詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(101)

2019-04-01 08:40:34 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
101 芸術に託した

わたしは坐って夢想する。  欲望と感覚を
わたしは芸術に託した。  ほのみえるもの、
いくつかの顔や線、 成就しなかった恋の
ふたしかな記憶、 それをあずけた。
美しい形を造るすべを 芸術は知っている。
ほとんど気付かぬうちに 人生を完成し
印象をむすびあわせ 日々をつなぐすべを。

 「いくつかの顔」と書くとき、カヴァフィスは「ひとり」のいくつかの表情を思い描いているのか。それとも複数の顔を思い描いているのか。複数であっても「ひとり」ということになるかもしれない。「理想」の顔である。「芸術」になった顔である。
 「ほのみえる」「成就しなかった」「ふたしか」という「不完全」なものが、「むすびあわ」され、「つな」がれる。そうすると「美しい形」になる。
 逆に言えば、「成就した恋」「たしかな記憶」はそこで完結し、芸術にはならない。芸術にする必要はない。
 だから「美しい形」は自然に生まれるのではなく、造られるのだと言える。「美しい形」に「する」のだ。この「する」を名詞にすると「すべ」になる。そして、この「すべ」のなかを動いているのは「欲望と感覚」である。「すべ」をもう一度動詞に戻すと「夢想する」になる。「欲望と感覚」が「夢想する」。
 一行目に書かれたことを、つぎつぎに言いなおすことで広がっていく詩である。
 このことをさらに逆に読めば、芸術の「美しさ」にふれたとき、ひとは、その結び目をほど、つなぎあわされたものをほどき、ほどかれていくもののなかになつかしい恋の日々を見ることができるということになる。あ、この線、この色、この感覚、そこからはじまる欲望--それを知っている、と思い出すのだ。

 池澤は、

 芸術が人生を完成するという考えかたはいかにもこの詩人にふさわしく、また彼の時代にもふさわしい。

 と書いている。 

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