詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本育夫『ボイスの印象』(2)

2019-04-29 18:40:37 | 詩集
山本育夫『ボイスの印象』(2)(書肆・博物誌、1984年09月10日発行)

 山本育夫『ボイスの印象』の感想のつづき。
 きのうは「初版本」への印象を書きすぎた(かもしれない)。でも、書きたいことを書いてしまわないと、ことばは動いてくれない。
 詩集のタイトルにもなっている「ボイスの印象」を読む。(35年前に読んだときは何を考えたか、ぜんぜん思い出せない。どこかで感想を書いたかもしれないけれど、それも思い出せない。)

くるぶしの所、ここ、ここ、ねっ
声の輪の中で
際立つ
変声があったの
指し示されれば注目をひく
ということになる
むりやりみせつけられてばかり
きたな
印象はあるが前後の膨らみは
脱ぎすてられて
痩せている
たまらない
かさかさした昼飯までつきあう
やたらにカタカナの多い放送が
流れていた
道端の石をどけると
地下水が流れているのがのぞけて
しばらく
A氏とうるおっている
タクシーをとめ
意外な顔を残して
三丁目まで

(坊主頭は苦手だ
(刈りあげもいただけないね

二つ三つ
ボイスの印象がはりあってきて
洋書までは
目を通せない

 「ボイスの印象」。詩集には「Impression Joseph Beuys 」とある。正確には「ジョセフ・ボイスの印象」ということか。私は、このひとのことを知らない。ネットで見れば何か載っているだろうが、そういうものを見たところで(読んだところで)、結局何もわからないだろう。そこには「他人が書いた要約」があるだけで、「要約」を通して、私の感想が動くわけではない。わからないままに、山本が書いていることばを手がかりにボイスについて考える。

くるぶしの所、ここ、ここ、ねっ

 というのは、たぶんボイスの作品を見て、誰かがそう言ったのだ。絵か、写真か、彫刻か。あるいは小説、詩ということも考えられるが、私は彫刻を想像した。
 で、想像すると同時に、「ボイスの印象」というのは、もしかするとボイスの作品に対する印象ではなく、それについて語った「声(ボイス)」に対する印象かもしれないとも思った。
 一行目に続いて、二行目の頭に「声」が出てくる。さらにその声は「変声」と言いなおされている。何かを主張したいとき、声のトーンが変わる。その変化にうながされて、山本は彫刻の「くるぶし」、「指し示された」ところを見たのだろう。
 指し示されて、ふと「むりやりみせつけられてきたな」(指し示されたものを見るように強制されてきたな)と「過去」を思い出している。
 人の意見(声)を聞くと、何事かを知らされる。刺激を受けて自分の「印象」が変わったりする。ある時は「膨らみ」、ある時は「痩せる」。それは自分の意見か、それとも「作品の見え方」か。まあ、考えてもしようがない。
 いっしょに作品を見ている人と(何人いるかわからないが)、昼食へ行く。そのレストラン(?)では「カタカナの多い放送」が流れていた。内容ではなく、「カタカナ」だったことを覚えている。これは、私が山本の「初版本」を「ザラ紙」と「活版活字」と記憶しているようなもので、どうでもいいことだが、そのどうでもいいことの方がたぶん重要なのだ。
 それからどういうわけか道端の石をどけて、地下水を見る。ほんとうかな? 用水路でも見たのを、言い換えたのかもしれない。水を見て、ちょっと気分が変わる。「昼飯」は「かさかさ」していた。水を見て「うるおった」。気分の変化だ。
 それからタクシーに乗った。ひとりで? それともA氏と? まあ、どうでもいい。「三丁目まで」は運転手に対する指示だな。
 タクシーの中で、ふたりは会話したか。あるいは、山本がひとりで思ったことか。「坊主頭」というのはボイスの頭のことか。それとも「くるぶし」を指し示したひとか。あるいはA氏か。
 これもどうでもいいことだが、そういうどうでもいいことが、大事なことのようにして「ボイスの印象」に紛れ込む。自分の印象と他人の語った印象。いろいろな印象が「張り合う」ように動き始める。ほかのひとの「印象(意見)」はどういうものか。「洋書」まで調べてみる気にはならない。
 という具合に読み進むと、この詩の中に「ストーリー」ができる。「時間」が動く。
 でもね。
 詩は、そういう「ストーリー」(意味)とは関係がない。「ストーリー」は、ことばを「意味」として理解するために捏造するものだ。言い換えると、私の書いた「ストーリー」は、ほかの人の手にかかればまったく違うものになる。いや、そんなことを考えるまでもなく、山本が書いたのはまったく別なことであり、私の「解釈」は「誤読」である、というだけで充分である。山本が「そんなことは書いていない」と言えば、それでおしまい。でも、私は気にしない。「意味」というのは、各自のものであって、私がどういう「意味」を読み取るかは、書いた山本とは関係がない。

