谷川俊太郎の世界(3)(朝日カルチャーセンター(福岡)、2019年04月15日)
谷川俊太郎の「とまらない」をまねて詩を書いてみた。今風に言うと、パクって見た。「なきだしたら ぼくとまらない」という一行目の「なきだしたら」をほかのことばに変えて、その気持ちを書いてみる。登場人物は「ぼく」(架空の人間)でも、自分自身でもかまわない。それが条件。
名前を伏せてランダムに作品を読んで行き、感想を言う。そういうことをやってみた。自分の作品でも、「ここがいいね」「ここが気に食わない」というように、他人のふりをして感想を言ってみよう、ということで始めたのだが、これはなかなかむずかしくて、自分の作品について語るとき、どうしても「種明かし」をしてしまう。そのため、いつもやっている「この作品の主人公は何歳? 男? 女?」という質問を交えて、ことばの運動そのものを追いかけてみるということはできなかったが、みんなで語り合うというのは、ひとりで読んでいるときは見えないものが見えてきて楽しい。
参加者は、香月ハルカ、井本美彩子、青栁俊哉、萩尾ひとみと私(谷内修三)。池田清子は欠席(作品のみ)。櫻井洋司の作品はブログ読者からの投稿。
作品と、感想を紹介する。
「一番最後が本音かな」
「蟻を見ていて自分がいなくなる感じがする」
「最後の二行が作者の表現したいことかな、と思った。二連目の、こえをひろうがどういう気持ちで書いたのかなあ」
--私は、二連目がすごいなあ、と思った。谷川俊太郎に読ませたいと思った。
「ありのぎょうれつ おいかけたら、もう とまらないから、最終蓮へいたままでの過程がおもしろいですねえ。こういうふうに歌えるのはすごいなあ」
蟻の行列を追いかけるというのは、おとなはしない。無意味だからだ。でも、こどものときには、そういうことをしたかもしれない。じっと見つめるのも「追いかける」という動きの一つだと思う。
二連目がとても印象的だ。「はみだして/さまよって/つぶやいて/こえをひろう」というのは、こどもの感覚ではない。「はみだして/さまよって」は蟻の動きに見えるが、見ている人のこころのようにも感じられる。複数の意味になっている。そして、それが「つぶやいて」へと変わる。さらに「こえをひろう」へと変化する。蟻を見ながら、ことばにならないことばをこころのなかで動かす。知らないうちにこころがもらす声。客観的なことばにはならないけれど、自分ではわかる声。そしてそれを聞いてしまう自分。「こえをひろう」が美しくて、悲しい。
でも、それを美しいとか悲しいとか、「詩的」なことばでくくってしまうと、逆に底が浅くなる。
最後の「めんどうくさい」が、それを救っている。
蟻の行列を見て、あれこれ考えるというのは、ちょっと「めんどうくさい」性格である。特におとなになって、そういうことをしているというのは、かなり「めんどうくさい」。そういうことを「客観化」している。つきはなして、蟻の行列を見る、見ながらおもわずことばをつぶやいてしまうということを、ナンセンスにしている。軽く、軽快にしている。
二連目に戻って言うと、「はみだして/さまよって/つぶやいて」の三行の、「……て」という繰り返しと変化のなかに音楽があり、その響きが「めんどうくさい」を突き破る力になっている。
*
「ねえさんが出てくるところと、最後の方の、こころのおくからあいして、というところがいいなあ。心の奥から愛することができる物があるのはすごいなあ」
「みえないのにいろんなけしきがみえてくるや、どこにでもとおいむかしへとんでいけるに時間を超えるものを感じた。とても詩的な印象が強い」
「私も歌が好きだけれど、この詩の中の歌は私が日頃聞いている歌とは少し違ったイメージがある。歌の素敵なところ、見えないものが見えたり、遠いところへ飛んで行ける、歌が人生を豊かにしている部分をほんとうの愛していることが伝わってくる」
「私の詩なので……。私は歌を人生としている。姉が歌を大事にしている。なつかしい気持ちがある。カトリックの家庭なので生まれたときから歌になじみがある。かあさんとのわかれのミサというのも、ほんとうは賛美歌を歌いたかったのだけれど。数年前にバチカンへ行ったときに、ほんとうはシスティーナの中では歌えないのだけれど、特別な配慮で歌うことができた。大切な思い出として残っている。詩は初めて書いた。真ん中の部分は自分が思うような声が出ないときのこととかを書いてみようと思ったけれど、詩のことばで短く書くのがむずかしくて、思いのなかに迫っていく表現に変えていきました」
「作者が香月さんというのはわかりました。音楽の深さが伝わってくる。わかれのミサの部分について聞いてみようかなと思っていたけれど」
「日本の葬儀ではふつうは歌わないですね。クリスチャンは歌います。それでミサにした方がわかりやすいかなと思いました。わかれの日、とかいろいろ表現に悩みました」
