詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本育夫『ボイスの印象』

2019-04-28 19:13:16 | 詩集
山本育夫『ボイスの印象』(書肆・博物誌、1984年09月10日発行)

 山本育夫『ボイスの印象』が復刻された。奥付は初版のときのままなので、それをそのまま記しておく。30年以上前、正確に言えば35年前に発行されている。そのときの本は私の手元には残っていないが、印象は残っている。そして、再度読み直したときの今よりも、やはり最初の印象の方が強い。「いま」を突き破って、「過去」が噴出してくる。
 復刻本は、初版を写真製版したものである。そのため、つるりとした仕上がりになっていて、それがどうも私には気に食わない。
 初版は、薄茶色の「ザラ紙」に活版活字で印刷されていた。(写植ではなく、活版活字だったと思う。)その「手触り」が「美術品」のように「肉体」に迫ってきた。「ことば」よりも、「もの」の印象が強かった。「もの」と戦って、立ち上がってくることばというものを感じた。ことばまでが「もの」になろうとしていた。それが、初版本で読んだときの印象である。
 で、正直に言えば、実はそれしか覚えていない。
 読み返すと、いくつかの詩篇はたしかに読んだかもしれないという記憶があるが、ことばよりも、やはり「もの」だったのだと思う。

 で。

 再び読んでみて、「もの」の印象が初版本より薄れたために、「ことば」が見えてきた、という部分がある。そのことから書いてみる。
 巻頭の「水の周辺」。

坂から泳ぎ着く、水着の、ぐしょぐしょ
濡れそぼった不安、いや
とうにゆき過ぎている、昼の船着場に、
鳥肌も立つ、
思わず驚いてしまう、
すれ違ったそれと、
いきなりきしりたってしまう、誰もが
言わなかったことだ、訳せば
「感情の、忘失。」という巨大な看板の
横文字が剥げかかっている、

 まだまだつづくのだが、とりあえず10行引用した。
 何が書いてあるか。わかったようで、わからない。それでいいと思う。「ことば」ではなく「もの」なのだから。つまり、ここに書かれている「ことば」は「意味」を前面に出しているというよりも「意味」を隠している。しかし、「もの」の「意味」というのは隠しても隠しても見えてしまうものである。
 たとえば「水着」。それが「濡れ」ているなら、水着を着ている人は泳いでいたのだろう。「坂から泳ぎ着く」と、普通は言わない。だから「水着」がいっそう「もの」に見えてしまう。ほんとうは「泳いだ」を隠している。さらには「裸」を隠している。「ぐしょぐょし」とか「濡れそぼった」は「水着」であるけれど、同時に「水着」が隠している「裸」のことかもしれない。
 もちろん、そんなことは山本は書いていない。
 書いていないが、その「隠している過去」が噴出してくる。「もの」としての「ことば」の奥から。そのとき、私が「隠している過去」と書いたものは、山本が隠しているのか、「水着」が隠しているか、それともその「ことば」を読んだ私が隠していたものか。これを区別し、識別するのは、かなりむずかしい。「もの」とはそういう「過去」を勝手に存在させてしまうものだからだ。
 この詩を離れて、身近な「もの」その「もの」について考えてみれば、わかる。「コップ」がある。ガラス製である。水を入れて飲むことができる、とわかるのは、私がコップをつかったことがあるからである。そして、ただ水を飲むだけではなく、このコップいいなあ、と思ったり、このコップ嫌だなあ、と思ったりする。縁が汚れていれば、誰かが飲んだ後だ、洗ってない、と思ったりする。クリスタルでできていれば、これは高いぞと思ったりする。過去にそういうものを見た、そして高いと思ったというようなことが、瞬間的に「目の前」にあらわれてくる。目の前にある「コップ」だけではなく、私の「過去」にある「コップ」が、「過去」そのものとして、目の前にあらわれてくる。
 こういう「もの」の作用、「もの」の存在の仕方を、私は拒絶することができない。どうしても「もの」に引きずられてしまう。
 で、詩に戻る。
 同じことが起きるのだ。
 ひとつひとつの「ことば」が「もの」となってあらわれ、「過去」を目の前に、いまあるものとしてひっぱりだす。
 山本の「ことば」は、わかるようでわからないのは、そこに「学校文法の脈略」がないからだ。「主語」「述語」「目的語」さらには「修飾語」の関係が整然としていない。どのことばとどのことばをどうつないでいけばいいのか、どのことばを基本にして「文章」にすれば「時間」が「物語」として動くのか、その「脈絡」がわからない。けれど、ことばのひとつひとつは、たしかにそこにある。「もの」としてある。そして、そのひとつひとつが「過去」を持っている。

