詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新紙幣

2019-04-10 19:02:10 | 自民党憲法改正草案を読む
新紙幣
             自民党憲法改正草案を読む/番外257(情報の読み方)

 紙幣が2014年に、20年ぶりに刷新されるという。その報道の中で、いくつかわからないことがある。
 2019年04月10日の読売新聞(西部版・14版)の「社説」と「スキャナー」という解説記事。(3面は、14版ではなく12版●になっている)。
 社説にこんな部分がある。

 新札発行は自販機メーカーなどにとっては特需になろう。国内総生産(GDP)を1・3兆円程度押し上げるとの試算もある。

 自販機メーカー、あるいはATMメーカーは新札を判定しなければいけないから、改修(あらたな製造)が必要になる。たしかに「特需」だろう。しかし、自販機を利用している飲料水のメーカー、あるいは設置している会社や銀行にとっては、余分な出費では? その出費は消費者に転嫁されることはないのか。普通の国民に恩恵がなければ、「特需」なんかどうでもいい。
 どんな計算をしているか、「社説」ではさっぱりわからない。「試算もある」と伝聞で書いているから、社説の執筆者が計算したわけでもないと思う。
 政府(安倍)の言うことをそのまま、点検もせずに書いているのかもしれない。
 私は素人だから、テキトウなことを書くが、紙幣を変えるたびに「特需」があり、GDPを押し上げるのなら、毎年変更すればいい。
 そうしないのは、なぜか。「特需」とは別に、変更のための「手間」と「金」が必要になるからだろう。簡単に言うと、損失だね。新紙幣を発行するには、デザインを決め、製造過程も替えないといけない。透かしやら、いろいろあるから単に「版下」の変更だけではすまないだろう。とても「ただ」でできるとは思えない。それにかかった費用は、だれが負担する? まあ、ここでも造幣局に納品している印刷関係の企業には「特需」があるのかもしれないけれど。
 さらに、解説記事。そこには新札は、偽造対策もある、と書いてある。ところが、その「偽造問題」に関しては、こう書いてある。

日本では紙幣の偽造は相対的に少ない。法務省の犯罪白書によると、通貨偽造で検挙された件数は、前回お札を刷新した2004年には2957件あったが、17年は88件と近年は減少している。

 だったら、変更する必要はないじゃないか。偽札が大量に出回っているから、新札に切り換え、偽札を駆逐するというのならわかるけれど、偽造されていないのに偽造対策って、変じゃないだろうか。
 2004年に偽造が多かったのは、「新札になれていない」国民をだましやすいからだろう。今回も、きっと「新札」が出回った直後には「偽造」が増えるだろう。真贋の区別の仕方を国民が知らない間にだましてしまう、というのが犯罪者の考えることだろう。
 どうみても、「理屈」になっていない。

 新札を発行するのは、「事実」なのだろうが、なぜ、この時期に発表なのか。そういうことを考えてみる必要がある。
 いまは「統一地方選」のさなか。知事選、県議選などはおわったが、まだまだつづいている。そして参院選もある。
 「新札発行」というような、国民が絶対に知らなければならないニュースをこの時期に発表すると、政府(安倍)側のメディアへの露出が多くなる。いい宣伝である。新札発行なんて、野党が決めてできることではないからね。
 といういうことは。
 この新札発行ニュースに、安倍の「仕事をしているPR」作戦がからんでいないかどうか、点検しなければならないということだ。
 安倍は、天皇の強制生前退位、新天皇の即位、改元は「静かな環境」のなかで行われるべきだと主張して「4月1日」を避けた。「統一選」の期間を避けた。けれど、その「統一選」のさなかに「新元号」を発表し、つづけて「新札」の発表。これは、どうしたっておかしい。「発表」を政治利用しているだけだ。
 新元号の発表が「5月1日」では国民生活が混乱する(システム改修で混乱する)というが、事前に準備しておけば混乱などするはずがない。「平成」のときと違って、天皇が死んで、その日に改元するのとは違う。「5月1日」に改元するとわかっているなら、「新書類」が整うまでは旧書類でも受け付ける、新システムが整うまでは旧システムも平行してつかう知らせることもできる。「平成」のときだって、旧書類を流用したり、旧システムでしばらくしのいだのではないのか。「平成」への切り替えが終わらないので、それまで業務を休むというような企業がどれだけあったのだろう。
 私自身のことを思い出しても、昭和から平成に変わって、生活にどんな変化があったか、ぜんぜん思い出せない。銀行の金の引き出しに困ったこともないし、カードの支払いで困ったということもない。「国民生活」というような抽象的なことばで説明するのではなく、「個人生活」からきちんと説明してもらわないと、私は納得できない。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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12 水の周辺 17