「歌を通して人生を語っている。詩的でここちよい」
「詩の背景を聞いて、かみさまのおくりものとか、ひかりをともすの意味が明確になった」
「その人を知ることでわかることばの深みってありますね」
一連目のことばの動きが自然だ。「めにはみえないのにいろんなけしきがみえてくる」というのは、一種の矛盾である。「現実には目には見えない、けれどこころの目には見えてくる」とことばを補うと矛盾ではなくなる。もちろん、こういうめんどうなことをしなくても、そういうことは誰もが経験していることなので、自然に伝わる。
それを引き継いで「ねえさんとみたゆうやけのそら」とつづけたところが、この詩をより親しみやすいもの(自然なもの)にしている。「ねえさん」と見たことはなくても、兄、あるいは妹、弟、母や父、祖父母、さらには友人と夕焼けを見たことは誰にでも経験があると思う。だれかといっしょに夕焼けを見るという経験が思い出され、ああ、そういうことがあったなあ、と作者の肉体に自分の肉体が近づいていく。親近感をもってと、作者と「一体」になることができる。だから「システィーナせいどうのてんじょうが」というのも納得できる。
三行目と四行目が逆の場合「システィーナせいどうのてんじょうが」が先に来た場合は、かなり印象が違うと思う。いきなり「遠い世界」をことばにされてしまっては、それがほんとうのことであっても読者はとまどうと思う。意地悪く言うと「私はシスティーナの絵なんか知らない」と反発を買うかもしれない。
でも「ねえさんとみたゆうやけ」から始まるから、自然に感じる。
この「近く」からはじまり「遠く」へ動く視線は、二連目に引き継がれている。「ふるさと」が最初にあり、次に「遠い」むかしへと動く。
「遠い」がかあさんとの別れ、ミサ、フィナーレとつながる。「フィナーレでなみだしたコンサー」はコンサートのフィナーレで涙ぐんだということであり、母の死とは関係ないかもしれないが、「母のフィナーレ」と読み直すこともできる。そうすると「ミサ」はそのまま「わかれのコンサート」になる。こういう読み方は「誤読」かもしれないが、「誤読」が詩を支えると思う。
作者は「姉と夕焼けを見た」と書いているが、それを兄と見た、弟と見た、おばあちゃんと見た、友達と見たと「読み違える」のも「誤読」。でも、「誤読」するから作者と体験を共有できる。ことばを共有できる。
*
「お父ちゃんは話だしたら、とまらないというのはわかるし、きっと心に言葉がひっかかりとれないんだろうなあ、とってあげたいというのも印象に残る」
「私も、そこが気になる」
「わかる感じがあるんだけれど」
「微笑ましい夫婦、家族の情景がとてもよく出ている」
「四連目が自分のことを書いている気がするに、だれかのことを書いているのかなと気になった。状況の設定が、自分の中で広がっていく感じがする」
--いま、設定ということばが出たけれど、お父ちゃんというのは何歳ぐらい、どういう人だと思います?
「高齢おじいさん。同じ話を何度も、とか」「私も同じですね」「高齢だと思う」「老人ホームに入っている人とか、コミュニケーションがむずかしくなっているかな」
--私も認知症の人かなあ、と思う。同じ話を何度もするのがとまらない、と読みました。こどもはもう聞き飽きているけれど、父親は何かがこころに引っかかっていて、繰り返すんだろうなあ、と思って読んだ。
で、最後の連の「黙りだしたら、とまらない」はどういうことだと思います?
「夫婦がことばが出なくなって黙りこくってしまう。この詩に、窓辺でというタイトルがついているのがおもしろいですね。家族の一情景だと思う」
「話しだしたらとまらないと似ているかな。私の母は家族がそろっている夕食のときは話すけれど、昼にふたりでいると黙ったままでコミュニケーションが成り立たない。そういう状況かな」
「コミュニケーションがむずかしいおじいちゃんで、自分のことばが相手に届いているか認知できない。だから、人がいたらしゃべるけれど、自分からの発信だけなのかな」
「私は祖母のことを思い出した。施設の人には気をつかって話すけれど、息子に対しては話さない。そこから類推だけれど、父は母に心を許していて、しゃべらなくてもいいと思っているのかも」
「いっしょにいるだけでいい、という感じ」
--うーん、私はみなさんとは違うことを考えた。人が死んだら、もう喋れないですよね。黙ってしまう。黙ったまま、それがつづいている、ということを「黙り出したら、とまらない」と読みました。死んだということを書いているのかな、と。前半は、生きていた父の思い出、と。
「うーん」
「話だしたら、とまらない」と「黙り出したら、とまらない」の対比(対句構成)がとてもいい。詩(ことばの運動)を完璧にしている。
