詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新元号報道の罠

2019-04-02 22:44:50 | 自民党憲法改正草案を読む

新元号報道の罠
             自民党憲法改正草案を読む/番外253(情報の読み方)

 新元号が「令和」に決まったが、この報道でいちばん驚いたことは何だろうか。私はテレビを見ないので憶測が入るのだが……。

 私が驚いたのは、元号に「安」の文字が入っていなかったことだ。
 直前まで「安」の文字が入ると大騒ぎしていた。特にNHK(私は見ていないのだが)は「安」の文字が入る「候補」をずらりと並べて見せた。その映像を私はネットで見た。その報道のあと、年号の私物化だという批判がネットに溢れた。おそらく、巷にも溢れたと思う。
 ところが、その「安」がない。
 すると、どういう反応が起きるか。安倍はやっぱりそこまで悪くない。安倍は良心的だ、という評価が「反動」として起きるのではないか。

 そして01日のNHK。私はこれも見ていないのだが(目が悪いからテレビは見ない)、安倍が出て、いろいろ説明した。長時間である。新年号を知らせるためというのが「名目」だろうが、異常なことだと思う。
 というか。
 いまは統一選の真っ最中である。知事選、県議選、政令市市議選。福岡では、三つの選挙がある。その最中に、自民党の安倍が出てきて語る。そこに選挙についての発言がなくても、いい宣伝である。なんといっても「自民党の顔」である。
 ほかの党は、党の存在を知られる機会がない。安倍がテレビを独占してしまう。特にNHKのゴールデンタイムを独占する。

 上田NHKの偏向ぶりが話題になっているが、これも「手の込んだ」偏向の一つである。
 「安」を含んだ元号案の発端がNHKだったことを思い出そう。
 10案のうちの1案に「安」を含んだものがあると報道したのではない。上位10案くらいの全部に「安」があると報道したのである。もちろん「予測」だから、なんとでも言える。「間違い」であっても、たんなる「噂」を報道したといえばすむ。
 そこで安倍を悪者(?)に仕立てておいて、いざ発表というときに「安」の文字が含まれていない。さらに最終候補の6案を公表し、そこにも「安」の文字はないと報道する。
 誰ひとりとして、NHKの「誤報」と批判すこともなく、逆に「安倍は良心的だ」という印象を与える。
 そのための「罠」だったのだ。

 安倍のもっとも好きなことば(得意なことば?)は、「静かな環境」である。
 新しい天皇の即位(実は、いまの天皇の「強制生前退位」)を「静かな環境」で迎えたい。政治的な騒動は即位にふさわしくない。だからその日も「統一選」を避ける。そういう論理だったが、実際に行われたことは、安倍(自民党)の「宣伝」である。安倍が一連の流れをリードし、それを政治に利用したのである。

 だいたい民主主義の国なのだから、どういうことも「静かな環境」など必要がない。天皇は国民の象徴、いいかえれば国民のものなのだから、国民が何を言おうがかまわない。言わないといけない。私は元号を自分からはつかわないが、元号もそれをつかう国民のものであり、いろいろな意見を言う機会があるべきだ。つまり、国会できちんと審議しないといけない。「有識者会議」などという密室を通すことで、あたかも安倍がどんな工作もしていないというような「証拠」と思ってはならない。仕組まれていることを隠すために「有識者会議」が利用されているだけだ。
 
 報道の「罠」を点検しないといけない。

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アルメ時代(2)

2019-04-02 20:19:44 | アルメ時代
室町ふたき旅館



磨き込まれ水のように光る玄関の板の間
おばあさんが夕刊を読んでいる
奥の柱や階段が板に映って黒く透き通る
広げられた新聞は小さな舟
おばあさんは夕暮れの光を利用して
短い旅に出る
けれどすぐ引き返してしまう
「人間はどうして同じ道ばかり
たどるんだろう」
それからおじいさんに小さな嘘をつくために
きれいに四つに畳んで
まがった腰で奥へ消える
「読み終わったら世の中のこと
おしえてくださいね 私には
わからないことばかりだから」



(アルメ229、1984年11月10日)

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アルメ時代(1)

