詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スティーブン・スピルバーグ監督「ジョーズ」(★★★★+★)

2019-04-24 20:53:30 | 午前十時の映画祭
スティーブン・スピルバーグ監督「ジョーズ」(★★★★+★)

監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 ロバート・ショウ、ロイ・シャイダー、リチャード・ドレイファス

 この映画で見たいシーンは、やっぱり最初の、若い女性がジョーズに襲われるシーン。冒頭の海中のシーン、あの音楽がいったん中断し、浜辺の若者集団(ヒッピー? いま、このことばを知っている人が何人いるか)のシーンがあって、女が海に入ると再び音楽、ズーン、ズーン、ズンズンズンズンズンッとスピードがあがってくる。いやあ、わくわくしますねえ。
 この女を海中から撮るときは、女はなぜかバック(背泳)で泳いでいる。これって、性器が映らないようにって、ことなんだけれど。こういう「遊び」のシーンが、1970年代の映画には必要だったんだねえ。そのころは私も若かったから、一種の「わくわく」感で見たことは確かなので、悪口は言えないけれど。
 で、そのあと。
 ジョーズが女性を襲う。ここ、問題は、ここ。変でしょ? あのジョーズに噛まれて、女が異変に気づく。それが、最初はまるで小さい魚に足の指でもつつかれたような感じ。それから噛まれていると気づく。こういうとき、何が噛んだか、それを見るのがふつうだけれど、女は見ない。見ないまま、助けを求める。その助けを求める女の上半身が水上を左右に走る。ジョースがひっぱり回している。こういうことって、ある? あの巨大なジョーズが、ぱくっ。女の体は一気に噛みちぎられそう。とても「助けて」なんて、叫んでいる暇はないし、その女の体をわざわざ水上に見えるようにジョーズがふりまわすなんてこともありえない。
 と、いいながら。
 見たいのは、ここなんだよなあ。こんなシーン、映画でないと見られない。泳いでいた女が突然見えなくなる、というのではぜんぜんおもしろくない。推理小説ではないのだからね。
 ありえない、でも、女の方からすれば、こうでしかない。即死かもしれないけれど、ジョーズに襲われた、えっ、どうしよう、助けて、早く助けて、助けてくれないと死んでしまう。必死に叫んでいる。きっと、それはとてつもなく長い時間。その「ありえない切実な時間」を、観客は、自分は大丈夫、映画を見てるんだからと半分安心しながら、自分こと、自分の恐怖として体験する。
 そして、女が水中に引き込まれたあと、なんとなく安心する。半分安心ではなく、完全に安心する。さあ、映画がはじまるぞ、と思いなおすといえばいいのか。