「話だしたら、とまらない」というのは認知症の状態かもしれない。ただ止まらないのではなく、何度も何度も、こわれたレコードのように繰り返す。繰り返してしまうのは、「記憶」に何かがひっかかっているのかもしれない。もし、そのひっかかりを取ってあげることができれば、父のことばは正常なレコードのように曲の最初から最後までを奏でることができるかもしれない。そのことばは美しい音楽を聴いたときのように感動を引き起こすかもしれない。「とってあげたいけれど」ということばのなかに作者のやさしさ、愛情が溢れている。
何度も何度も聞いた話なので、何を話したか覚えているはずなのに、覚えているのは同じことを繰り返し話したということだけ。同じ話なので、またかと思い、聞きそびれている。聞いたにもかかわらず、聞いたということ以外を覚えていない。「言葉の山に背をむけていた」には作者の後悔が含まれている。悲しい反省が込められている。
その父は死んだ。沈黙した。この沈黙は「止まらない」。「母と父」と最終行にあるから、両親ともに死んでしまった。悲しい記憶だが、記憶の中で両親は生きる。語りかけてきたことば、語りかけてくる行為がいつまでも生きる。
*
「なぜ、うたいやみたいと思うのかなあ。鉄腕アトムも聖者の行進も、こころのなかでくちずさんでいていいのになあ。それを止める詩のことば、なぜ、止める力があるのかな、思った」
「二連目の展開がとてもおもしろい。そこからいなくなるよう、の部分がとても深いものをもっていると感じる」
「まじめななにか、がひどく気になった。最後の、なりやむということばが音楽的ですてきだなあと思った」
「私が書いたのだけれど。これまで谷川のようなわかりやすいような詩は書いたことがないので、苦労しました。書きたかったのは、日頃私たちの頭のなかを飛び交っていることばというのは、音楽もそうなのだけれど、脈絡のない感じがする。そこに対する嫌悪感のようなものがあって、それを止めるために自分の書いているノートを読む。そうすると止まってくれる。そういうことを書いてみようと思った」
「現実にいろんなことばが飛び交っていることに対する嫌悪感?」
「いや、自分の頭のなか。だれかと対話している感じ。それを止めたい」
「私はこの詩のノートのようてものをもっていなけれど、それを読むと止まるというのはよくわかりました」
「詩のことばと戦うような感じは?」
「そういうのは、ないですね。ふだんは自我と自分がのやりとりをしている感じだけれど、詩と向き合って没頭しているときは自分がなくなる感じ。そういうとき、非常に精神的に楽だなあ」
「むずかしい。うたもわたしもなりやむ、というのは、そういうことですか?」
「私の意識がないんです」
「鉄腕アトムがいいですよね。こどもの時代の圧倒的ヒーロー」
「歌詞もいいですよね」
「だから、アトムが消えなくてもいいんじゃない、と思った」
ことばを読み返してしまう不思議な作品。「鉄わんアトムのうたも せいじゃの行進も/アイネクライネナハトムジークも」という展開の仕方には、読者への配慮を感じる。曲名の順序を変えると印象が違ってしまう。いまの展開がいちばんなじみやすいと思う。
私が最初につまずいたのは「うたいやみたい」ということば。私は、こういう使い方をしない。聞いたことがあるかないか、思い出せない。聞いたとしても忘れてしまっている。自分で勝手に「うたうのをやめたい」と言いなおして理解していたのだろう。
この「やむ」が最終行で「なりやむ」に変化する。このことばは自然に響く。「なりやむ」と対応させるために「うたいやむ(やみたい)」ということばがつかわれているのだと思う。
「うたいやむ」から「なりやむ」までの間に、作者の精神、心理の動きが凝縮している。もっと書きたいことがあるのだと思うけれど「15行以内」という条件の詩なので、ことばに無理な圧力がかかっている。しかし、この圧力は、「無理」は「無理」なのだけれど、効果的だったかもしれない。省略されたものを読者に想像させるからだ。
「形にならない詩のことばをよむ」と「うた」が「なにかにふれて/そこからいなくなる」というのは、歌が沈黙の音楽になり、その沈黙と詩人が一体になる感じか。
*
「とてもなれた感じ。いろいろな表現がはいっていて素敵な詩。愚痴が始まるとまらないというのは心情的によくわかります」
「一連目は深刻だけれど、二連目はおまえもがんばっとるのぉとか老犬とか、ユーモアがあるなあ。最後の一行、母さん、コーヒーでもいれましょうかが、愛情があって好きだなあと思いました」
「二連目が自分を解放していく心情がいい」
「谷川の穴という作品を読んだ。このおばあちゃんも自分の掘った穴にいる。こどもは穴から空をみると蝶々が飛んでいたりする。このおばあちゃんは上に青空があることに気がつかない。青空が外は春なんだってことなんだけれど」
--遠い昔の夫、というのは、もう亡くなっていないということかな?
