詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

9 食卓を分類する

2019-04-06 22:45:22 | アルメ時代
9 食卓を分類する



   1
椅子が硬い。これは正しくない。硬さが椅子である。硬く感じるものの一つに椅子があると言い換えてもいい。硬さは、自在な形を夢見る力が否定されたために感じる、一つの存在形式である。

   2
 カップは硬い。自在な形態を否定された存在である。しかし、椅子と同質ではない。硬さを椅子にあずけるこころには、カップは、たとえば、もろい。あるいは、はかない。成形、焼成などの工程が、衝撃を受けとめる力を奪ったためだろうか。

   3
 時間の経った紅茶も硬い。硬いものは冷たい。椅子にもカップにも共通する性質である。しかし、椅子やカップを硬く冷たいものとして分類するとき、紅茶には、別の性質がしのびこむ。徐々ににごってくる。物理的形容詞ではとらえられない何かである。

   4
 沈黙は硬い。ふれると激しい音をたてる。この点では紅茶に似ていないが、紅茶の硬さに近いところもある。形がつかみにくい。椅子やカップがもつ輪郭がない。このために、私は自在な変化を否定され、硬さを強いられている。それを支える椅子やカップであることを強いられている。














(アルメ233 、1985年05月10日)








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8 金星

2019-04-06 22:43:14 | アルメ時代
8 金星



「夕暮れの空に最初に輝くのは金星です
私たちは宵の明星と呼んでいます」
女は帰っていった友との会話を反芻した
「カルカッソンヌでも
夕空に一段と輝くのは金星です」
それから私たちは現代の郷愁について話した
天体の運動も郷愁になるのだ とか
コスモポリタンの郷愁の源泉は普遍的な事実である とか
それはなれないことばから解きはなたれて
気ままに動いた精神の幻かもしれない
私たちの定義は……
「ほんとうは何を言いたかったのだろう」
しばらく私たちは川のように流れる国道をみつめた
急ぎ足の重さに歩道橋が揺れ
ビルの上に星が輝く時間になっていた

















(アルメ233 、1985年05月10日)

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憲法改正バトル

2019-04-06 20:16:15 | 自民党憲法改正草案を読む
憲法改正バトル
             自民党憲法改正草案を読む/番外255(情報の読み方)

 市民とともに考える憲法講座 第四弾「憲法改正する? しない?」が福岡県弁護士会館であった。(2019年04月06日)
 伊藤真と中島繁樹の「バトル」という触れ込みだった。私はこれまで「改憲派」の意見というものをしっかり読んだことがないので、期待して聞きにいった。でも、つまらなかった。中島の発言がいいかげんで、「バトル」にならない。
 中島が(1)現行憲法はマッカーサーに押しつけられたもの(2)自衛隊法3条を現行憲法に書き加える(3)自民党(安倍?)案よりも自分の案の方が優れている、と主張していることはわかったが、「根拠」の説明があいまい。
 さらに、伊藤の主張を新しくない、と批判した。すでに語り尽くされたことである、と。しかし、マッカーサーに押しつけられたものという意見も、すでに語り尽くされたものであり、新鮮味はない。
 一番驚いたのは、前文の「読み方」である。
 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」という部分を取り上げ、「事実ではない」「事実に反する」と言った。憲法前文の文言は、国会審議の前にすでに存在した。マッカーサーの案だ、と言う。
 前文は「事実」の描写ではなく、「理念」を書いたもの。日本国民は、これからこんなふうに生きていきます、ということを書いたもの。憲法そのものも、「現実(事実)」を書いたもの(追認したもの)ではなく、「これから」こういう具合に行動すると書いたものだ。
 だからこそ、あることがらが「合憲」かどうかが問題になる。憲法は「ニュース」ではないから、「そんな事実はない」というのは、改憲の理由にはならない。
 すべての改憲派のひとが同じように考えているのかどうかわからないが、こんな理由で改憲を主張しているとしたら、あまりにも滑稽だ。

