山本育夫『ボイスの印象』(2)(書肆・博物誌、1984年09月10日発行)
山本育夫『ボイスの印象』の感想のつづき。
きのうは「初版本」への印象を書きすぎた(かもしれない)。でも、書きたいことを書いてしまわないと、ことばは動いてくれない。
詩集のタイトルにもなっている「ボイスの印象」を読む。(35年前に読んだときは何を考えたか、ぜんぜん思い出せない。どこかで感想を書いたかもしれないけれど、それも思い出せない。)
「ボイスの印象」。詩集には「Impression Joseph Beuys 」とある。正確には「ジョセフ・ボイスの印象」ということか。私は、このひとのことを知らない。ネットで見れば何か載っているだろうが、そういうものを見たところで(読んだところで)、結局何もわからないだろう。そこには「他人が書いた要約」があるだけで、「要約」を通して、私の感想が動くわけではない。わからないままに、山本が書いていることばを手がかりにボイスについて考える。
というのは、たぶんボイスの作品を見て、誰かがそう言ったのだ。絵か、写真か、彫刻か。あるいは小説、詩ということも考えられるが、私は彫刻を想像した。
で、想像すると同時に、「ボイスの印象」というのは、もしかするとボイスの作品に対する印象ではなく、それについて語った「声(ボイス)」に対する印象かもしれないとも思った。
一行目に続いて、二行目の頭に「声」が出てくる。さらにその声は「変声」と言いなおされている。何かを主張したいとき、声のトーンが変わる。その変化にうながされて、山本は彫刻の「くるぶし」、「指し示された」ところを見たのだろう。
指し示されて、ふと「むりやりみせつけられてきたな」(指し示されたものを見るように強制されてきたな)と「過去」を思い出している。
人の意見(声)を聞くと、何事かを知らされる。刺激を受けて自分の「印象」が変わったりする。ある時は「膨らみ」、ある時は「痩せる」。それは自分の意見か、それとも「作品の見え方」か。まあ、考えてもしようがない。
いっしょに作品を見ている人と(何人いるかわからないが)、昼食へ行く。そのレストラン(?)では「カタカナの多い放送」が流れていた。内容ではなく、「カタカナ」だったことを覚えている。これは、私が山本の「初版本」を「ザラ紙」と「活版活字」と記憶しているようなもので、どうでもいいことだが、そのどうでもいいことの方がたぶん重要なのだ。
それからどういうわけか道端の石をどけて、地下水を見る。ほんとうかな? 用水路でも見たのを、言い換えたのかもしれない。水を見て、ちょっと気分が変わる。「昼飯」は「かさかさ」していた。水を見て「うるおった」。気分の変化だ。
それからタクシーに乗った。ひとりで? それともA氏と? まあ、どうでもいい。「三丁目まで」は運転手に対する指示だな。
タクシーの中で、ふたりは会話したか。あるいは、山本がひとりで思ったことか。「坊主頭」というのはボイスの頭のことか。それとも「くるぶし」を指し示したひとか。あるいはA氏か。
これもどうでもいいことだが、そういうどうでもいいことが、大事なことのようにして「ボイスの印象」に紛れ込む。自分の印象と他人の語った印象。いろいろな印象が「張り合う」ように動き始める。ほかのひとの「印象(意見)」はどういうものか。「洋書」まで調べてみる気にはならない。
という具合に読み進むと、この詩の中に「ストーリー」ができる。「時間」が動く。
でもね。
詩は、そういう「ストーリー」(意味)とは関係がない。「ストーリー」は、ことばを「意味」として理解するために捏造するものだ。言い換えると、私の書いた「ストーリー」は、ほかの人の手にかかればまったく違うものになる。いや、そんなことを考えるまでもなく、山本が書いたのはまったく別なことであり、私の「解釈」は「誤読」である、というだけで充分である。山本が「そんなことは書いていない」と言えば、それでおしまい。でも、私は気にしない。「意味」というのは、各自のものであって、私がどういう「意味」を読み取るかは、書いた山本とは関係がない。
あ、書きたいことと、だんだんずれてしまう。
私が書きたかったのは……。
この書き出しに、私がひっぱられるということ。何が書いてあるかわからない。わからないけれど「くるぶし」が問題になっていることはわかる。そして「ここ、ここ、ねっ」と指し示されたことがわかる。
