谷川俊太郎の世界(1)(朝日カルチャーセンター(福岡)、2019年04月01日)
谷川俊太郎「こころから」(ナナロク社『バームクーヘン』、2018年09月01日発行)を朝日カルチャーセンター(福岡)で読んだ。(「チチのこいびと」「いいたいこと」も読んだが、今回紹介するのは「こころから」)参加者は、池田清子、香月ハルカ、井本美彩子、青柳俊哉、萩尾ひとみと私(谷内修三)。私が「講師」ということになっているだけれど、意地悪な質問者という役どころ。みんなで「好き勝手」に読む。感想を言う。「好き勝手」というのは最初はなかなか難しいので、私が「水を向ける」という感じで進めています。
こころから
こころはいれもの
なんでもいれておける
だしいれはじゆうだけど
ださずにいるほうがいいもの
だしたほうがいいもの
それはじぶんできめなければ
こころからだしている
みえないぎらぎら
みえないほんわか
みえないねばねば
みえないさらさら
こころからでてしまう
みえないじぶん
谷内「どこが好きですか? 嫌いなところがありますか?」
井本「二連目のぎらぎら、ほんわか、ねばねば、さらさらが印象的。日本語を教えているので、繰り返しの部分がオノマトペっぽくておもしろい」
香月「前回読んだ作品(あさこ、とまらない、くらやみ)よりも、こころにすーっと入ってきた。ぎらぎらの四行は、谷川さんらしいなあ」
萩尾「私は、ぎゃくにすーっとは入ってこない。でも、ぎらぎら、ねばねばのところが印象的。ほかの部分は文章的で意味が先に出てくるけれど、ここだけは音が先に出てくる。音が響いてくる」
池田「それはじぶんできめなければという一行が印象的」
青柳「こころはいれもので、出し入れが自由というのが谷川さんらしいなと思った。ぎらぎらの四行は、語感というか、どうとってもいいような感じなので谷川さんらしい」
谷内「もし、ここに書いてあるぎらぎらを自分のことばで言いなおすとどうなります?」 (以下、発言者の名前は省略。録音してみたが、私がまだ識別できない。)
「激しい、欲望」「あやしい」
「ほんわかは、どうですか」「愛情」「やさしい」
「ねばねば、は嫉妬」(笑い)「しつこい」「あ、それわかりやすい」(爆笑)「意地悪」
「ことばをいろいろ対比してるんですよね」
「ぎらぎらとさらさら」
「私は、ねばねばとさらさらって感じだと思う」
「順序を入れ換えて、ぎらぎら、ねばねば、ほんわか、さらさらだと印象が変わらない?」
「いまの状態は押して引いて、押して引いて、という感じ。反対のものが向き合っている」
「そうですね。さっき、ねばねばに対して嫉妬という反応があったけれど、嫉妬ってあまりいいイメージじゃないですね。ぎらぎらも欲望とか。その二つは、どちらかというと否定的。でもほんわか、さらさらは、気持ちがいいという感じ。肯定的。否定的なものと肯定的なものが交互に繰り返されている感じがしませんか? ことばはぎらぎら、ねばねばみたいな否定的なことばをどんどん書きつらねていって、思いがけないことまで書いてしまう、深まってしまうという書き方もあるけれど、谷川さんは、ここでは一方を追い詰めるという書き方ではないですね。谷川さんは、両方を書くことで、あなたのこころのなかには両方あるんじゃないですか、と語っているだと思う」
「二連目のこころからだしていると、こころからでてしまうは、どう違うんだろう」
「出してしまうは意図的で、出てしまうは無意識」
「もし、自分のこころにぎらぎらしているものがあったとして、それを出すときってどういときだろう」
「いや、あんまり出さない」「出したくよね」「でも、出てしまう」「逆に、わざとだすときもある」「わかってもらいたくて」
「隠しておきたいのに出てしまう。出してしまっているか、出てしまっているか、難しいね」
「むずかしいことなのに、誰もが知っていることばで言ってしまっている」
「ここがすごいよねえ」
「いまの、出してしまうと出てしまうは反対のことば。ぎらぎら、ほんわか、ねばねば、さらさらも反対のことば。それが向き合って自然な感じでて書かれているのでさっと読みとばしてしまうけれど、立ち止まって読み直すとおもしろい。むずかしいこと、大事なことが書いてあるんですよと感じさせないように書いてある」
「みえない、ということばが繰り返されている。なぜ、何度も繰り返すのだろう」
「みえないじぶん、ってなんだろう。自分って、見えますよね」
「こころ、とか」「わかっていないこころ。そのことをいいたいのかな」
「一連目に、ださずにいるほうがいいもの、だしたほうがいいもの、じぶんできめなければ、と書いているけれど、二連目のだしているとでてしまうの、でてしまうは自分で決めることじゃないよね。そういうときは、どうするんだろう。ぎらぎらというのは、さっき、ちょっと否定的なイメージがあると……」
「出してしまった方がいいときもある」「出さない方がいいとは言えない」
「私、この詩の一連目が腹が立ちました」
「えっ、どうして?」
「自分できめなければ、というところが説教臭いな、と。それに入れ物だから出し入れ自由というけれど、向うから勝手に入ってくるものもあるのに」
