詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジャンニ・アメリオ監督「ナポリの隣人」(★★★★)

2019-04-09 19:14:07 | 映画
ジャンニ・アメリオ監督「ナポリの隣人」(★★★★)

監督 ジャンニ・アメリオ 出演 レナート・カルペンティエリ、ジョバンナ・メッツォジョルノ、ミカエラ・ラマゾッティ

 「ナポリの街はナポリで生まれ育った人しか受け入れない」というようなセリフが映画のなかに出てくるが、これはイタリアのすべての都市について言えるかもしれない。私はローマとフィレンツェ以外は行ったことがないので、映画を見た感じや聞きかじりのことをつなぎ合わせての印象に過ぎないのだが。和辻哲郎がシスティナ礼拝堂の天井画、壁画について、こんなにたくさん描いて、それが混乱しないのは、ローマ帝国が各都市の政治を各都市にまかせた(独立自治)ということと関係があるかもしれない、というようなことを書いていたのを思い出す。
 人と人との関係、干渉と不干渉の関係が「独立自治」ということばと結びついて迫ってくる。「わがまま」のあらわし方が、フランスやイギリスとは違うなあ。フランスではどんなときでも自己主張した方が勝ち。自己主張できない人間は個性を欠くので人間として評価されない。イギリスではどんなこともことばにしない限り存在したことにならない。イタリアでは他人には口出ししない。
 で、この映画。
 他人には口出ししない、とはいうものの、家族って、他人? それとも他人を超えるつながり? 「兄弟は他人のはじまり」と日本の諺では言うが。親子は? つながりを求めながら、つながりを拒否されたときは、どうするか。拒絶したいのに、つながりを要求されたときはどうするか。干渉/不干渉のバランスが、とても生々しい。
 これは冒頭のシーンに象徴的に語られる。シングルマザーの女性が法廷通訳をしている。被告の言っていることを通訳するのが仕事だが、通訳の領域を踏み出して、知っていることを証言しようとする。すると、裁判官が「通訳だけしなさい」と命じる。裁判官の判断に干渉するな、ということだ。仕事としてはそれで充分なのだが、女性は、割り切れない。「真実は何?」
 ひとはだれでも「真実」を知りたい。でも、その「真実」は「個人的問題(わがままの問題)」として不干渉を求められることがある。干渉することで、「真実」が違う様相を持つことがあるということか。「他人真実」に影響を与えてしまうことがある。「他人の真実」をどこまで尊重しながら、同時に自分の「真実」を守るか。逆に言うと、どうやって「嘘」をつくか。「嘘」のなかにある「真実」、「嘘」をつくことでしか守れないことをどうやって他人に伝えるか。
 とてもむずかしい。
 この映画では、最後に「嘘」が二つ出てくる。
 法廷通訳をしている女性が父の昔の愛人の家を訪ねていく。「父が行方不明だ。ここに来ていないか、来たことがないか」。愛人は「何も知らない。男が死んだとしても知らせてくれるな」と言う。愛人は父親に会っている。「嘘」をついたのだ。
 もう一つ。通訳をしているとき、父親が裁判所に現れる。娘はアラブ系の被告の通訳をしながら、被告の語ったことばではなく、自分の思っていることを語る。「裁判所にきたのは、初めてだ」。これは被告のことではなく、傍聴している父親のことである。「三日間、彼を街を探し回った」。これは娘が父を探し回った、ということであり、被告のことばではない。けれど、被告がそう証言しているとも受け取ることができる。そして、知っている詩をつけくわえる。これは、被告のことばではないだろう。
 この瞬間、父と娘のこころが響きあう。つながる。
 それはミケランジェロの絵が、枠のようなもので仕切られながら(ブロックごとに独立しながら)、全体として一つの世界になるのと似ている。

 映画のテーマとしては、イーストウッドの「運び屋」に似ているものもあるのだが、人間と人間の関係の描き方が、あまりにもイタリア的ということになる。ローマ帝国的といえばいいのか。アメリカでは「不干渉」を「愛情がない」と言い切ってしまう。責められた方も「愛情がなかった」と反省し、決着するというか、一種のハッピーエンドへと収斂するが、「不干渉」を前提とする国では、そう簡単にはことが運ばない。
 あ、ここから感想を書き始めればよかったかな、といま思うが、書き直してもしようがない。たぶん、ここまで書かないと思いつかなかったことなので、書き直すと違ったものになる。
 映画は映画だけれど、なんともいえず「文学(小説)」っぽい作品で、岩波で上演された理由も、そこにあるかもしれない。「小説」を書くときの参考になるようなシーンの連続だった。主演のレナート・カルペンティエリはイタリアの映画の主演賞をいろいろ取ったようだが、こういうつらい演技はイタリア人にもむずかしいとういことか。
 (2019年04月06日、KBCシネマ2)
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池澤夏樹のカヴァフィス(111)

2019-04-09 00:00:00 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
111 ニコメディアのユリアヌス

 私は歴史には関心がないので、ユリアヌスのことは何も知らない。カヴァフィスは、なぜユリアヌスに関心を持ったのか。

分別を欠く危険なふるまいだ--
ギリシャの理想や超自然の魔法などを
讃え、異教徒の神殿に参り、
古代の神々に熱狂し、
クリサンティウスなどと頻繁に語り合い、
明敏なる哲学者マクシムスと思索にふける。

 ユリアヌスというよりも、クリサンティウス、マクシムスに関心があったのか。カヴァフィスは、彼らのことばを読んだのだろうか。
 ユリアヌスがギリシャに関心を持ったということ以上に、彼の「思想」がふらふらしていることに興味を持ったのではないか。ギリシャに溺れる(?)ことをいさめられたユリアヌス。彼がどうしたかを、詩の後半は簡潔に描いている。 

そこでユリアヌスは朗唱役として
再びニコメディアの教会に赴いた。
そこで、聖なる書物の文章を
心を込めて敬虔に読み上げる。
人々はみな彼のキリスト教への熱意に感動する。

 ユリアヌス個人のなかにおける「裏切り」。自分自身に対する「裏切り」。ほんとうにしたいのは何か。そのしたいことをしないで生きるという瞬間がある。そういうとき、ひとは弱いのか、強いのか。変節するから弱いというのが普通の考え方かもしれないが、変節をかかえこんで生きる強さをもっているとも言うこともできる。「論理」とは、めざす結論のためなら、どんなふうにでもことばを動かしてしまうものだ。
 でも、詩は違うだろうなあ。
 「論理」をほうりだして、矛盾を矛盾のまま抱え込むことができる。矛盾を指摘されたら、「論理の整合性(論理の完結)」をめざしていないと開き直れるのが詩だ。

 池澤はいくつも註釈をつけているが、どの註釈も、註釈がないと私にはわからない類のものである。引用は省略する。




カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
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