ボイスの作品(ということにしておく)がどういうものかわからないから、その「指し示し」(指摘)が正しいかどうかはわからないが、あるひとが、そこを指し示したということがわかる。それだけではなく、それを指し示したのは、そのひとにとって、その部分が指し示すに値するものだったということがわかる。こういう「印象」は、また「初版本」に戻ってしまうが、「ザラ紙」と「活版活字」のようなものである。強烈な力で、「もの」の過去をひっぱってくる。「ここ、ここ、ねっ」と言うとき、そのひとは、くるぶしだけを見ているのではない。そのひとの見てきたいくつもの「くるぶし」があって、それがいま目の前にある「くるぶし」をまったく別なものにしている。
「くるぶし」の「ここ」には、ボイスのつくったくるぶし以外のものが「過去」として噴出してきていて、それがボイスのくるぶしを支えている。というのは事実かどうかはわからないが、指し示したひとには、そう見えていたのだと思う。
同時に山本が見た「くるぶし」の記憶を揺さぶる。揺さぶられてさらに目の前にある「くるぶし」が変わってしまう。
「ことば」は「いま」そこにあるのだが、「ことば」はそのまま「時間」そのものであり、「いま」なのに「過去」を含む。そして、「過去」を含むだけではなく「未来」をも含む。つまり、「いま」発せられたことばが、必然的に「未来」へと「印象」を動かしていく。あ、これは言い方を間違えた。「いま」発せられたことばに刺戟を受けて、「印象」が変化してしまう。それは「未来」へ向かっての変化なのか、それとも「過去」が変化したのか。「過去」であったとしても、「変わる」というのは「いま」から先の動きなので「未来」か。
しかも、ややこしいことに。
この「過去-いま-未来」というのは、「時間」なのに一直線ではない。
脇から(無意識の領域)からも、何事かがやってくる。道端の石、みたいに。レストランのカタカナ放送みたいに。それがみんな「いま」をひっかきまわす。
「ボイスの印象」というものが「中心」にあって、それが「いま」をつくっているのだが、そのまわりのいろいろなものが同時に「過去」をかかえこみ、また「未来」を含んで動いている。
「いま」ここには「ボイスの作品」と「印象」だけがあるのではなく、同時に存在するすべてが「ボイスの作品」と「印象」に反映している。
そういう運動が山本の詩の中で起きている。
「ストーリー」にしてしまうと、「時間」が整理され、「意味」が必然的に生まれてきてしまうが、そういうことは「無意味」。重要なのは「いま」という瞬間が、「過去」であり、同時に「未来」であると実感できる「ことば」の「もの」性のなかにあるということ。
結論を想定せずに書き始めるし、読み返すのも目が悪いので面倒なので、できない。だから、私の書いていることは「でたらめ」になっているかもしれないが、きょう考えたのは、これ。
35年前にも評判になったと思うが、いまの方がより伝わるかもしれない。「現代詩」のことばは35年前とはずいぶん変わってきた。山本のことばは「時代」を先取りしすぎていたかもしれない、と思うのだ。
*
「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2500円(送料、別途注文部数によって変更になります)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
なお、私あてに直接お申し込みいただければ、送料は私が負担します。ご連絡ください。
「詩はどこにあるか」2019年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168075286
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(4)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
山本育夫『ボイスの印象』の感想のつづき。
きのうは「初版本」への印象を書きすぎた(かもしれない)。でも、書きたいことを書いてしまわないと、ことばは動いてくれない。
詩集のタイトルにもなっている「ボイスの印象」を読む。(35年前に読んだときは何を考えたか、ぜんぜん思い出せない。どこかで感想を書いたかもしれないけれど、それも思い出せない。)