2019-04-02 20:18:01 | アルメ時代
鴎外橋


カナダ人が
川岸のぬれた水苔を見てタイドと言った
――近くに海があるの、
――私はバンクーバーで育った。
それから古里の話をしてくれた
――妻とは別れシングルだ。
息子の写真を持っていた
――スマートね、
――うん、ハンサムだ。
私の英語をなおしてくれたわ

女の話を聞いていると
この河口にも源があるとわかる
潮に身をまかせる水は遠くからやってくる
女のことばもカナダ人のことばも
遠くからやってきた
私は振り返ってアルミニウムの欄干に伸びる影を見た
その先の川の上を綿の風は
見えないので耳を澄ました
だが何も聞こえない。
世の中を歩いていないので
私のことばは動いていかない
女のことばを
美しい形にして返せない
「雲がすっかり秋ね」
女の視線をおいかけながら
川面に影をうつす柳のように
女のことばに揺られてみる
「夏の雲と違って大きくなることはない
ただターナーの色にそまっている」


(アルメ229、1984年11月10日)
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谷川俊太郎の世界(1)

2019-04-02 15:01:59 | 現代詩講座
谷川俊太郎の世界(1)(朝日カルチャーセンター(福岡)、2019年04月01日)

 谷川俊太郎「こころから」(ナナロク社『バームクーヘン』、2018年09月01日発行)を朝日カルチャーセンター(福岡)で読んだ。(「チチのこいびと」「いいたいこと」も読んだが、今回紹介するのは「こころから」)参加者は、池田清子、香月ハルカ、井本美彩子、青柳俊哉、萩尾ひとみと私(谷内修三)。私が「講師」ということになっているだけれど、意地悪な質問者という役どころ。みんなで「好き勝手」に読む。感想を言う。「好き勝手」というのは最初はなかなか難しいので、私が「水を向ける」という感じで進めています。