 見るものを見てしまうと、あとは、余裕(?)で見てしまうというか、半分よそ見をしながら映画を見てしまう。
 そしてよそ見をしながら気づいたことがある。
 この映画では「眼鏡」が以外に働いている。ロイ・シャイダーとリチャード・ドレイファスが眼鏡をかけているが、もうひとり、二番目の犠牲者になった少年の母親がやはり眼鏡をかけている。それに対してロバート・ショウと市長が眼鏡をかけていない。ここに「キャラクター」が反映されている。眼鏡をかけている登場人物は、舞台の「島」からみると「部外者」、よそ者。少年の母親は島の住民だが、息子がジョーズに殺されたことによって、島の住民からは違った立場になってしまった。彼女は「守られる人」から「守る人」になった。「島を守るための人」が眼鏡をかけているのだ。島の人ではない、という「アイデンティティ」のようなものだ。
 ロバート・ショーは「守る人」なのに眼鏡をかけていない、と反論する人もいるかもしれないが、彼はまた「立場」が違う。ロバート・ショーは島を守っているのではなく、自分を守っている。鮫に復讐するために戦っている。島の人を守りたいからではない。もうひとりの眼鏡をかけていない重要人物、市長もまた自分を守っている。保身のために行動している。人食い鮫があらわれた、ということでバカンス客がやってこなくなれば、島の経済は成り立たない。それでは市長の職を奪われてしまう。関心は住民、バカンス客の安全ではなく、自分の「地位」。
 このあたりの「細工」がなかなか手が込んでいておもしろい。ロイ・シャイダーがジョーズ退治にゆくとき、妻がちゃんと「予備の眼鏡は靴下といっしょに入れてある」というようなことをさりげなく言うのもいいなあ。ロイ・シャイダーが泳げないという設定も、「よそ者」を強調していておもしろい。
 それから。
 このころのスピルバーグは、小柄な役者が好きだったんだねえ、と思ったりした。ロバート・ショウ、ロイ・シャイダー、リチャード・ドレイファスは三人とも小さい。小さいと、なんというか、「人間(役者)」がスクリーンを動かしていくというよりも、「ストーリー(映像の変化)」がスクリーンを動かしていくという感じになる。役者のダイナミックな表情や動きにひっぱられてスクリーンに釘付けになるという感じではない。「未知との遭遇」のトリュフォーも小柄だった。「インディ・ジョーンズ」のハリソン・フォードは小柄ではないかもしれないが、存在感が薄っぺらい。リーアム・ニーソンとか、ダニエル・デイ・ルイス、トム・ハンクスのような大柄な役者をスクリーンに定着させる技術をまだ確立していなかったのかもしれない。スピルバーグがどんな役者をつかってきたか、それを辿りなおすことでスピルバーグのやっていることが、また違って見えてくるかもしれない。
 見落としてきたスピルバーグの発見という意味では、制作しているという「ウエストサイド物語」に、私はとても期待している。音楽とスピルバーグは、どう向き合うのか。バーブラ・ストライザンドが「イエントル」を監督したころ、どこかで二人が目をあわせ、そのとき火花が散ったというような記事を読んだ記憶がかすかにあるが、そのころから「音楽」を映画にすることに関心があったのだろうか。「ウエストサイド」の音楽は変えようがない。それを、どう使いこなすのか。私は、わくわくを通り越して、実は、ドキドキしている。見たい。

 (午前10時の映画祭、2019年04月23日、中州大洋1)


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16 犬

2019-04-24 11:45:02 | アルメ時代
16 犬



木枯らしの底辺を犬が走っていく
あの犬は何度も見たことがある
茶色のどこにでもいるただの雑種だ
夏は脳を沸騰させ冬は脳からこごえる
だからといって過敏ではない
少し毛の汚れた犬である
水銀灯の硬質な光をのがれて
郵便局の裏で時々吐瀉物を食べている
縄張りを持たないからいつも小走りである
飼い犬の鎖の長さの一鼻先をかすめることを得意としている
立ち止まるのは信号を渡るときだけである
けっして一匹では渡らない
人の影に隠れて渡る
よらば大樹の影ということばを曲解している
そのくせ知恵があると自負している
低い視線を持っている
そのことが自慢であるのか
足元をするりとぬけてゆき
ズボンの裾を気にする男を振り返ったりもする
尻尾をクリルと曲げて
すっとんきょうなリズムで
春には恋人をつれて歩いたこともあったが
どうせ行きずりだと思っているのか
耳が折れタビをはいた駄犬であった
毛並みのいいのには手をださない
相手のいるのにも手をださない
つまらない自制心だけはある
ようするに痛い目にあいたくないだけである
分を守ることが大切だとつぶやいているが
欲望だけはあるらしく
秋には赤鼻のセックスをなめ
最後かもしれないたかぶりにふるえていた
横丁を曲がり路地を抜け
高速道路下の安全地帯へたどりつく前に
肥満体の飼い犬に横取りされて
高い高い空を眺めることもあった
草を噛んで吐いて草を噛んで吐いて
胃と腸をしずめる日日を繰り返し
水に映った自画像を消すように
蓋のはがれたドブ水をなめた午後
名前を呼ばれることだけを求めて
改札口にまぎれこんだりもした
もはやだれも出歩かない深更
激しく心をひきつけたのは
二丁目の電器屋がしまい忘れたビクターの犬である
思い出したように通るトラックのライトに浮かび
再び闇にのまれて微動だにしない
汗と毛のにおいを持たず一点を見つめて思索している
昼間は水をぶっかけられるので近づきはしないが
かならず反対側を通って観察する
(不動の姿勢 ふむ
あれがいわゆる悟りというものだろうか)
小走りで考える
考えながら走りながらも
ガキとだけはぶつからぬ発射神経を持っている
とりわけ雨上がりには注意する
閉じ込められたからといって反動で過激になるやつは嫌いだ
呼ばれても振り向かない
近づいてきたらぐっとひきつけて突然走り出す
それが今風だと信じている
似たようなブチと真顔で話し合うこともある
聞こえないふりをするのは賛成だ
しかし少しずつ足を速めて逃げ出す方がよかないかね
相槌はそうかねの一点張りである
つまりスタイルは変えない主義である
体になじんだものだけを信じている
保守的と呼ばれることを恥じない
ただ反動的という批判には開き直れない
火曜日は葵ビルのゴミ出し場に弁当のクズが出る
菜食主義者なので必ずカツが残っている
といった最新情報はすぐにおいかける
行けばきまって先着者に追い払われる
それでもこりるといったことがない
覇気がないなどという中傷は耳に入らない
楽しみはかぎなれない小便の上に小便をかけることである
そのために見慣れないチビを尾行することもある
間違っても強いやつの上にはかけない
一匹狼だと思い込んでいる
ビル風にあおられながら
きょうは荒野を疾走しているつもりである



