をつけた感じ。それだけでも驚くが、その宇宙船が着陸するとき、船体の天地がひっくりかえる。最初に見たときは、椅子に座ったまま自分が後ろへデングリ返ったんじゃないか、と思うくらいのけぞってしまった。何度見ても、びっくりする。
 そうだよなあ。宇宙は「無重力」。天地も左右も関係ない。
 「レ・ミ・ド・ド・ソ」の音楽をつかった交流も大好きだなあ。音楽のなかにある「数学」(アルキメデスだったっけ、現在の音階を確立したのは)が和音になってかけゆけてゆく。もしモーツァルトがこの映画を見たら、どんな音楽を生み出すだろうと、とても気になる。
 この映画に「不満」(物足りないもの)があるとするなら、この音楽の交流に「素人(一般人)」がからんでくる要素が少ないこと。幼いバリーが唯一、木琴で音楽を再現するけれど、主役のリチャード・ドレイファスたちはみんな「山のイメージ」にひきつけられてやってくる。一種の「テレパシー」のようなものの働きなんだろうけれど、これって受け止める方は「イメージ」としてわかるのだけれど、周りにいる人にはわからない。「音楽」は「頭」のなかにあるだけではなく、耳に聞こえるものとして「頭」の外にも存在する。(バリーは、インドのひとたちのように直接聞いたのではなくテレパシーで聞いたのかもしれないが)
 見えないものが存在し、その存在と「音楽」をとおして交流する。その「愉悦」。それに導かれて山を目指してやってくる人がからむと、もっとおもしろくなると思う。科学者が「音楽」を計算して交流するのではなく、化学とは縁のない「素人」が「数学」を頼りに分析するのではなく、耳の直感で交流する、という具合に展開すると、わくわく、どきどきは、うーん、エクスタシーになるぞ。

 で、突然、話題を変えるが。
 スピルバーグが「ウエストサイド」を撮るとか。どうなるかなあ。歌と踊り。その官能がスクリーンを突き破るか。
 スピルバーグは、映像そのものに「愉悦」があるが、音楽はどうなんだろう。音楽が印象に残る映画を思い出せない。「太陽の帝国」の少年の歌について、私は何か書いた記憶があるが、ほかに何かあるだろうか。
 「リンカーン」は「声のドラマ」という印象がある。
 「音楽」が「主体」となって映画をリードしていくというのはないような気がする。

 で。
 映画にもどるが、あとはあまり書くこともない。リチャード・ドレイファスの「こどもっぽい」肉体感覚が、ある意味ではこの映画を支えている。フランソワ・トリュフォーも肉体が小ぶりで、そうか、この映画は「こども(の感性)」が主役、純粋なこころが「未知」を体験できるという映画なのか、とあらためて思った。
 山の箱庭(?)はつくれないけれど、シェービングクリームで山をつくるシーンはまねした記憶があるなあ。映画で見たことを、そのままやってみたい、というのはいい映画の「証拠」のようなもの。「映画ごっこ」のよろこびがあるね。

 (午前10時の映画祭、2019年04月09日、中州大洋3)



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池澤夏樹のカヴァフィス(113)

2019-04-11 08:26:55 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
113 彼は読もうとした

彼は読もうとした。歴史家や詩人の本など、
二、三冊が開いて置かれていた。
しかし読書はせいぜい十分しか続かなかった。
そこで諦め、ソファーで眠りに落ちた。

 こうはじまる詩に、池澤は、

激しい官能の午後を過ごした美青年の夜の一シーン。

 と註釈している。どうも納得がいかない。詩の後半は、こうである。

その日の午後、エロスが
彼の理想の肉体を、その唇を
通り過ぎて行った。
エロスの熱が愛の肉体を通り過ぎた、
快楽の形についての愚劣なためらいなど知らぬ顔で。

 池澤は、午後のことを思い出していると読んでいるのだが、カヴァフィスは時系列通りに書いているのではないだろうか。
 朝、あるいは昼飯後かもしれないが、読書しようとしたが、続かず昼のうたた寝をしてしまった。そのあと、エロスを体験した。街へ出かけたのか、だれか訪ねてきたのか。
 夢のなかから、あるいは本のなかから、だれかが抜け出してきたのかもしれない。
 それは「現実の人間」というよりも、そこに描写されていた「人間の行為」が抜け出してきたのである。本に書いてある通りに、青年は、伝統のエロスを味わった。いや、味わったというのは違うか。だれかが本に書いてある通りに青年を味わった。だれかの官能が通り過ぎた。青年はだれかが与えてくれたものに酔った。
 この「午後の夢」は夜の夢よりも官能的だ。
 池澤は、

このような情景の切り取りかたに映画芸術の影響を読み取るのは無理だろうか?

 と書いている。「映画」というよりも、「メタ文学」だろうと思う。本に書かれていることが現実になり、その現実が再びカヴァフィスの手によって詩にもどっていく。
 映画的なのは、カヴァフィスよりも、もうひとりのギリシャの詩人、リッツォスだろうと私は思う。



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