 憲法改正が問題になるのは、理念と現実が乖離しているときだ。9条は「空文化」している、ということと関係づけて論が展開した。
 この問題は、後半になって討論の対象になったが、ここでの中島の説明も私にはよく分からない。「世界の国が軍を持っている。憲法に自衛隊を書き加え、憲法で軍を統制する。普通の国になる」。
 問題は「普通の国」である。
 「普通ではない国」「特殊な国」であっては、なぜいけないのか。その問題が検討されているとは感じられない。「軍隊を持って自分の国を守る。それが普通の国」だとして、それでいいのかどうか。「軍隊をもたず外交力で平和を守る」という国であっては、なぜいけないのか。
 積極的改憲派(?)の井上達夫と伊藤のバトルならおもしろかっただろうなあ、と思う。古くさい改憲派の、まるで酔っぱらいのような発言では、「バトル」にならない。

 最後に、聴衆との質疑応答の中で、改憲支持派(?)女性が9条と現実の乖離問題に関して、伊藤に質問した。「外交の背後には軍事力がある。軍事力を持たない国がどうなるかは、チベット、ウィグルと中国の関係を見ればわかる。中国とどう対応するのか」
 伊藤は「軍事力だけではなく、経済力、文化力、理念力というものも大事だ。中国はハウウェイ問題一つをとっても苦労している。経済の問題は重要な外交力だ。チベット、ウィグルで起きたことは残念だが、それがそのまま日本に起きるとは考えられない」と答えていた。
 この答えで質問した女性が納得したかどうか、わからない。

 私がいつも疑問に思うのは、「現実認識」が私と他人ではあまりにも違いすぎることだ。
 伊藤に質問した女性に代表されるが、多くの人が中国や北朝鮮は脅威だという。だが、中国、北朝鮮の何を見て(何を知って)、そう言っているのかわからないことだ。そのひとたちの判断の根拠は? 女性は、チベット、ウィグルを取り上げていたが、もっと自分自身の「身の回り」から質問がないのだろうか。どうして自分の問題として質問しないのだろうか。
 北朝鮮はたしかにミサイルを飛ばした。でも、それは日本攻撃を前提としたもの? 何か危険を感じた? 私は何の危険も感じなかった。遥か上空を飛んでいるのに、建物のなかに非難して頭を抱えるという訓練なんて、ばかばかしいとしか言えない。だいたい、安倍は、それが日本を通り越して太平洋に落下することを知っていたのではないか。日本に落ちてくるかもしれないという嘘をついて何だ楽しいのだろう。
 中国は軍備を拡大していると言われる。でも、それをどうやって確かめた? つまり、そのことで危険を感じた?
 いや、逆に考えよう。
 私は福岡市に住んでいる。近くに福岡城跡がある。公園がある。犬を連れて散歩していると、中国、韓国からの旅行客に会う。朝は、すれ違う人のほとんどが中国人で、日本人は十人もいない。これだけ多くの中国人が来日しているのに、中国が日本を軍事攻撃してくると、どうして考えられるだろうか。中国人にまぎれて公園を散歩しているかぎり、攻撃はされない。戦争なんてない、と思う。
 安倍は、朝鮮半島で「有事」の際、日本人を救出するためにアメリカの空母に助けてもらう、というようなことを言ったが、中国はどうするのだろう。北朝鮮はどうするのだろう。中国や北朝鮮出身のひとが日本にはたくさん住んでいる。救出せず、見殺し? 
 日本だけではなく、世界に目を向けてみてもいい。
 三十年ほど前なら、ヨーロッパの各都市のレストランや美術館には「日本語」のメニュー、案内書があった。いまは、まず「中国語」である。世界中を中国人が歩き回っている。戦争を仕掛けたら、そういう中国人はどうなるのか。国民を無視して、中国がよその国に戦争を仕掛けるということがあるのか。日本を攻撃するということがあるのか。
 私は現実しか考えることができない。
 中国は軍備を拡大していると言われる。でも、国民に対して、海外旅行をするな、という指示は出していないようだ。戦争をすることなど考えているとは思えない。
 「そんなことを言っていて、実際に攻撃されたらどうする? 戦争になったら、どうする?」と言う人がいるけれど、何もできない。戦争になれば、攻撃されれば、死ぬだけである。多くの人がそうだろう。たとえ中国に反撃したとしても、即座に攻撃が止まるわけではないだろう。やはり死ぬのである。人と人が殺し合うのである。
 「家族を守るために戦わないのか」という人もいる。私は戦わない。せいぜいがいっしょに逃げるだけ。いっしょに逃げることができないときは、ただいっしょにいるだけ。戦う方法など知らないし、たとえ銃を持っていたとしても相手に勝つとは思えない。訓練していないからね。銃を構えて射殺されるよりも、「助けて」とお願いする方が生き延びる確率は高い。私にできるのはそれくらいだ。
 自分にできるのは何か、そのとき自分は何をするのか。それをほうりだして「仮定」の議論するのはおかしい。たとえ「仮定」であっても、あるいは「仮定」ならこそ、自分の「現実」をそこに組み込んでことばを動かさないと、何もかもが「仮定」そのものになってしまう。「仮定」ならなんでも言える。戦争になったら、安倍は歩兵の先頭に立って敵陣へ向かっていく。それが総指揮者の理想の姿だ、とさえ言うことができる。そんなことしないでしょ? ことばでなら、なんでも言えるでしょ?
 ことばは、いつも「肉体」と結びつけて動かさないと意味がない。