「私が書いたんだけれど、あんたが世界で一番不幸な女かよ、というノリ」
「詩は初めてですか? すごい」
母は老いた母だろう。繰り返し繰り返し同じ「愚痴」を語る。「世界で一番不幸な女になる」は悲しいことだけれど、「世界で一番」という部分に「愉悦」がある。陶酔がある。「どんどん/ずんずん」には「一番」に向かっていく「勢い」のようなものがある。「世界で一番」を楽しんでいる。
作者も、それを受け入れている。ただの不幸はつらいが、「世界で一番」なら、なんとなく、不幸にも「価値(意味)」が生まれる。
その「価値」を引き継いで、二連目が転調し、明るくなる。「桜満開/庭のチューリップ/赤、白、ピンク」は誰もが知っている春だ。「定型」の安心感がある。
「おまえもがんばっとるのぉ」は誰のことばだろうか。詩人が老犬に語りかけたことばかもしれないし、老いた母が老犬に語りかけたことばかもしれない。あるいは、老いた母が詩人に語りかけたことばかもしれない。自分の不幸を嘆きながら、娘の不幸についてもわかっているよ、と語りかけているかもしれない。
こういうことは作者に対して、どっち?と質問してはいけない。詩人の答えを待っていてはいけない。読者が自分で「誤読」する。「誤読」することで、作者を自分の方へひっぱってくる。
「読む」というのは読者が自分を作者の方へ近づけていくことだが、近づいて作者に自分を重ねて「わかる、わかる」と言うだけではなく、そこでつかみとった「こころ」を自分のものとして生きなおすとおもしろい。
そこから「母さん、コーヒーでもいれましょうか」と自分の声で言ってみる。いつもの自分の声とは違う響きがそこに入ってきているのに気がつく。詩人の「人柄」を自分のものにして、自分自身が生まれ変わる。そういうことを楽しむことができる。
*
「切実な思いが具体的に伝わってくる」
「リアルだなあ。おもしろいと思ったのは病気の名前が具体的に書いてあるところと、甘い物が同じように具体的に書いてあるところ」
「食べ物が具体的に書いてあって、わかりやすい」
「麻薬を止められない人の気持が少しわかる、というのが私の気持ちにぴったり。甘いものが好きだから」
「じょうよ万十は、上用(じょうよう)じゃないかしら」
「ヨックモックというのは?」
「薄いクッキーにチョコレートが挟んである。有名なお菓子です」
「甘い物と、甘っちょろいをかけているのかな」
「食べ物の誘惑は大きいですね。人間、動物だから」
「コレステロールと甘い物って関係あるんですかね」
「太るから。まわりまわって……」
「皮膚病は、バランスがわるくなるからかなあ」
「認知症は、甘いものがまわりまわって」
「うーん、病気の話になってしまったね」
「最後の、でも大事なことなんだよなあ、がとても印象的だった」
「これ、何が大事なことなんですか?」
「やめないきゃいけないことじゃないですか」
「一か月食べるな、と言われたら我慢できません」
「チョコレートの説明書きなんかを読むのも好きです」
「食後にシメみたいな感じで食べたいね」
「食後は食べたくないなあ」
最後の二行が楽しい。「甘っちょろい悩み」というのは、学校文法では「甘い物が止められない」ということを指すのだと思うが、「意味」に要約してしまうと味気ない。
「甘い物」ということばになる前に、それは「シュークリーム、じょうよ万十、ラムレーズンチョコ/太鼓焼、ヨックモック、おはぎ、バームクーヘン」と書かれていた。ほんとうはもっともっとあるのだと思う。その「要約以前(無数のことば)」が「甘っちょろい」の「正体」という感じがする。だから、詩人はもっともっと甘い物を具体的に書いた方がよかったと思う。
作者が書いている「甘い物」では、私は「じょうよ万十」と「ヨックモック」を知らなかったが、知らないことばがたくさんある方が楽しいと思う。作者が見えてくる。「他人」というのは、わからないことがあるから「他人」。それが「甘い物」と言ってしまえば誰でもわかるが、誰も知らない「甘い物」まで並べると、きっと驚きになる。あ、このひとは、こんなに甘い物を知っているという驚きが、「親近感」にかわる。そういうことがあってもよかったかな、と思う。
*
「リズムがあって、詩をよく書いた人の作品かな」
「赤い、赤いがつづくので、逃げ出したくなった」
「赤をテーマにしたバリエーションの詩。詩は、けっこうバリエーションをつかい、物語を作っていく。そういう詩」
「赤いキリン赤いライオン赤いカバといところにひっかかった。でも小さな子がいろんな絵を描くか。頭が混乱した。最後のネロはネコだと思った」
最終行の「ネロ」は谷川俊太郎が飼っていた犬の名前(だと思う)。谷川の詩の中に出てくる。ママは死んだ。泣きたいのをこらえて、転んで血を流したときママが言ってくれたことばを思い出している、という「内容」。
要約してしまうと、それでおしまい、というのはつまらない詩だねえ。(笑い)
受講生募集中。飛び入りの受講(何回目からの受講)も可能です。ゲストさんかもOKです。30分だけの見学も受け付けています。
詳しいことは朝日カルチャーセンター(福岡)まで問い合わせてください。
講座日は第1・第3月曜日13時00分~14時30分
5月6日(祝日)、20日、6月3日、17日
申し込みは、朝日カルチャーセンター、博多駅前・福岡朝日ビル8階 092-431-7751
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