「私は最後の、こころからでてしまうみえないじぶんが、どうしてもわからない。どういう意味だろう?」
「出していないつもりでも、人から見て、そう感じられるということじゃないかな。自分にとっては得たいのしれないもの、ということじゃないですかね」
「自分が自覚していないもの、自分の心の中にあるものが、みんなまわりから見えているっていことじゃないですか。それが正確かどうかわからないけれど」
「谷川さんが書いているぎらぎら、ねばねはとか、そのなかで一番自覚していないのにでてしまうものってなんだろう」
「ねばねば」
「でも逆に、ほんわか、さらさらってものも感じることがあるかなあ。自分にとってきもちのいいもの、ほんわか、とかもそういうときがある」
「ところで、「あさこ」を読んだとき、私はだれだろう、何歳くらいだろうということを語り合ったけれど、この詩を書いたのは、女性?男性?何歳くらい?」
「男、女の違いは感じないけれど、若い人ではないな」「いろいろ自覚ができる人」「子どもでもない」「特定の誰かを想定しているのではなく、こころというものを書いた詩かな」
「谷川さん本人だと思った」「だから、説教されている思った?」「そうです」「谷川さんに聞かせたい」(笑い)
「私は、後半よりも前半が好きなんですよ。それで、自分も説教臭いかな、と思った。だから、中学生のときもこういう気持ちはあったかなあという気がします」
「私も中学生かな、と思って読んだ。特に自分で決めなければというのが中学生ぽい。生真面目だなあ、と。私くらいの年齢になると、もう出す出さないというか、出てしまっても気にならない。気にしない」
こころのなかにあるさまざまな思いは、ある程度、自分の意思で抑制できる。言いたいことを言わずにおさえたり、時期を見計らって言うとか。けれど、言ったときのことばの質感、感情の質感(ぎらぎら、ほんわかなど)のようなものは、なかなか自分では決められない。たぶん、その質感は自分で決めるものではなく、受け手が感じるものだからだろう。そして受け手が感じたものが「間違っている」か「正しい」かは、自分では決められない。そういうふうに受け止められては困るということはあるかもしれないけれど、あくまで受け手が決めること。だから、生きることはむずかしい。あるいは、おかしく、楽しいのかもしれない。
こういう揺れ動き、あるいは齟齬みたいなあれこれは、誰もが経験することだと思う。読む人にも書いた人にもあると思う。だから、どれが正解というのではなくていいと思う。いま、谷川俊太郎の詩とわかって読んでいるけれど、だれが書いたかわからないまま読んで、あれこれ思う方が、ことばはいろんなことが言える、詩はおもしろいということにつながるかなあ。
こころにあるものは出し入れ自由というけれど、「勝手に入ってくものもある」という指摘は、とても鋭い。二連目の「みえないじぶん」は感想のなかでも出てきたが「他人には見える」。そして、それは「見える」だけではなく他人のこころのなかへ入っていく。もちろん入ってくるものを「入ってこないで」と拒否し、退けることもできるだろう。でも、どんなに拒もうとしても入ってくるものがある。
こころはいれもの
だいじなものをかくしておく
ひとりでだいじにまもっておく
ひみつにしないほうがいいもの
あたえたほうがいいもの
でもきめることができない
こころのなかへしのびこんでくる
どきどきするゆうわく
かなしいえみ うつくしいなみだ
なまえのつけられないふあん
しらないのにしっていること
しのびこんできて
わたしをぬすんでいく
「勝手に入ってくる」と言ったひとは何を考えていたのだろう。
想像しながら、「谷川俊太郎」のふりをして、こんな詩を書いてみた。
「谷川俊太郎になったつもり」の詩をかくこともやってみる予定です。
4月15日は、「とまらない」の書き出しの一行「なきだすと ぼくとまらない」を借りて、「〇〇すると 〇〇とまらない」という詩を書いてみます。「〇〇すると ぼく〇〇ない」もOK。「笑いだすとぼくとまらない」「メール書くとわたしとまらない」とか、いろいろ。
飛び入りの受講(何回目からの受講)も可能です。ゲストさんかもOKです。30分だけの見学も受け付けています。
詳しいことは朝日カルチャーセンター(福岡)まで問い合わせてください。
講座日は第1・第3月曜日13時00分~14時30分
4月1日(終了)、15日、5月6日(祝日)、20日、6月3日、17日
申し込みは、朝日カルチャーセンター、博多駅前・福岡朝日ビル8階092-431-7751
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「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
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なお、私あてに直接お申し込みいただければ、送料は私が負担します。ご連絡ください。
「詩はどこにあるか」2019年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com