詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(128)

2019-04-26 10:45:18 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
128 ユリアヌスとアンティオキアの民

美しい暮しぶり、日々の多種多様な
悦楽、肉体へのエロティックな傾倒と芸術との
究極の結びつきの場であるあのまばゆい劇場、
などなどをどうして彼らは
放棄することができたのだ?

 池澤の註釈。

この詩でユリアヌスは快楽主義者だったアンティオキア人がなぜ禁欲主義になったか問うている。

 「意味」はそうだろうが、詩は「意味」とは別なところにある。
 この一連目、「などなど」と書いてあるが、「などなど」がそれではなにかとなると、わからない。「劇場」(演劇/芝居)のことしか書いていない。
 「演劇」とは究極の芸術である。「肉体」がいちばんエロティックに輝く瞬間を取り出して見せるのが「演劇」ということなのだろう。「美しい暮し」も「日々の多種多様な/悦楽」も、「肉体」を修飾することばである。
 カヴァフィスは「芝居」は書いていないようだが、やっぱりギリシャのシェークスピアなのだ。「詩」を「演劇」と見ている。「肉体」を見せる。それから「肉体」にことばをぶつけ、動かして見せる。「肉体」が動くのか、ことばが動くのか、区別はできない。
 詩の最後、

彼らは間違いなくCを選び
間違いなくKを、百回でも、選んだだろう。

 Cはキリスト、Kはコンスタンティウスの頭文字。ユリアヌスは嫌われていた、と書いているのだが、どうにも不思議。
 池澤の「意味」を借りて言えば、ユリアヌスがアンティオキアの住民に嫌われていたということを詩にする理由はどこにあるか。
 むしろ、ユリアヌスを生き生きと描きたくて、わざとユリアヌスを批判しているアンティオキアの住民の姿を最後に対比させたのではないか、と思う。



カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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細田傳造『みちゆき』

2019-04-26 08:25:23 | 詩集
細田傳造『みちゆき』(書肆山田、2019年05月10日発行)

 細田傳造『みちゆき』は、谷川俊太郎『普通の人々』(きのうの日記、参照)とはまったく違う詩集である。あたりまえだが、あたりまえのことを書くのが「批評」だと思うので、そのあたりまえのことを少し書いてみる。
 「鍵」という作品。

童女はわたしをキライだと言った
おしゃべりだからキライだと言った
だから近所の無口のおじいさんになった
おたがいに
道で出会うと黙って
ちいさなおじぎをしてすれちがった
童女が少女になった日
おしゃべりにもどっていいよと告げにきた
へいきになったからしゃべりな
その日少女とバスに乗った
後部座席で堰をきって
わたしはしゃべった
鍵束を見せて
鍵の
ひとつひとつの用途と由来について
しゃべった
七個目の最後の鍵を見て少女が言った
このきんいろの鍵はしってるよ
あたしが生まれた家の鍵
清瀧の
滝壺の鍵

 最後の二行「清瀧の/滝壺の鍵」、これは「固有名詞」なので、具体的に何を指しているかわからない。特に「清瀧」がわからない。しかし、そのことばのまえに「生まれた家」があるので、少女の生まれた家のある場所が「清瀧」なのだろうと、「意味」は推測できる。「滝壺」はその家の「比喩」かもしれない。正確にはわからないが、なんなく「わかった」気持ちになる。
 さて。
 一息おいて、ここからが本題。
 最後の二行を脇においていうのだが、細田のことばも谷川のことばも、「わからない」ことばはない。みんな知っている。でも、「知っている」と「わかる/わからない」は微妙に違う。
 「童女」と「少女」。その違いはまた脇においておいて言うのだが、そのことばが指し示しているものは「わかる」。つまり、勝手に想像することができる。自分の知っているだれそれを思い浮かべることもできるし、街で見かけた名前を知らないこどもを思い浮かべることもできる。これは「童女」「少女」を「意味」として理解しているということになる。
 でも、どんな人間でもそうだが、どんなことばにも、それぞれの「過去」がある。生きてきた「時間」というものがある。それは「固有名詞」をつけられていなくても、確実に存在する。そして、その「固有名詞」の部分(時間)を私は知らない。言いなおすと、細田がここで書いている「童女」「少女」を私は実際に知っているわけではない。だから、その「童女」「少女」のなかの、私の知らない「時間」がことばの奥からむき出しになってあらわれると、私はとまどう。

童女はわたしをキライだと言った

 こどもがおじいさんを「キライ」ということは、よくある。そういう瞬間を見てきたことがあるから、私は「意味」はわかる。しかし、その具体的な「肉体」は、私は「頭で想像する」だけであって、ほんとうは知らない。知らないけれど「意味」がわかるので、理解したつもりになる。
 こういう「ずれ」を細田は丁寧に、具体的に描く。しかも、「肉体」として描く。「おしゃべりだからキライ」、「近所のおじいさんになった」。そのあと、