2019-04-10 15:38:16 | アルメ時代
12 水の周辺 17



   1
 表皮を剥ぎたい。水の肉体を見たい。指をはじきかえす弾力にさわりたい。指の腹にすいつくような、皮膚の内側にひそむ水分を思いおこさせるような、肉質に触りたい。

   2
 表皮を剥ぎたい。表皮と肉の間を走るすばやい流れをなめたい。つるんとして動きなどないように見せかけながら、舌をつつみ水を引き込む流れ、なめらかな重力に触りたい。
   3
 表皮を剥ぎたい。ぷっくらとふくれはじめるものに爪で傷をつけたい。平静な形をとる前の力をねじまげてみたい。乱れを丁寧になぞりたい。

   4
 表皮を剥ぎたい。血のように内部からにじんでくるもの、うっすらとひろがるものを手で汚したい。力まかせに掌でひろげたい。うめきに耳で触りたい。





(アルメ234 、19855年06月25日)
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11 土曜の夜、日曜の朝--汗について思う

2019-04-10 15:37:23 | アルメ時代
11 土曜の夜、日曜の朝--汗について思う



やわらかな夜の鏡は枯れた
闇をくすぐる微熱は落ちてゆき
死んだ魚のようにあぶなく光るものがある
「石を投げられたのか
一散に逃げていく蛇の夢を見た
ちぢみつづける海だとか
黄色い縁取りの鳥だとか、も」
砂の、風紋であるか
何かしら流れようとする意志のように
粗いものが発光する時間である
せきとめられた気配がたまってくるのである
「汗の働きは体温の調整にある
夢の働きは精神の調節にある」
冷房のかびくさい匂いに酔ったのか
薄荷のうすみどりにむかって
ひりつくものがある
シーツの淵から垂直に手をおとし
私は私の位置をととのえる
汗が流れるようにと


(アルメ234 、1985年06月25日)
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10 ベリー・午後二時

2019-04-10 15:32:44 | アルメ時代
10 ベリー・午後二時



「タラマ・ド・レンピックというのは
いつの時代の画家ですか」
ポスターの色はさめて暗い
視力を寂しくさせる横顔である
だがどんな時代の特徴も見出せない
見る力がなくなった
眼ではなくこころに見る力がなくなった
客に答えるコックの声は聞きとれず
突然話題が変わったことを知らされる
「ベリーというのは木の実
ではなく腹、食べてふくれ上がった腹のことです」
知っていることしか頭に入ってこない
入ってこないことを認めるのはつまらないので
「肖像神話」という文字のなかに逃げていったものを探す
しかしこころは動いていかない
細い明朝のかたちが全体をおさえている
少し古くなったスタイルに突き当たって立ち往生する
「ここの鏡、きれいに映るわね」
知らん顔して女は襟をなおしている
鏡のなかから街へ出て行く用意をしている



(アルメ234 、1985年06月25日)
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池澤夏樹のカヴァフィス(112)

2019-04-10 08:44:13 | アルメ時代
112 時が彼らを変える前に

二人は別れるのが本当に辛かった。
そんなことはしたくない。状況がそれを強いたのだ。
生活費を得るために一人が遠くへ行かざるを
得なくなった--ニューヨークか、カナダへ。
二人が感じていた愛は、実は、前とは違ってしまっていた。

 三行目の「一人が」という表現が不思議だ。奇妙な「客観化」がある。それが五行目の「実は」と響きあう。「実は」ということばのなかにも「客観化」がある。
 そして、この詩の最後。

一人の姿はもう一人の中にずっと残るだろう、
二十四歳の美しい若い男として。

 こでも「客観化」されたことばがつづくのだが、私は、ふとこんなことを思う。二人はともに二十四歳だったのか。もしかすると一人が二十四歳で、もうひとりは違う年齢かもしれない。二十四歳は、移民としてギリシャを去る男だろうか。それとも見送る男だろうか。
 二人が別れたのは「事実」だろう。しかし、「二人が感じていた愛は、実は、前とは違ってしまっていた」というのなら、一人がもう一人のもとから去ったというだけのことかもしれない。それを「虚構」を借りて、違うストーリーにしているのかもしれない。
 そのとき去って行った男が二十四歳ではなく、カヴァフィスが二十四歳で、ということもありうる。せめて、去って行った男には「二十四歳の美しい若い男として」記憶しておいてほしいという願いをこめて書いているかもしれない。

 池澤は、こういう註釈を書いている。

 ギリシャ人はもともと離散的な性格なのか、古代にもまた現代でも積極的に国外へ出てゆく。




カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
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https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

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