ジャンニ・アメリオ監督「ナポリの隣人」(★★★★)
監督 ジャンニ・アメリオ 出演 レナート・カルペンティエリ、ジョバンナ・メッツォジョルノ、ミカエラ・ラマゾッティ
「ナポリの街はナポリで生まれ育った人しか受け入れない」というようなセリフが映画のなかに出てくるが、これはイタリアのすべての都市について言えるかもしれない。私はローマとフィレンツェ以外は行ったことがないので、映画を見た感じや聞きかじりのことをつなぎ合わせての印象に過ぎないのだが。和辻哲郎がシスティナ礼拝堂の天井画、壁画について、こんなにたくさん描いて、それが混乱しないのは、ローマ帝国が各都市の政治を各都市にまかせた(独立自治)ということと関係があるかもしれない、というようなことを書いていたのを思い出す。
人と人との関係、干渉と不干渉の関係が「独立自治」ということばと結びついて迫ってくる。「わがまま」のあらわし方が、フランスやイギリスとは違うなあ。フランスではどんなときでも自己主張した方が勝ち。自己主張できない人間は個性を欠くので人間として評価されない。イギリスではどんなこともことばにしない限り存在したことにならない。イタリアでは他人には口出ししない。
で、この映画。
他人には口出ししない、とはいうものの、家族って、他人? それとも他人を超えるつながり? 「兄弟は他人のはじまり」と日本の諺では言うが。親子は? つながりを求めながら、つながりを拒否されたときは、どうするか。拒絶したいのに、つながりを要求されたときはどうするか。干渉/不干渉のバランスが、とても生々しい。
これは冒頭のシーンに象徴的に語られる。シングルマザーの女性が法廷通訳をしている。被告の言っていることを通訳するのが仕事だが、通訳の領域を踏み出して、知っていることを証言しようとする。すると、裁判官が「通訳だけしなさい」と命じる。裁判官の判断に干渉するな、ということだ。仕事としてはそれで充分なのだが、女性は、割り切れない。「真実は何?」
ひとはだれでも「真実」を知りたい。でも、その「真実」は「個人的問題(わがままの問題)」として不干渉を求められることがある。干渉することで、「真実」が違う様相を持つことがあるということか。「他人真実」に影響を与えてしまうことがある。「他人の真実」をどこまで尊重しながら、同時に自分の「真実」を守るか。逆に言うと、どうやって「嘘」をつくか。「嘘」のなかにある「真実」、「嘘」をつくことでしか守れないことをどうやって他人に伝えるか。
とてもむずかしい。
この映画では、最後に「嘘」が二つ出てくる。
法廷通訳をしている女性が父の昔の愛人の家を訪ねていく。「父が行方不明だ。ここに来ていないか、来たことがないか」。愛人は「何も知らない。男が死んだとしても知らせてくれるな」と言う。愛人は父親に会っている。「嘘」をついたのだ。
もう一つ。通訳をしているとき、父親が裁判所に現れる。娘はアラブ系の被告の通訳をしながら、被告の語ったことばではなく、自分の思っていることを語る。「裁判所にきたのは、初めてだ」。これは被告のことではなく、傍聴している父親のことである。「三日間、彼を街を探し回った」。これは娘が父を探し回った、ということであり、被告のことばではない。けれど、被告がそう証言しているとも受け取ることができる。そして、知っている詩をつけくわえる。これは、被告のことばではないだろう。
この瞬間、父と娘のこころが響きあう。つながる。
それはミケランジェロの絵が、枠のようなもので仕切られながら(ブロックごとに独立しながら)、全体として一つの世界になるのと似ている。
映画のテーマとしては、イーストウッドの「運び屋」に似ているものもあるのだが、人間と人間の関係の描き方が、あまりにもイタリア的ということになる。ローマ帝国的といえばいいのか。アメリカでは「不干渉」を「愛情がない」と言い切ってしまう。責められた方も「愛情がなかった」と反省し、決着するというか、一種のハッピーエンドへと収斂するが、「不干渉」を前提とする国では、そう簡単にはことが運ばない。
あ、ここから感想を書き始めればよかったかな、といま思うが、書き直してもしようがない。たぶん、ここまで書かないと思いつかなかったことなので、書き直すと違ったものになる。
映画は映画だけれど、なんともいえず「文学(小説)」っぽい作品で、岩波で上演された理由も、そこにあるかもしれない。「小説」を書くときの参考になるようなシーンの連続だった。主演のレナート・カルペンティエリはイタリアの映画の主演賞をいろいろ取ったようだが、こういうつらい演技はイタリア人にもむずかしいとういことか。