谷川俊太郎の「とまらない」をまねて詩を書いてみた。今風に言うと、パクって見た。「なきだしたら ぼくとまらない」という一行目の「なきだしたら」をほかのことばに変えて、その気持ちを書いてみる。登場人物は「ぼく」(架空の人間)でも、自分自身でもかまわない。それが条件。
名前を伏せてランダムに作品を読んで行き、感想を言う。そういうことをやってみた。自分の作品でも、「ここがいいね」「ここが気に食わない」というように、他人のふりをして感想を言ってみよう、ということで始めたのだが、これはなかなかむずかしくて、自分の作品について語るとき、どうしても「種明かし」をしてしまう。そのため、いつもやっている「この作品の主人公は何歳? 男? 女?」という質問を交えて、ことばの運動そのものを追いかけてみるということはできなかったが、みんなで語り合うというのは、ひとりで読んでいるときは見えないものが見えてきて楽しい。
参加者は、香月ハルカ、井本美彩子、青栁俊哉、萩尾ひとみと私(谷内修三)。池田清子は欠席(作品のみ)。櫻井洋司の作品はブログ読者からの投稿。
作品と、感想を紹介する。
とまらない 井本美彩子
ありのぎょうれつ おいかけたら
もう とまらない
はみだして
さまよって
つぶやいて
こえをひろう
まっくろのてんてん
えんえんとつづきながら
いつのまにやら きえる
めんどくさいわたしのことを
しばし わすれる
「一番最後が本音かな」
「蟻を見ていて自分がいなくなる感じがする」
「最後の二行が作者の表現したいことかな、と思った。二連目の、こえをひろうがどういう気持ちで書いたのかなあ」
--私は、二連目がすごいなあ、と思った。谷川俊太郎に読ませたいと思った。
「ありのぎょうれつ おいかけたら、もう とまらないから、最終蓮へいたままでの過程がおもしろいですねえ。こういうふうに歌えるのはすごいなあ」
蟻の行列を追いかけるというのは、おとなはしない。無意味だからだ。でも、こどものときには、そういうことをしたかもしれない。じっと見つめるのも「追いかける」という動きの一つだと思う。
二連目がとても印象的だ。「はみだして/さまよって/つぶやいて/こえをひろう」というのは、こどもの感覚ではない。「はみだして/さまよって」は蟻の動きに見えるが、見ている人のこころのようにも感じられる。複数の意味になっている。そして、それが「つぶやいて」へと変わる。さらに「こえをひろう」へと変化する。蟻を見ながら、ことばにならないことばをこころのなかで動かす。知らないうちにこころがもらす声。客観的なことばにはならないけれど、自分ではわかる声。そしてそれを聞いてしまう自分。「こえをひろう」が美しくて、悲しい。
でも、それを美しいとか悲しいとか、「詩的」なことばでくくってしまうと、逆に底が浅くなる。
最後の「めんどうくさい」が、それを救っている。
蟻の行列を見て、あれこれ考えるというのは、ちょっと「めんどうくさい」性格である。特におとなになって、そういうことをしているというのは、かなり「めんどうくさい」。そういうことを「客観化」している。つきはなして、蟻の行列を見る、見ながらおもわずことばをつぶやいてしまうということを、ナンセンスにしている。軽く、軽快にしている。
二連目に戻って言うと、「はみだして/さまよって/つぶやいて」の三行の、「……て」という繰り返しと変化のなかに音楽があり、その響きが「めんどうくさい」を突き破る力になっている。
*
うた 香月ハルカ
うたいだすとあたたかくなる
めにはみえないのにいろんなけしきがみえてくる
ねえさんとみたゆうやけのそら
システィーナせいどうのてんじょうが
うたはこころのふるさと
どこにでもとおいむかしへとんでいける
うたえなかったかあさんとのわかれのミサ
フィナーレでなみだしたコンサート
うたはかみさまのおくりもの
こころのおくからあいしてひかりをともしたい
うたがいつでもそばにあるように
あたたかくくらしたい
「ねえさんが出てくるところと、最後の方の、こころのおくからあいして、というところがいいなあ。心の奥から愛することができる物があるのはすごいなあ」
「みえないのにいろんなけしきがみえてくるや、どこにでもとおいむかしへとんでいけるに時間を超えるものを感じた。とても詩的な印象が強い」
「私も歌が好きだけれど、この詩の中の歌は私が日頃聞いている歌とは少し違ったイメージがある。歌の素敵なところ、見えないものが見えたり、遠いところへ飛んで行ける、歌が人生を豊かにしている部分をほんとうの愛していることが伝わってくる」
「私の詩なので……。私は歌を人生としている。姉が歌を大事にしている。なつかしい気持ちがある。カトリックの家庭なので生まれたときから歌になじみがある。かあさんとのわかれのミサというのも、ほんとうは賛美歌を歌いたかったのだけれど。数年前にバチカンへ行ったときに、ほんとうはシスティーナの中では歌えないのだけれど、特別な配慮で歌うことができた。大切な思い出として残っている。詩は初めて書いた。真ん中の部分は自分が思うような声が出ないときのこととかを書いてみようと思ったけれど、詩のことばで短く書くのがむずかしくて、思いのなかに迫っていく表現に変えていきました」
「作者が香月さんというのはわかりました。音楽の深さが伝わってくる。わかれのミサの部分について聞いてみようかなと思っていたけれど」
「日本の葬儀ではふつうは歌わないですね。クリスチャンは歌います。それでミサにした方がわかりやすいかなと思いました。わかれの日、とかいろいろ表現に悩みました」
