詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(118)

2019-04-16 08:27:25 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
118 その人生の二十五年目に

 偶然会った男のことが忘れられずに、「彼は足肢しげく」男に会った場所へ「三週間」通い続ける。しかし、誰も男のことを知らない。

願望で心はほとんど病気のよう。
あの口づけがまだ唇の上に残っている。
何よりも、彼の肉体は無限の欲望に苦しめられた。

 自分自身のことを「彼」と呼び、客観化して書こうとしている。しかし、それが三連目に来て崩れる。

自分の思いを外に漏らそうとは思わない。
しかし時にはもうどうでもいいという気になる。
自分がどういうことになっているのかはわかっている。
それは受け入れるしかない。ことが知れたら
この醜聞は身の破滅を招くとしても。

 ギリシャ語の原典はどうなっているかわからないが、ここには「彼」はいない。「主語」は「自分」に変わっている。この変化がとてもおもしろい。切実だ。「しかし時にはもうどうでもいいという気になる」という思いは、主人公の思いとは逆に、「自分の外に」にもう漏れてしまっている。

 この詩に対して、池澤は、とても興味深い註釈を書いている。

短編小説ならば帰結まで書かねばならないが、詩ではこの男の煩悶だけで一つの情景として完成する。

 「短編小説」には「帰結」が必要なのか。そして、この詩の姿(三連目)は「帰結」ではないのか。
 「醜聞」がばれて主人公が破滅すること、あるいは醜聞はばれず主人公が男と再会するというハッピーエンドが「帰結」なのか。何が起きようと、人生に「帰結」などないだろう。死んだって、終わらない。「短編小説」ではないが、鴎外の「渋江抽斎」は、鴎外が追いかけていた抽斎が途中で死んでしまったあとも、ことばの運動はその後も延々とつづいていく。抽斎が死んでも、ことばのなかで生きている。
 「ことば」に「完結」などない。あるいは逆に、「ことば」はいつでも「完結」する。「情景」は情景として、「煩悶」は煩悶として「完結」し、その世界へ読者を引き込む、。


カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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