 あるいはさらに、もっと目を広げてみる。コンビニの店員は外国人が多い。戦争になったら、そのひとたちはどうするのだろう。戦争になってしまえば、コンビニも何もあったものではないかもしれないが、安倍の進めている外国人の奴隷化(その後の日本人の賃金の引き下げ=奴隷化)ということもできなくなる。日本の経済というより、社会そのものがなりたたない。
 軍備に金をつぎ込むこと、それを保障するために憲法を変えるというのは、いわゆる「本末転倒」というものではないだろうか。

 きょうの話題は9条をどうするか。自衛隊をどうするか、ということだった。私は、改憲には反対だ。いまでさえ多くの人が安倍批判をおさえている。安倍を批判すると、自分の生活がどうなるか、わからない。首にはならなくても、出世コースからはずれると、心配している人がいる。一方で、「忖度」する人間だけが大事にされている。
 こういうことは軍が設立されたら、もっと激しくなる。
 それが心配だ。
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池澤夏樹のカヴァフィス(108)

2019-04-06 10:50:35 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
108 ユリアヌスが軽蔑について

「さて、鑑みるに、我らの間には神々への軽侮の念がある」
と彼はもったいぶった口調で言う。
軽侮? しかし彼は何を期待していたのだろう?

 書き出しの三行である。タイトルを参考にすると、ユリアヌスが「さて、鑑みるに、我らの間には神々への侮蔑の念がある」と言ったということだろうか。このときの「言う」は、単に言うというより「指摘した」ということか。その指摘は、何のための指摘? それこそ「何を期待して」そう言ったのだろうか。

 池澤は、こういうことを書いている。

 ユリアヌスは四世紀のローマの皇帝。すでにキリスト教を国教としていたローマ帝国で、ネオプラトニズムに基づくギリシャ風の多神教へ回帰しようとした。そのために「背教者ユリアヌス」と呼ばれる。

 多神教(神々)を「軽侮」するのは、よくない。尊敬すべきだ。池澤が書いているように「多神教に回帰する」ことを期待したのか。
 後半部分。ユリアヌスは、多くの「友人」に書簡を送った。

それらの友人たちはキリスト教徒ではない。
そこは間違いのないこと。それでも彼らは、
(キリスト教徒として育った)ユリアヌス自身のようには、
理論においても具体的にも滑稽な代物にすぎない
宗教組織を相手には遊べない。

 何度読んでも、わからない。
 わからないけれど、(キリスト教徒として育った)が括弧でくくられていることが気になる。なぜ括弧にいれたのか。補足? 補足というよりも、補足を装った「強調」かもしれない。ユ「リアヌスはキリスト教徒として育った」を強調したい。多神教(ギリシャ)とは無関係だ、と言いたいのか。




カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455


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