 あ、書きたいことと、だんだんずれてしまう。

 私が書きたかったのは……。

くるぶしの所、ここ、ここ、ねっ

 この書き出しに、私がひっぱられるということ。何が書いてあるかわからない。わからないけれど「くるぶし」が問題になっていることはわかる。そして「ここ、ここ、ねっ」と指し示されたことがわかる。
 ボイスの作品(ということにしておく)がどういうものかわからないから、その「指し示し」(指摘)が正しいかどうかはわからないが、あるひとが、そこを指し示したということがわかる。それだけではなく、それを指し示したのは、そのひとにとって、その部分が指し示すに値するものだったということがわかる。こういう「印象」は、また「初版本」に戻ってしまうが、「ザラ紙」と「活版活字」のようなものである。強烈な力で、「もの」の過去をひっぱってくる。「ここ、ここ、ねっ」と言うとき、そのひとは、くるぶしだけを見ているのではない。そのひとの見てきたいくつもの「くるぶし」があって、それがいま目の前にある「くるぶし」をまったく別なものにしている。
 「くるぶし」の「ここ」には、ボイスのつくったくるぶし以外のものが「過去」として噴出してきていて、それがボイスのくるぶしを支えている。というのは事実かどうかはわからないが、指し示したひとには、そう見えていたのだと思う。
 同時に山本が見た「くるぶし」の記憶を揺さぶる。揺さぶられてさらに目の前にある「くるぶし」が変わってしまう。
 「ことば」は「いま」そこにあるのだが、「ことば」はそのまま「時間」そのものであり、「いま」なのに「過去」を含む。そして、「過去」を含むだけではなく「未来」をも含む。つまり、「いま」発せられたことばが、必然的に「未来」へと「印象」を動かしていく。あ、これは言い方を間違えた。「いま」発せられたことばに刺戟を受けて、「印象」が変化してしまう。それは「未来」へ向かっての変化なのか、それとも「過去」が変化したのか。「過去」であったとしても、「変わる」というのは「いま」から先の動きなので「未来」か。
 しかも、ややこしいことに。
 この「過去-いま-未来」というのは、「時間」なのに一直線ではない。
 脇から(無意識の領域)からも、何事かがやってくる。道端の石、みたいに。レストランのカタカナ放送みたいに。それがみんな「いま」をひっかきまわす。
 「ボイスの印象」というものが「中心」にあって、それが「いま」をつくっているのだが、そのまわりのいろいろなものが同時に「過去」をかかえこみ、また「未来」を含んで動いている。
 「いま」ここには「ボイスの作品」と「印象」だけがあるのではなく、同時に存在するすべてが「ボイスの作品」と「印象」に反映している。
 そういう運動が山本の詩の中で起きている。
 「ストーリー」にしてしまうと、「時間」が整理され、「意味」が必然的に生まれてきてしまうが、そういうことは「無意味」。重要なのは「いま」という瞬間が、「過去」であり、同時に「未来」であると実感できる「ことば」の「もの」性のなかにあるということ。

 結論を想定せずに書き始めるし、読み返すのも目が悪いので面倒なので、できない。だから、私の書いていることは「でたらめ」になっているかもしれないが、きょう考えたのは、これ。
 35年前にも評判になったと思うが、いまの方がより伝わるかもしれない。「現代詩」のことばは35年前とはずいぶん変わってきた。山本のことばは「時代」を先取りしすぎていたかもしれない、と思うのだ。





*

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ボイスの印象 (1984年)
山本 育夫
書肆・博物誌
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思想犯

2019-04-29 10:15:27 | 自民党憲法改正草案を読む
思想犯
             自民党憲法改正草案を読む/番外258(情報の読み方)

 「週刊朝日」のネット版「AERAdot.」(https://dot.asahi.com/wa/2019042700025.html?fbclid=IwAR3arjNtTKqQDBIinRx2o4DkXvxoI08rNabFOZoUTBtTthXvvlnyAkfXsU0)(2019.4.27 22:48 )に、こういう見出しの記事があった。

悠仁さまの机に刃物、思想犯を重点捜査 内部事情に詳しい者の犯行か?