「感情の、忘失。」

 このカギ括弧の中に入ったことばは、「ことば」なのに「もの」であることを、いっそう強調している。山本のことばではないかもしれない。「看板」とあるが、どこかですでに存在していた。それを読んだ。その「読んだ」という「過去」、それが噴出してきている。
 「水着の、ぐしょぐしょ」、隠している「裸」(繰り返すが、書いていない)は、「忘失」したものなのか、もしそうだとして「忘失」したのは「裸」なのか、「感情」なのか。
 そういうことも思うのである。

 唐突に書いてしまえば、こういう「分断された過去」を、それが噴出してくるままに定着させるのが詩の力だろう。
 「整理」すれば、「物語」としてわかりやすくなる。しかし、散文ではないのだから、論理的秩序(整理された秩序)はいらない。「結論」というのは、いずれにしろまやかしである。いつでも否定され、乗り越えられるためにある。そういうものから逸脱する、あるいはそういう「整理(秩序)」を破壊し、未分化の渾沌に引き返し、瞬間瞬間の「分節」の輝きに「何かを見た」と思えばそれでいいのだろう。
 「意味」は、それぞれが勝手につくればいい。人間はどんなときも自分の「意味」しか生きることができない。山本の書きたいことなど無視してもかまわない。

 と、書いて思うのは、やはり初版本の「ザラ紙」である。読みにくい本の手触りである。あの本をつくったとき、山本は「他人の意味」など無視していたと思う。自分で書いたことばなのだから、「意味」はわかる。ことばを読まなくても「意味」は存在している。その存在しているという事実があるから、あとは関係がない。他人が読みにくかろうとどうだろうと、知ったことではない。
 その「わがまま」のなかに、山本のほんとうの「過去(時間)」があったのではないか、と復刻本を読みながら思う。この詩集が「わるい」というのではないが、初版本は嫉妬せずにはいられない「存在感」をもった、とてもいい詩集だった。そこには何か「絶対的」なものがあった。

(注)
アマゾンには「初版本」があるみたいだ。
下のリンク参照。

ボイスの印象 (1984年)
山本 育夫
書肆・博物誌


*

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池澤夏樹のカヴァフィス(130)

2019-04-28 08:21:33 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
                         2019年04月28日(日曜日)
130 一八九六年の日々

 「彼の名誉はすっかり地に落ちた。」と始まる。「性的な傾向がその理由だった。」と説明した後、

世間というものはまこと了見が狭い。
やがて彼は持っていた僅かな金を失い、
社会的な地位を失い、評判を落とした。
三十歳近いというのに一年と続いた職がなかった。
少なくともまっとうな職はなかったのだ。
時には恥知らずと見なされるような取引の
仲立ちで稼いでその場その場を凌いだ。
一緒にいるところを何度か見られたら
その相手も悪評を被るような、そんな男になった。

 この素早い描写がとてもいい。ことばのスピードに詩がある。
 特に「少なくともまっとうな職はなかったのだ。」と書いた後、それを「時には恥知らずと見なされるような取引の/仲立ちで稼いでその場その場を凌いだ。」と言いなおす、その反復の切り詰めたスピードがいい。
 散文(小説)だと、実際に「仲立ち」のシーン、金のやりとり、あるいは「商談」が描かれる。当然、そこには「彼」以外の人間が出てきて、動く。他人の動きとの対比の中で「彼」の姿が鮮明になる。
 詩は、そういう余分を必要としない。むだを省いて「音」を響かせる。
 この一連目を受けて、二連目は「しかし話をここで終えてはならない。それは不公平だ。」という行から、「彼」の「美しさ」が語られる。
 このこと対して、池澤は、

 ものごとの評価の二面性を前半と後半で鮮やかに対比させる作品である。

 と書いている。
 たしかに対比させているが、後半は他のカヴァフィスの作品と似通っている。
 おもしろいのは、やはり前半だ。先に描写のスピードについて書いたが、このスピードは「世間(の了見)」のスピードである。言い換えると「紋切り型」、さらに言い換えると「常套句」。カヴァフィスは、ほんとうに「常套句」に精通している。シェークスピアだ。「常套句」というのは、世間の中を何度も何度も通り抜け完成されたもの。だから、そこには世間が凝縮している。「恥知らず」というひとことで、それがどんなものか、世間の読者は一読して「具体的」に納得する。どんなに「抽象的」に書いても、「具体的」になってしまうのが「常套句」の力だ。



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