くるぶしの所、ここ、ここ、ねっ
声の輪の中で
際立つ
変声があったの
指し示されれば注目をひく
ということになる
むりやりみせつけられてばかり
きたな
印象はあるが前後の膨らみは
脱ぎすてられて
痩せている
たまらない
かさかさした昼飯までつきあう
やたらにカタカナの多い放送が
流れていた
道端の石をどけると
地下水が流れているのがのぞけて
しばらく
A氏とうるおっている
タクシーをとめ
意外な顔を残して
三丁目まで
(坊主頭は苦手だ
(刈りあげもいただけないね
二つ三つ
ボイスの印象がはりあってきて
洋書までは
目を通せない
「ボイスの印象」。詩集には「Impression Joseph Beuys 」とある。正確には「ジョセフ・ボイスの印象」ということか。私は、このひとのことを知らない。ネットで見れば何か載っているだろうが、そういうものを見たところで(読んだところで)、結局何もわからないだろう。そこには「他人が書いた要約」があるだけで、「要約」を通して、私の感想が動くわけではない。わからないままに、山本が書いていることばを手がかりにボイスについて考える。
くるぶしの所、ここ、ここ、ねっ
というのは、たぶんボイスの作品を見て、誰かがそう言ったのだ。絵か、写真か、彫刻か。あるいは小説、詩ということも考えられるが、私は彫刻を想像した。
で、想像すると同時に、「ボイスの印象」というのは、もしかするとボイスの作品に対する印象ではなく、それについて語った「声(ボイス)」に対する印象かもしれないとも思った。
一行目に続いて、二行目の頭に「声」が出てくる。さらにその声は「変声」と言いなおされている。何かを主張したいとき、声のトーンが変わる。その変化にうながされて、山本は彫刻の「くるぶし」、「指し示された」ところを見たのだろう。
指し示されて、ふと「むりやりみせつけられてきたな」(指し示されたものを見るように強制されてきたな)と「過去」を思い出している。
人の意見(声)を聞くと、何事かを知らされる。刺激を受けて自分の「印象」が変わったりする。ある時は「膨らみ」、ある時は「痩せる」。それは自分の意見か、それとも「作品の見え方」か。まあ、考えてもしようがない。
いっしょに作品を見ている人と(何人いるかわからないが)、昼食へ行く。そのレストラン(?)では「カタカナの多い放送」が流れていた。内容ではなく、「カタカナ」だったことを覚えている。これは、私が山本の「初版本」を「ザラ紙」と「活版活字」と記憶しているようなもので、どうでもいいことだが、そのどうでもいいことの方がたぶん重要なのだ。
それからどういうわけか道端の石をどけて、地下水を見る。ほんとうかな? 用水路でも見たのを、言い換えたのかもしれない。水を見て、ちょっと気分が変わる。「昼飯」は「かさかさ」していた。水を見て「うるおった」。気分の変化だ。
それからタクシーに乗った。ひとりで? それともA氏と? まあ、どうでもいい。「三丁目まで」は運転手に対する指示だな。
タクシーの中で、ふたりは会話したか。あるいは、山本がひとりで思ったことか。「坊主頭」というのはボイスの頭のことか。それとも「くるぶし」を指し示したひとか。あるいはA氏か。
これもどうでもいいことだが、そういうどうでもいいことが、大事なことのようにして「ボイスの印象」に紛れ込む。自分の印象と他人の語った印象。いろいろな印象が「張り合う」ように動き始める。ほかのひとの「印象(意見)」はどういうものか。「洋書」まで調べてみる気にはならない。
という具合に読み進むと、この詩の中に「ストーリー」ができる。「時間」が動く。
でもね。
詩は、そういう「ストーリー」(意味)とは関係がない。「ストーリー」は、ことばを「意味」として理解するために捏造するものだ。言い換えると、私の書いた「ストーリー」は、ほかの人の手にかかればまったく違うものになる。いや、そんなことを考えるまでもなく、山本が書いたのはまったく別なことであり、私の「解釈」は「誤読」である、というだけで充分である。山本が「そんなことは書いていない」と言えば、それでおしまい。でも、私は気にしない。「意味」というのは、各自のものであって、私がどういう「意味」を読み取るかは、書いた山本とは関係がない。
あ、書きたいことと、だんだんずれてしまう。