 「思想犯」ということばにびっくりした。
 4 月26日悠仁が通う中学校に不審者が侵入し、悠仁の机の上に包丁が置いてあった。その事件の続報である。
 本文に、こういうくだりの文章がある。

犯人のねらいは何なのか。警視庁捜査関係者が言う。
「平成から令和へ、改元直前の犯行ということで、ほぼ間違いなく、思想犯。包丁を置くという行為が、秋篠宮殿下に対する脅しのメッセージだろう」

 私はむしろ「平成から令和へ、改元直前」に「思想犯」ということばがつかわれたことに、事件以上の重大性を感じる。
 「思想犯」とは何を指すのか。
 「思想」がなぜ「犯罪(犯行)」なのか。
 ここには「思想」を取り締まろうとする「意図」が見える。「警視庁捜査関係者」は「思想」を取り締まり始めたのである。

 思い出すのは、いまの天皇が1975年に沖縄を訪問したときの事件だ。いまの天皇と皇后に向かって、ひめゆりの壕から火炎瓶が投げつけられた。投げつけたのは、いわゆる「過激派」である。このとき、彼らのことを「思想犯」とは呼んでいなかった、と思う。
 正確な記憶ではないが、「思想犯」ということばを新聞では見かけなかった。
 目の前にいる天皇(当時は皇太子)に向かって火炎瓶を投げつけるのと、誰もいない机の上に包丁を置くのでは、どちらが危険化。どちらが重い犯罪か。火炎瓶を投げつける方だろう。それでも、その犯行者を「思想犯」とは呼ばなかった。

 なぜ、いま「思想犯」なのか。

 国民の「思想」を取り締まる、いや「思想」を基準に国民を取り締まるということが、安倍の狙っている憲法改正を先取りする形で進んでいるのだ。
 記事には、こういう文章もある。

「思想犯でも右か左か、絞り込めていない。防犯カメラの映像と似た風貌の過去の思想犯をデータベースからリストアップしている。」

警視庁では防犯カメラの解析による男の割り出しと、思想犯のチェックとの両面から捜査を行っている。

 捜査当局は「思想犯」という「項目」をすでに持っている。どういう「思想」が「犯罪」なのか、それを規定した「法律」は何なのか。国民には知らせず、警察は特定の始祖を「犯罪」であると認定しているということだ。
 
 「平成から令和へ、改元直前」。国民の関心が「皇室」に向けられている。「天皇の強制生前退位」は「おめでたい」かどうかわからないが、「新天皇の即位」は多くの国民にとっては「おめでたい」ことなのだろう。少なくとも「新天皇の即位に反対」という表立った声は聞かない。「慶事を狙っての犯行は許せない」という声は、多くの国民に受け入れやすいものである。
 こういう「浮かれた」状態のときに、「思想犯」を復活させれば、「思想犯」ということば、すーっと受け入れられてしまうだろう。
 どちらかといえば「安倍批判」と受け止められている朝日新聞の、その傘下の「週刊朝日」の記事に「思想犯」ということばが、捜査関係者の声とはいえ、そのまま掲載されていることが、それを証明している。
 たとえ捜査関係者がそう言ったのだとしても、ふつうなら、それに対する「批判」のようなものが同時に書かれるはずだが、私の読んだ限り、「思想犯」という発言に対する批判は書かれていない。
 安倍の「洗脳作戦」に、朝日新聞(週刊朝日)の記者さえも、完全に犯されてしまっているということだ。記者は少なくとも「思想犯」の定義を聞き出すべきだし、どんな具合に「思想犯」が認定されているのか記事にしないといけない。それを怠っているのは、洗脳されているとしかいいようがない。