こころから

こころはいれもの
なんでもいれておける
だしいれはじゆうだけど
ださずにいるほうがいいもの
だしたほうがいいもの
それはじぶんできめなければ

こころからだしている
みえないぎらぎら
みえないほんわか
みえないねばねば
みえないさらさら
こころからでてしまう
みえないじぶん

谷内「どこが好きですか? 嫌いなところがありますか?」
井本「二連目のぎらぎら、ほんわか、ねばねば、さらさらが印象的。日本語を教えているので、繰り返しの部分がオノマトペっぽくておもしろい」
香月「前回読んだ作品(あさこ、とまらない、くらやみ)よりも、こころにすーっと入ってきた。ぎらぎらの四行は、谷川さんらしいなあ」
萩尾「私は、ぎゃくにすーっとは入ってこない。でも、ぎらぎら、ねばねばのところが印象的。ほかの部分は文章的で意味が先に出てくるけれど、ここだけは音が先に出てくる。音が響いてくる」
池田「それはじぶんできめなければという一行が印象的」
青柳「こころはいれもので、出し入れが自由というのが谷川さんらしいなと思った。ぎらぎらの四行は、語感というか、どうとってもいいような感じなので谷川さんらしい」
谷内「もし、ここに書いてあるぎらぎらを自分のことばで言いなおすとどうなります?」 (以下、発言者の名前は省略。録音してみたが、私がまだ識別できない。)
「激しい、欲望」「あやしい」
「ほんわかは、どうですか」「愛情」「やさしい」
「ねばねば、は嫉妬」(笑い)「しつこい」「あ、それわかりやすい」(爆笑)「意地悪」
「ことばをいろいろ対比してるんですよね」
「ぎらぎらとさらさら」
「私は、ねばねばとさらさらって感じだと思う」
「順序を入れ換えて、ぎらぎら、ねばねば、ほんわか、さらさらだと印象が変わらない?」
「いまの状態は押して引いて、押して引いて、という感じ。反対のものが向き合っている」
「そうですね。さっき、ねばねばに対して嫉妬という反応があったけれど、嫉妬ってあまりいいイメージじゃないですね。ぎらぎらも欲望とか。その二つは、どちらかというと否定的。でもほんわか、さらさらは、気持ちがいいという感じ。肯定的。否定的なものと肯定的なものが交互に繰り返されている感じがしませんか? ことばはぎらぎら、ねばねばみたいな否定的なことばをどんどん書きつらねていって、思いがけないことまで書いてしまう、深まってしまうという書き方もあるけれど、谷川さんは、ここでは一方を追い詰めるという書き方ではないですね。谷川さんは、両方を書くことで、あなたのこころのなかには両方あるんじゃないですか、と語っているだと思う」
「二連目のこころからだしていると、こころからでてしまうは、どう違うんだろう」
「出してしまうは意図的で、出てしまうは無意識」
「もし、自分のこころにぎらぎらしているものがあったとして、それを出すときってどういときだろう」
「いや、あんまり出さない」「出したくよね」「でも、出てしまう」「逆に、わざとだすときもある」「わかってもらいたくて」
「隠しておきたいのに出てしまう。出してしまっているか、出てしまっているか、難しいね」
「むずかしいことなのに、誰もが知っていることばで言ってしまっている」
「ここがすごいよねえ」
「いまの、出してしまうと出てしまうは反対のことば。ぎらぎら、ほんわか、ねばねば、さらさらも反対のことば。それが向き合って自然な感じでて書かれているのでさっと読みとばしてしまうけれど、立ち止まって読み直すとおもしろい。むずかしいこと、大事なことが書いてあるんですよと感じさせないように書いてある」
「みえない、ということばが繰り返されている。なぜ、何度も繰り返すのだろう」
「みえないじぶん、ってなんだろう。自分って、見えますよね」
「こころ、とか」「わかっていないこころ。そのことをいいたいのかな」
「一連目に、ださずにいるほうがいいもの、だしたほうがいいもの、じぶんできめなければ、と書いているけれど、二連目のだしているとでてしまうの、でてしまうは自分で決めることじゃないよね。そういうときは、どうするんだろう。ぎらぎらというのは、さっき、ちょっと否定的なイメージがあると……」
「出してしまった方がいいときもある」「出さない方がいいとは言えない」
「私、この詩の一連目が腹が立ちました」
「えっ、どうして?」
「自分できめなければ、というところが説教臭いな、と。それに入れ物だから出し入れ自由というけれど、向うから勝手に入ってくるものもあるのに」
「私は最後の、こころからでてしまうみえないじぶんが、どうしてもわからない。どういう意味だろう?」
「出していないつもりでも、人から見て、そう感じられるということじゃないかな。自分にとっては得たいのしれないもの、ということじゃないですかね」
「自分が自覚していないもの、自分の心の中にあるものが、みんなまわりから見えているっていことじゃないですか。それが正確かどうかわからないけれど」
「谷川さんが書いているぎらぎら、ねばねはとか、そのなかで一番自覚していないのにでてしまうものってなんだろう」
「ねばねば」
「でも逆に、ほんわか、さらさらってものも感じることがあるかなあ。自分にとってきもちのいいもの、ほんわか、とかもそういうときがある」
「ところで、「あさこ」を読んだとき、私はだれだろう、何歳くらいだろうということを語り合ったけれど、この詩を書いたのは、女性?男性?何歳くらい?」
「男、女の違いは感じないけれど、若い人ではないな」「いろいろ自覚ができる人」「子どもでもない」「特定の誰かを想定しているのではなく、こころというものを書いた詩かな」
「谷川さん本人だと思った」「だから、説教されている思った?」「そうです」「谷川さんに聞かせたい」(笑い)
「私は、後半よりも前半が好きなんですよ。それで、自分も説教臭いかな、と思った。だから、中学生のときもこういう気持ちはあったかなあという気がします」
「私も中学生かな、と思って読んだ。特に自分で決めなければというのが中学生ぽい。生真面目だなあ、と。私くらいの年齢になると、もう出す出さないというか、出てしまっても気にならない。気にしない」