私が書きたかったのは……。
くるぶしの所、ここ、ここ、ねっ
この書き出しに、私がひっぱられるということ。何が書いてあるかわからない。わからないけれど「くるぶし」が問題になっていることはわかる。そして「ここ、ここ、ねっ」と指し示されたことがわかる。
ボイスの作品(ということにしておく)がどういうものかわからないから、その「指し示し」(指摘)が正しいかどうかはわからないが、あるひとが、そこを指し示したということがわかる。それだけではなく、それを指し示したのは、そのひとにとって、その部分が指し示すに値するものだったということがわかる。こういう「印象」は、また「初版本」に戻ってしまうが、「ザラ紙」と「活版活字」のようなものである。強烈な力で、「もの」の過去をひっぱってくる。「ここ、ここ、ねっ」と言うとき、そのひとは、くるぶしだけを見ているのではない。そのひとの見てきたいくつもの「くるぶし」があって、それがいま目の前にある「くるぶし」をまったく別なものにしている。
「くるぶし」の「ここ」には、ボイスのつくったくるぶし以外のものが「過去」として噴出してきていて、それがボイスのくるぶしを支えている。というのは事実かどうかはわからないが、指し示したひとには、そう見えていたのだと思う。
同時に山本が見た「くるぶし」の記憶を揺さぶる。揺さぶられてさらに目の前にある「くるぶし」が変わってしまう。
「ことば」は「いま」そこにあるのだが、「ことば」はそのまま「時間」そのものであり、「いま」なのに「過去」を含む。そして、「過去」を含むだけではなく「未来」をも含む。つまり、「いま」発せられたことばが、必然的に「未来」へと「印象」を動かしていく。あ、これは言い方を間違えた。「いま」発せられたことばに刺戟を受けて、「印象」が変化してしまう。それは「未来」へ向かっての変化なのか、それとも「過去」が変化したのか。「過去」であったとしても、「変わる」というのは「いま」から先の動きなので「未来」か。
しかも、ややこしいことに。
この「過去-いま-未来」というのは、「時間」なのに一直線ではない。
脇から(無意識の領域)からも、何事かがやってくる。道端の石、みたいに。レストランのカタカナ放送みたいに。それがみんな「いま」をひっかきまわす。
「ボイスの印象」というものが「中心」にあって、それが「いま」をつくっているのだが、そのまわりのいろいろなものが同時に「過去」をかかえこみ、また「未来」を含んで動いている。
「いま」ここには「ボイスの作品」と「印象」だけがあるのではなく、同時に存在するすべてが「ボイスの作品」と「印象」に反映している。
そういう運動が山本の詩の中で起きている。
「ストーリー」にしてしまうと、「時間」が整理され、「意味」が必然的に生まれてきてしまうが、そういうことは「無意味」。重要なのは「いま」という瞬間が、「過去」であり、同時に「未来」であると実感できる「ことば」の「もの」性のなかにあるということ。
結論を想定せずに書き始めるし、読み返すのも目が悪いので面倒なので、できない。だから、私の書いていることは「でたらめ」になっているかもしれないが、きょう考えたのは、これ。
35年前にも評判になったと思うが、いまの方がより伝わるかもしれない。「現代詩」のことばは35年前とはずいぶん変わってきた。山本のことばは「時代」を先取りしすぎていたかもしれない、と思うのだ。
*
「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2500円(送料、別途注文部数によって変更になります)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
なお、私あてに直接お申し込みいただければ、送料は私が負担します。ご連絡ください。
「詩はどこにあるか」2019年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168075286
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(4)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
ボイスの印象 (1984年) | |
山本 育夫 | |
書肆・博物誌 |