 犯行の現場が「学校」であること、「思想犯」ということばがつかわれてたことから、私は別なことも考えた。
 安倍は「教育の無償化」を憲法改正の一項目に掲げているが、そのとき「無償化」の対象となるのは、どういう教育か。
 何度も何度も書いてきたが、安倍批判(権力批判)をする「学問」(教育)も「無償化」の対象となるか。
 きっとならない。
 安倍批判をすれば、それだけで「思想犯」と認定され、取り締まられる。すぐには逮捕されないかもしれないが、監視が強化されるだろう。国民の自由が侵害される。
 安倍を肯定する「教育」だけが推進される。つまり「洗脳教育」が大手を振るって行われることになる。
 憲法に保障された「思想の自由」は完全になくなる。
 「思想の自由」を奪うために、今回の事件が利用されようとしている。

 あるいは、今回の事件は、「思想の自由」を奪うため、「思想犯」というものを復活させるために、安倍一派が仕組んだものであるとさえ考えてみる必要がある。だいたい、ある時間帯に教室に誰もいない(包丁を置ける)ということを部外者が知ることはむずかしい。誰が、どうやって情報を流したのか。よほどの「組織」がなければ、こういうことはできない。
 ただ一方的に情報を提供するだけではなく、その日、ほんとうに予定通りに授業が進んでいるのか、など、綿密な情報が必要になる。
 「天皇の強制生前退位」スクープ報道のように、「裏」の動きの方が重要だ。

 私は「天皇の強制生前退位」報道以来、安倍の狙いは悠仁を天皇にすること、悠仁天皇を誕生させた権力者として力を振るい続けること(独裁をつづけること)にあると見ている。
 すでに捜査当局は、安倍にこびへつらって「思想犯」ということばを先取りしてつかっている。「思想犯」ということばをつかうことが、その関係者を「出世」させることになるからだ。取り締まらなければならないのは、まず思想だ、ということを明確にした「立役者」である。
 容疑者が判明し、逮捕されれば「思想犯」ということばは、もっと大手を振るってマスコミに登場するだろう。
 どのマスコミが、「思想犯」ということばに対し最初に異議をとなえるか、そういうことも注目してみないといけない。

 それにしても。
 「思想犯でも右か左か、絞り込めていない。防犯カメラの映像と似た風貌の過去の思想犯をデータベースからリストアップしている。」というのは、恐ろしいことばである。「思想犯」が「データベース化」されていることを捜査関係者は公言している。
 この記事を読んでいる、あなた。あなたも「思想犯」のデータベースに入ることになるかもしれない。誰がいつ、どんな記事を読んだか、「いいね」ボタンを押したか、あるいは反論したか。そういうことは調べてデータベース化することなど、とても簡単なはずだ。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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池澤夏樹のカヴァフィス(131)

2019-04-29 08:51:06 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
131 二人の若い男、二十三ないし二十四歳

 この詩にも「常套句」がすばやく動いている。夜、カフェで男が男を待っている。なかなかやってこない。

機械的に新聞を読むのにも
厭きはてた。三シリングという淋しい持金が
残りは一シリングだけ、長く待つために
コーヒーやコニャックに費やしたのだ。
煙草も全部喫ってしまった。

 「常套句」というより「常套行動」というべきか。待ちくたびれた、けれど待つしかない。そういうとき相手が誰であれ、同じようなことをしながら待つだろう。その行動(詩に書かれた肉体)に読者の肉体が重なる。重なりの中に、誰もが知っている「時間」が噴出してくる。
 自分のしていることがいやになった瞬間、待ち人が来る。しかも「賭博」で稼いだ大金(六十ポンド)を持って。大金は二人を(待っていた男を)よみがえらせる。二人は、

悪の館へ行った。寝室を一つ借り
高価な飲物を買って飲んだ。

朝の四時に近い頃、その
高価な飲物を空にして、二人は
幸福な愛に身をまかせた。

 「悪の館」「高価な飲物」「幸福な愛」。何一つ「具体的」には書かれていない。「抽象的」だ。しかし、その「抽象」には「世間」が知っている「具体」がつまっている。読者がそれぞれの体験を、その「抽象」に投げ込むようにしてことばを読む。あるいは、ことばが読者の体験した「具体」を詩の中に引き込んでしまう。
 「具体的」に描写されていたなら、読者は、この「体験」は自分のものではない、と冷めた感じで読んでしまう。「抽象」だからこそ、逆に「具体的」になる。それが「常套句」の力だ。

 池澤は「六十ポンドは百二十万円である」と教えてくれている。


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