(2019年04月06日、KBCシネマ2)
監督 ジャンニ・アメリオ 出演 レナート・カルペンティエリ、ジョバンナ・メッツォジョルノ、ミカエラ・ラマゾッティ
「ナポリの街はナポリで生まれ育った人しか受け入れない」というようなセリフが映画のなかに出てくるが、これはイタリアのすべての都市について言えるかもしれない。私はローマとフィレンツェ以外は行ったことがないので、映画を見た感じや聞きかじりのことをつなぎ合わせての印象に過ぎないのだが。和辻哲郎がシスティナ礼拝堂の天井画、壁画について、こんなにたくさん描いて、それが混乱しないのは、ローマ帝国が各都市の政治を各都市にまかせた(独立自治)ということと関係があるかもしれない、というようなことを書いていたのを思い出す。
人と人との関係、干渉と不干渉の関係が「独立自治」ということばと結びついて迫ってくる。「わがまま」のあらわし方が、フランスやイギリスとは違うなあ。フランスではどんなときでも自己主張した方が勝ち。自己主張できない人間は個性を欠くので人間として評価されない。イギリスではどんなこともことばにしない限り存在したことにならない。イタリアでは他人には口出ししない。
で、この映画。
他人には口出ししない、とはいうものの、家族って、他人? それとも他人を超えるつながり? 「兄弟は他人のはじまり」と日本の諺では言うが。親子は? つながりを求めながら、つながりを拒否されたときは、どうするか。拒絶したいのに、つながりを要求されたときはどうするか。干渉/不干渉のバランスが、とても生々しい。
これは冒頭のシーンに象徴的に語られる。シングルマザーの女性が法廷通訳をしている。被告の言っていることを通訳するのが仕事だが、通訳の領域を踏み出して、知っていることを証言しようとする。すると、裁判官が「通訳だけしなさい」と命じる。裁判官の判断に干渉するな、ということだ。仕事としてはそれで充分なのだが、女性は、割り切れない。「真実は何?」
ひとはだれでも「真実」を知りたい。でも、その「真実」は「個人的問題(わがままの問題)」として不干渉を求められることがある。干渉することで、「真実」が違う様相を持つことがあるということか。「他人真実」に影響を与えてしまうことがある。「他人の真実」をどこまで尊重しながら、同時に自分の「真実」を守るか。逆に言うと、どうやって「嘘」をつくか。「嘘」のなかにある「真実」、「嘘」をつくことでしか守れないことをどうやって他人に伝えるか。
とてもむずかしい。
この映画では、最後に「嘘」が二つ出てくる。
法廷通訳をしている女性が父の昔の愛人の家を訪ねていく。「父が行方不明だ。ここに来ていないか、来たことがないか」。愛人は「何も知らない。男が死んだとしても知らせてくれるな」と言う。愛人は父親に会っている。「嘘」をついたのだ。
もう一つ。通訳をしているとき、父親が裁判所に現れる。娘はアラブ系の被告の通訳をしながら、被告の語ったことばではなく、自分の思っていることを語る。「裁判所にきたのは、初めてだ」。これは被告のことではなく、傍聴している父親のことである。「三日間、彼を街を探し回った」。これは娘が父を探し回った、ということであり、被告のことばではない。けれど、被告がそう証言しているとも受け取ることができる。そして、知っている詩をつけくわえる。これは、被告のことばではないだろう。
この瞬間、父と娘のこころが響きあう。つながる。
それはミケランジェロの絵が、枠のようなもので仕切られながら(ブロックごとに独立しながら)、全体として一つの世界になるのと似ている。
映画のテーマとしては、イーストウッドの「運び屋」に似ているものもあるのだが、人間と人間の関係の描き方が、あまりにもイタリア的ということになる。ローマ帝国的といえばいいのか。アメリカでは「不干渉」を「愛情がない」と言い切ってしまう。責められた方も「愛情がなかった」と反省し、決着するというか、一種のハッピーエンドへと収斂するが、「不干渉」を前提とする国では、そう簡単にはことが運ばない。
あ、ここから感想を書き始めればよかったかな、といま思うが、書き直してもしようがない。たぶん、ここまで書かないと思いつかなかったことなので、書き直すと違ったものになる。
映画は映画だけれど、なんともいえず「文学(小説)」っぽい作品で、岩波で上演された理由も、そこにあるかもしれない。「小説」を書くときの参考になるようなシーンの連続だった。主演のレナート・カルペンティエリはイタリアの映画の主演賞をいろいろ取ったようだが、こういうつらい演技はイタリア人にもむずかしいとういことか。
(2019年04月06日、KBCシネマ2)