道で出会うと黙って
ちいさなおじぎをしてすれちがった

 、ここには確かな「肉体」がある。「肉体」なので、それは「童女」と「わたし(細田)」のものだが、「黙って」「小さなおじぎをして」「すれちがった」を、私は私の「肉体」で反芻することができる。反芻するとき、私はたとえば喧嘩しただそれそれとか、大嫌いな会社のだれそれとかを思い浮かべ、そういう「出会い方(別れ方)」はあると納得できる。相手はこどもだが、細田は対等の大人の感覚で「童女」「少女」と向き合っている。それは言い換えれば「童女」「少女」が大人と同じように「過去」を持ってい生きていることを尊重することでもある。その「過去」がどんなものか、明確には書かれていないが、誰にでも「過去」は存在し、それがその人間をつくっている。
 私の体験と細田の体験(ここに書かれていること)が、出会って、「共通の意味」を体験しながら、同時に「共通ではないもの」を受け止める。この「共通ではないもの」を「固有」のものと呼ぶことができるのだが、この「固有」の登場のさせ方が、細田の場合、独特である。「固有」のつかみ方が、それこそ「固有」なのである。
 きのう読んだ谷川の「普通の人々」の「寿子」の場合、

並んでいる商品をしげしげと見る
買わない自分に満足する

 は「固有」ではあるけれど、どこか「抽象」である。「意味」の領域の方が広い、と言えばいいか。
 「篤」の

羊歯の化石を貰う

 になると、ほとんど「抽象」でしかない。何か珍しいものを貰うという「意味」としてしか私にはつかみとることができない。
 細田の場合は、書いていることが「抽象(意味)」を突き破っている。「過去」が噴出してくる。
 芝居の批評の仕方に、「役者の存在感」という言い方があるが、細田のことばにはそれに似たもの者がある。ことばのなかに、すでに「来歴」がある。「演技(意味、ストーリー)」を見せる前に、役者自身がもっている「来歴」を見せ、それで「意味」をかき消していく。かき消してもかき消してもあらわれてしまうのが「意味」だから、そういうものはほっておいて、「存在感」を出してしまえば、それが観客をひっぱっていく。
 それに似た「味」がある。
 谷川の場合は、むしろ「存在感」を消し、「意味」の領域が広いことばの使い方をする。だから「寿子」「篤」という名前が書かれているにもかかわらず、それが誰かわからない。「若い女」や「若い男」になってしまう。
 細田の場合、「童女」「少女」としか書かれていないのに、そのこどもには絶対に名前があるということを感じさせる。私はたまたま名前を知らないが、細田は名前を知っている。知っているから、その名前は「肉体」にしみついているから、ことばにする必要がない。つまり細田の「肉体」になってしまっている、ということを感じさせる。
 この自分たちだけが知っていること、「肉体にしみついていること」が、途中の「鍵」と「おしゃべり」を通って、最後に、ばっと噴出してくる。

あたしが生まれた家の鍵
清瀧の
滝壺の鍵

 ひとはだれでも「生まれた家」を持っている。けれども、その家はひとりひとりが違う。そして、その家で育ってきた「時間」もまたひとりひとりが違う。
 この作品の「童女」「少女」は「おじいさんはキライ、おしゃべりだからキライ」と言うことができる家で育ってきた。「わたし(細田)」はそういうことばを聞いて「無口のおじいさんになる」時間を生きてきた。二人は別々の「時間」を、固有の時間を生きてきた。けれども、その固有の時間を生きるときも「清瀧の家」は、なんというか、変わらずに存在した。そのことは、二人は知ってる。
 そして、そうわかった瞬間。
 あ、ふたりはそれぞれ「固有の時間」だけれど、同時に「共通の時間」というものを生きて、それを抱えて動いていることがわかる。
 で、これが、まるで「道行」のように思えてくる。
 「道行」というのは、かなわぬ恋を成就させるために、男と女が死に向かって旅立つことだが、「童女/少女」と「わたし(細田)」の関係は、それに重なって見える。「道行の恋」のなかの「時間」は「固有」と「共有」がぶつかりあって、まったく別の「固有」を生み出されたものだが、生み出された瞬間に、またそれぞれの「固有」を照らし返すという仕組みにもなっている。

 とてもいい詩だなあ。いい詩集だな。
 「砂浜にて」「沼」「鳥を撃つ」「田部井さんの家の庭」についても書きたいことがあったのだが、長くなったのでまた別の機会に、書けたら書くことにしよう。

 



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