 こころのなかにあるさまざまな思いは、ある程度、自分の意思で抑制できる。言いたいことを言わずにおさえたり、時期を見計らって言うとか。けれど、言ったときのことばの質感、感情の質感(ぎらぎら、ほんわかなど)のようなものは、なかなか自分では決められない。たぶん、その質感は自分で決めるものではなく、受け手が感じるものだからだろう。そして受け手が感じたものが「間違っている」か「正しい」かは、自分では決められない。そういうふうに受け止められては困るということはあるかもしれないけれど、あくまで受け手が決めること。だから、生きることはむずかしい。あるいは、おかしく、楽しいのかもしれない。
 こういう揺れ動き、あるいは齟齬みたいなあれこれは、誰もが経験することだと思う。読む人にも書いた人にもあると思う。だから、どれが正解というのではなくていいと思う。いま、谷川俊太郎の詩とわかって読んでいるけれど、だれが書いたかわからないまま読んで、あれこれ思う方が、ことばはいろんなことが言える、詩はおもしろいということにつながるかなあ。
 こころにあるものは出し入れ自由というけれど、「勝手に入ってくものもある」という指摘は、とても鋭い。二連目の「みえないじぶん」は感想のなかでも出てきたが「他人には見える」。そして、それは「見える」だけではなく他人のこころのなかへ入っていく。もちろん入ってくるものを「入ってこないで」と拒否し、退けることもできるだろう。でも、どんなに拒もうとしても入ってくるものがある。

こころはいれもの
だいじなものをかくしておく
ひとりでだいじにまもっておく
ひみつにしないほうがいいもの
あたえたほうがいいもの
でもきめることができない

こころのなかへしのびこんでくる
どきどきするゆうわく
かなしいえみ うつくしいなみだ
なまえのつけられないふあん
しらないのにしっていること
しのびこんできて
わたしをぬすんでいく

「勝手に入ってくる」と言ったひとは何を考えていたのだろう。
 想像しながら、「谷川俊太郎」のふりをして、こんな詩を書いてみた。
 「谷川俊太郎になったつもり」の詩をかくこともやってみる予定です。
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 詳しいことは朝日カルチャーセンター(福岡)まで問い合わせてください。
 講座日は第1・第3月曜日13時00分~14時30分
 4月1日(終了)、15日、5月6日(祝日)、20日、6月3日、17日
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池澤夏樹のカヴァフィス(104)

2019-04-02 08:02:52 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
104 アカイア同盟のために戦った人々

勇敢に戦ってけだかい死をむかえた人々よ、
常勝の軍を前にしてなお恐れを知らぬ男たちよ。
敗北の責と諸君にではなくディアイオスとクリトラオスにある。
ギリシャびとは誇りを口にせんとする時、諸君について
《かかる男らをわが民は産した》と言うのだ。
このような讃辞の高みに諸君はある。--

 池澤の註釈。

 ギリシャ古典文学において碑銘は大きな要素を占め、その盛観はギリシャ詩華集などに見ることができるが、これはカヴァフィスによる模作。

 この作品に限らず、カヴァフィスの「墓碑銘」はみな「模作」だろう。模作することでカヴァフィスは、何を引き継ごうとしたのか。

《かかる男らをわが民は産した》

 これは引用を意味しているのだと思う。引用することで、カヴァフィスはギリシャ語の文体を引き継いでいる。カヴァフィスはシェイクスピアのように、ひとびとの「慣用句」を引用する。そうすることで「ひとびと」になる。
 原文がどういうものか知らないし、読んでもわからないのだが、《かかる男らをわが民は産した》の「産した」という訳語はとても強い。日本語でも墓碑銘を書くときは、「和語」ではなく「漢語」の響きがあることばを選ぶだろうなあ、と思う。「古典」へ帰る。そうすることで自分たちが何者であるかを確かめる。ことばには、そういうことを支えてくれる力がある。「文体」にも。

 余談だが、きのう発表になった新元号「令和(れいわ)」は奇妙な「日本語」だ。万葉集から取ったというが、その文章の「原典」は中国の古典を踏まえているとも言われている。
 奇妙と感じるのは「ら行」からはじまるからだ。私の耳は、どうもついていけない。せめて「りょうわ」なら読みやすいし、聞きやすいと思う。「音感」というのはひとによって違うから、何とも言えないが。
 池澤の訳の「産した」は「産んだ」でも意味は同じだが「さんした」の方が響きが言い。耳の中に、ことばがすっと立つ感じがする。







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