「歌を通して人生を語っている。詩的でここちよい」
「詩の背景を聞いて、かみさまのおくりものとか、ひかりをともすの意味が明確になった」
「その人を知ることでわかることばの深みってありますね」
一連目のことばの動きが自然だ。「めにはみえないのにいろんなけしきがみえてくる」というのは、一種の矛盾である。「現実には目には見えない、けれどこころの目には見えてくる」とことばを補うと矛盾ではなくなる。もちろん、こういうめんどうなことをしなくても、そういうことは誰もが経験していることなので、自然に伝わる。
それを引き継いで「ねえさんとみたゆうやけのそら」とつづけたところが、この詩をより親しみやすいもの(自然なもの)にしている。「ねえさん」と見たことはなくても、兄、あるいは妹、弟、母や父、祖父母、さらには友人と夕焼けを見たことは誰にでも経験があると思う。だれかといっしょに夕焼けを見るという経験が思い出され、ああ、そういうことがあったなあ、と作者の肉体に自分の肉体が近づいていく。親近感をもってと、作者と「一体」になることができる。だから「システィーナせいどうのてんじょうが」というのも納得できる。
三行目と四行目が逆の場合「システィーナせいどうのてんじょうが」が先に来た場合は、かなり印象が違うと思う。いきなり「遠い世界」をことばにされてしまっては、それがほんとうのことであっても読者はとまどうと思う。意地悪く言うと「私はシスティーナの絵なんか知らない」と反発を買うかもしれない。
でも「ねえさんとみたゆうやけ」から始まるから、自然に感じる。
この「近く」からはじまり「遠く」へ動く視線は、二連目に引き継がれている。「ふるさと」が最初にあり、次に「遠い」むかしへと動く。
「遠い」がかあさんとの別れ、ミサ、フィナーレとつながる。「フィナーレでなみだしたコンサー」はコンサートのフィナーレで涙ぐんだということであり、母の死とは関係ないかもしれないが、「母のフィナーレ」と読み直すこともできる。そうすると「ミサ」はそのまま「わかれのコンサート」になる。こういう読み方は「誤読」かもしれないが、「誤読」が詩を支えると思う。
作者は「姉と夕焼けを見た」と書いているが、それを兄と見た、弟と見た、おばあちゃんと見た、友達と見たと「読み違える」のも「誤読」。でも、「誤読」するから作者と体験を共有できる。ことばを共有できる。
*
窓辺で 櫻井洋司
お父ちゃんは
話だしたら、とまらない
いつとまるのかな
とまらないかもね
おんなじ話を何度も
きっと心に言葉がひっかかり
とれないんだろうなあ
何を話していたんだっけ
とってあげたいけれど
届いていない心
いつか気がつくのかな
言葉の山に背をむけていた
黙り出したら、とまらない
いつまでも何も言わない
母と父
「お父ちゃんは話だしたら、とまらないというのはわかるし、きっと心に言葉がひっかかりとれないんだろうなあ、とってあげたいというのも印象に残る」
「私も、そこが気になる」
「わかる感じがあるんだけれど」
「微笑ましい夫婦、家族の情景がとてもよく出ている」
「四連目が自分のことを書いている気がするに、だれかのことを書いているのかなと気になった。状況の設定が、自分の中で広がっていく感じがする」
--いま、設定ということばが出たけれど、お父ちゃんというのは何歳ぐらい、どういう人だと思います?
「高齢おじいさん。同じ話を何度も、とか」「私も同じですね」「高齢だと思う」「老人ホームに入っている人とか、コミュニケーションがむずかしくなっているかな」
--私も認知症の人かなあ、と思う。同じ話を何度もするのがとまらない、と読みました。こどもはもう聞き飽きているけれど、父親は何かがこころに引っかかっていて、繰り返すんだろうなあ、と思って読んだ。
で、最後の連の「黙りだしたら、とまらない」はどういうことだと思います?
「夫婦がことばが出なくなって黙りこくってしまう。この詩に、窓辺でというタイトルがついているのがおもしろいですね。家族の一情景だと思う」
「話しだしたらとまらないと似ているかな。私の母は家族がそろっている夕食のときは話すけれど、昼にふたりでいると黙ったままでコミュニケーションが成り立たない。そういう状況かな」
「コミュニケーションがむずかしいおじいちゃんで、自分のことばが相手に届いているか認知できない。だから、人がいたらしゃべるけれど、自分からの発信だけなのかな」
「私は祖母のことを思い出した。施設の人には気をつかって話すけれど、息子に対しては話さない。そこから類推だけれど、父は母に心を許していて、しゃべらなくてもいいと思っているのかも」
「いっしょにいるだけでいい、という感じ」
--うーん、私はみなさんとは違うことを考えた。人が死んだら、もう喋れないですよね。黙ってしまう。黙ったまま、それがつづいている、ということを「黙り出したら、とまらない」と読みました。死んだということを書いているのかな、と。前半は、生きていた父の思い出、と。
「うーん」
「話だしたら、とまらない」と「黙り出したら、とまらない」の対比(対句構成)がとてもいい。詩(ことばの運動)を完璧にしている。
「話だしたら、とまらない」というのは認知症の状態かもしれない。ただ止まらないのではなく、何度も何度も、こわれたレコードのように繰り返す。繰り返してしまうのは、「記憶」に何かがひっかかっているのかもしれない。もし、そのひっかかりを取ってあげることができれば、父のことばは正常なレコードのように曲の最初から最後までを奏でることができるかもしれない。そのことばは美しい音楽を聴いたときのように感動を引き起こすかもしれない。「とってあげたいけれど」ということばのなかに作者のやさしさ、愛情が溢れている。