(アルメ238 、1985年12月25日)
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池澤夏樹のカヴァフィス(126)

2019-04-24 10:18:04 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
126 司祭と信徒の大いなる行進

街路を、広場を、城門を
それぞれの暮らしぶりを映した姿で練り歩く。
堂々たる行列の先頭を行くのは
見目よき白衣の若者が
両の腕を上げて掲げた十字架、
我らの力、我らの希望、聖なる十字架。

 「街路を、広場を、城門を」という畳みかけるリズム、それに呼応して響きわたる「我らの力、我らの希望、聖なる十字架」のリズム。この直前には「見目よく白衣の若者が/両の腕を上げて掲げた十字架」という長くてうねるようなリズムがある。このうねりが、うねりであることをこらえきれずに炸裂して「我らの力、我らの希望、聖なる十字架」になったことがわかる。
 カヴァフィスは、やっぱり耳の詩人だ。
 原文を読まずに(ギリシャ語の音を聞かずに)、こういうことは乱暴かもしれないが、「音」には二種類ある。物理的な音と、意識の音。ギリシャ語を聞いていないのだから、物理的な音はわからない。けれど、ことばの運動が明らかにする意識の音なら翻訳されたもの(日本語)でもわかる。私が聞いているのは、「意識の音」だ。
 対象をつかみとり、つなぎあわせ、世界に作り替えていくときの「意識」が聞いている「音」、「意識」が出している「音」。「音のスピード」が正確だ。乱れない。
 カヴァフィスとは異質の音だが、私は西脇にも「意識の音楽」を感じる。「物理的な音」も西脇の場合は美しいが、「意識の音」が「ほんもの」を感じさせる。まるででたらめを書いているようなのに、「手触り」がある。もちろん「意識の手触り」であるが。
 前半の「豪華」なリズムに対して、後半は対照的だ。

年ごとのキリスト教の祭礼だが
今年はまた格別に華やかだ。
帝国はようやく解放された。
神に背いた忌まわしいユリアヌス帝は
もういない。

 「華やか」ということばがあるにもかかわらず、聞こえてくるのは寂しい音楽。この寂しさは、カヴァフィスがユリアヌスに肩入れしていることを感じさせる。
 池澤の註釈によれば、

カヴァフィスはこの異端の皇帝について七篇の詩を書いている--



カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

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