何度も何度も聞いた話なので、何を話したか覚えているはずなのに、覚えているのは同じことを繰り返し話したということだけ。同じ話なので、またかと思い、聞きそびれている。聞いたにもかかわらず、聞いたということ以外を覚えていない。「言葉の山に背をむけていた」には作者の後悔が含まれている。悲しい反省が込められている。
その父は死んだ。沈黙した。この沈黙は「止まらない」。「母と父」と最終行にあるから、両親ともに死んでしまった。悲しい記憶だが、記憶の中で両親は生きる。語りかけてきたことば、語りかけてくる行為がいつまでも生きる。
*
とまらない 青栁俊哉
うたいだすとわたし とまらない
鉄わんアトムのうたも せいじゃの行進も
アイネクライネナハトムジークも
いろんなメロディを
こころのなかでくちずさんで
うたいやみたいとおもっているのに
とまらない
そんなとき わたしはノートをひらいて
まだ形にならない詩のことばをよむ
するとうたは きゅうにだまりこむ
まじめななにかにふれて
そこからいなくなるように
うたもわたしも
なりやむ
「なぜ、うたいやみたいと思うのかなあ。鉄腕アトムも聖者の行進も、こころのなかでくちずさんでいていいのになあ。それを止める詩のことば、なぜ、止める力があるのかな、思った」
「二連目の展開がとてもおもしろい。そこからいなくなるよう、の部分がとても深いものをもっていると感じる」
「まじめななにか、がひどく気になった。最後の、なりやむということばが音楽的ですてきだなあと思った」
「私が書いたのだけれど。これまで谷川のようなわかりやすいような詩は書いたことがないので、苦労しました。書きたかったのは、日頃私たちの頭のなかを飛び交っていることばというのは、音楽もそうなのだけれど、脈絡のない感じがする。そこに対する嫌悪感のようなものがあって、それを止めるために自分の書いているノートを読む。そうすると止まってくれる。そういうことを書いてみようと思った」
「現実にいろんなことばが飛び交っていることに対する嫌悪感?」
「いや、自分の頭のなか。だれかと対話している感じ。それを止めたい」
「私はこの詩のノートのようてものをもっていなけれど、それを読むと止まるというのはよくわかりました」
「詩のことばと戦うような感じは?」
「そういうのは、ないですね。ふだんは自我と自分がのやりとりをしている感じだけれど、詩と向き合って没頭しているときは自分がなくなる感じ。そういうとき、非常に精神的に楽だなあ」
「むずかしい。うたもわたしもなりやむ、というのは、そういうことですか?」
「私の意識がないんです」
「鉄腕アトムがいいですよね。こどもの時代の圧倒的ヒーロー」
「歌詞もいいですよね」
「だから、アトムが消えなくてもいいんじゃない、と思った」
ことばを読み返してしまう不思議な作品。「鉄わんアトムのうたも せいじゃの行進も/アイネクライネナハトムジークも」という展開の仕方には、読者への配慮を感じる。曲名の順序を変えると印象が違ってしまう。いまの展開がいちばんなじみやすいと思う。
私が最初につまずいたのは「うたいやみたい」ということば。私は、こういう使い方をしない。聞いたことがあるかないか、思い出せない。聞いたとしても忘れてしまっている。自分で勝手に「うたうのをやめたい」と言いなおして理解していたのだろう。
この「やむ」が最終行で「なりやむ」に変化する。このことばは自然に響く。「なりやむ」と対応させるために「うたいやむ(やみたい)」ということばがつかわれているのだと思う。
「うたいやむ」から「なりやむ」までの間に、作者の精神、心理の動きが凝縮している。もっと書きたいことがあるのだと思うけれど「15行以内」という条件の詩なので、ことばに無理な圧力がかかっている。しかし、この圧力は、「無理」は「無理」なのだけれど、効果的だったかもしれない。省略されたものを読者に想像させるからだ。
「形にならない詩のことばをよむ」と「うた」が「なにかにふれて/そこからいなくなる」というのは、歌が沈黙の音楽になり、その沈黙と詩人が一体になる感じか。
*
萩尾ひとみ
愚痴がはじまると 母はとまらない
深い穴の中に
どんどん
ずんずん
おちていく
動かない手足を嘆き
役に立たない自分を責め
遠い昔の夫を恨み
世界で一番不幸な女になる
それでも外は春
桜満開
庭のチューリップ
赤、白、ピンク
「おまえもがんばっとるのぉ」
小首をかしげる老犬
母さん、コーヒーでもいれましょうか
「とてもなれた感じ。いろいろな表現がはいっていて素敵な詩。愚痴が始まるとまらないというのは心情的によくわかります」
「一連目は深刻だけれど、二連目はおまえもがんばっとるのぉとか老犬とか、ユーモアがあるなあ。最後の一行、母さん、コーヒーでもいれましょうかが、愛情があって好きだなあと思いました」
「二連目が自分を解放していく心情がいい」
「谷川の穴という作品を読んだ。このおばあちゃんも自分の掘った穴にいる。こどもは穴から空をみると蝶々が飛んでいたりする。このおばあちゃんは上に青空があることに気がつかない。青空が外は春なんだってことなんだけれど」
--遠い昔の夫、というのは、もう亡くなっていないということかな?
「私が書いたんだけれど、あんたが世界で一番不幸な女かよ、というノリ」
「詩は初めてですか? すごい」
母は老いた母だろう。繰り返し繰り返し同じ「愚痴」を語る。「世界で一番不幸な女になる」は悲しいことだけれど、「世界で一番」という部分に「愉悦」がある。陶酔がある。「どんどん/ずんずん」には「一番」に向かっていく「勢い」のようなものがある。「世界で一番」を楽しんでいる。
作者も、それを受け入れている。ただの不幸はつらいが、「世界で一番」なら、なんとなく、不幸にも「価値(意味)」が生まれる。
その「価値」を引き継いで、二連目が転調し、明るくなる。「桜満開/庭のチューリップ/赤、白、ピンク」は誰もが知っている春だ。「定型」の安心感がある。
「おまえもがんばっとるのぉ」は誰のことばだろうか。詩人が老犬に語りかけたことばかもしれないし、老いた母が老犬に語りかけたことばかもしれない。あるいは、老いた母が詩人に語りかけたことばかもしれない。自分の不幸を嘆きながら、娘の不幸についてもわかっているよ、と語りかけているかもしれない。
こういうことは作者に対して、どっち?と質問してはいけない。詩人の答えを待っていてはいけない。読者が自分で「誤読」する。「誤読」することで、作者を自分の方へひっぱってくる。
「読む」というのは読者が自分を作者の方へ近づけていくことだが、近づいて作者に自分を重ねて「わかる、わかる」と言うだけではなく、そこでつかみとった「こころ」を自分のものとして生きなおすとおもしろい。
そこから「母さん、コーヒーでもいれましょうか」と自分の声で言ってみる。いつもの自分の声とは違う響きがそこに入ってきているのに気がつく。詩人の「人柄」を自分のものにして、自分自身が生まれ変わる。そういうことを楽しむことができる。
*
止められない 池田清子
私は甘いものが止められない
血糖値、コレステロール、糖尿病
認知症、歯周病、皮膚病、
食べなければ、何の心配もいらないのに
止められない
甘い物中毒
麻薬を止められない人の気持が少しわかる
甘い物は麻薬だ
シュークリーム、じょうよ万十、ラムレーズンチョコ
太鼓焼、ヨックモック、おはぎ、バームクーヘン
だめだこりゃ
痛さやつらさが大きくなると
甘い物が止められないなど
何と甘っちょろい悩みかと思う
でも大事なことなんだよなあ
「切実な思いが具体的に伝わってくる」
「リアルだなあ。おもしろいと思ったのは病気の名前が具体的に書いてあるところと、甘い物が同じように具体的に書いてあるところ」
「食べ物が具体的に書いてあって、わかりやすい」
「麻薬を止められない人の気持が少しわかる、というのが私の気持ちにぴったり。甘いものが好きだから」
「じょうよ万十は、上用(じょうよう)じゃないかしら」
「ヨックモックというのは?」
「薄いクッキーにチョコレートが挟んである。有名なお菓子です」
「甘い物と、甘っちょろいをかけているのかな」
「食べ物の誘惑は大きいですね。人間、動物だから」
「コレステロールと甘い物って関係あるんですかね」
「太るから。まわりまわって……」
「皮膚病は、バランスがわるくなるからかなあ」
「認知症は、甘いものがまわりまわって」
「うーん、病気の話になってしまったね」
「最後の、でも大事なことなんだよなあ、がとても印象的だった」
「これ、何が大事なことなんですか?」
「やめないきゃいけないことじゃないですか」
「一か月食べるな、と言われたら我慢できません」
「チョコレートの説明書きなんかを読むのも好きです」
「食後にシメみたいな感じで食べたいね」
「食後は食べたくないなあ」
最後の二行が楽しい。「甘っちょろい悩み」というのは、学校文法では「甘い物が止められない」ということを指すのだと思うが、「意味」に要約してしまうと味気ない。
「甘い物」ということばになる前に、それは「シュークリーム、じょうよ万十、ラムレーズンチョコ/太鼓焼、ヨックモック、おはぎ、バームクーヘン」と書かれていた。ほんとうはもっともっとあるのだと思う。その「要約以前(無数のことば)」が「甘っちょろい」の「正体」という感じがする。だから、詩人はもっともっと甘い物を具体的に書いた方がよかったと思う。
作者が書いている「甘い物」では、私は「じょうよ万十」と「ヨックモック」を知らなかったが、知らないことばがたくさんある方が楽しいと思う。作者が見えてくる。「他人」というのは、わからないことがあるから「他人」。それが「甘い物」と言ってしまえば誰でもわかるが、誰も知らない「甘い物」まで並べると、きっと驚きになる。あ、このひとは、こんなに甘い物を知っているという驚きが、「親近感」にかわる。そういうことがあってもよかったかな、と思う。
*
赤いお星さま 谷内修三
赤いものさがし ぼくとまらない
赤いトマト赤いニンジン赤いピーマン たべられるよ
ママの好きな赤いセーターきて
赤いキリン赤いライオン赤いカバかいた
みんなはちがうと笑うけど
ころんだときママがおしえてくれた
おひざが赤いなみだ ながしてる
ないてる人いたら 手つないでまもってあげよう
だいじょうぶ ぼく 赤いものあつめる
どっくんどっくん 赤いしんぞうがつながるよ
でも 赤いお星さまはどこ?
ぼくの手なめるネロ ぬれた赤いした
「リズムがあって、詩をよく書いた人の作品かな」
「赤い、赤いがつづくので、逃げ出したくなった」
「赤をテーマにしたバリエーションの詩。詩は、けっこうバリエーションをつかい、物語を作っていく。そういう詩」
「赤いキリン赤いライオン赤いカバといところにひっかかった。でも小さな子がいろんな絵を描くか。頭が混乱した。最後のネロはネコだと思った」
最終行の「ネロ」は谷川俊太郎が飼っていた犬の名前(だと思う)。谷川の詩の中に出てくる。ママは死んだ。泣きたいのをこらえて、転んで血を流したときママが言ってくれたことばを思い出している、という「内容」。
要約してしまうと、それでおしまい、というのはつまらない詩だねえ。(笑い)
受講生募集中。飛び入りの受講(何回目からの受講)も可能です。ゲストさんかもOKです。30分だけの見学も受け付けています。
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『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com