詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本育夫書下し詩集「全身詩人」十八篇(2)

2020-03-05 11:17:01 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫書下し詩集「全身詩人」十八篇(2)(「博物誌」45、2020年02月15日発行)

05浮かんでいる

不穏な詩を書きたいんだ
と風間はいった
フオン?
とぼくは漢字を探して3秒の旅に出る

 この書き出しは、奇妙に、おもしろい。「時系列」が正しくない。
 「ふおんなしをかきたいんだ」という音を聞いたとき、山本は「ふおん」がつかみきれなかった。「フオン」って、なんだ? 3秒ほど考える。(3秒は、長いぞ。)そして「不穏」だと気がつく。これを山本は「意味」とは言わずに「漢字を探す」という。
 「ひらがな(山本はカタカナで書いているが)」は表音文字。意味を持たない。漢字は表意文字。意味を持っている。漢字を探すことは、意味を探すことだ。
 で、おもしろいのは。
 それでは「時系列」どおりに書くと、それが詩になるかどうか、ということだ。
 書き方にもよるが、きっとめんどうくさい「散文」になる。「事実」を「時系列」にしたがって積み上げていけばいいというものではない。
 ということは。
 と、私は「飛躍」するのだが、「時間」は「時系列」にしたがって流れてはいない(動いてはいない)ということなのではないだろうか。長い時間は「時系列」にしたがって描くことができる。「奈良時代」は、いくら万葉の歌から年号が引っ張ってこられようが「いま」とは重ならない。
 しかし、山本が「不穏」という漢字を探している「3秒」はどうなのだろう。動いていないのではないか。動くことを保留している。「不穏」という漢字(意味)に出会ったとき、それまでとまっていた「3秒」が突然動き出す。「フオン」と「不穏」が同時に動く。同時に動いているからこそ、

不穏な詩を書きたいんだ

 と「3秒」より「あと」のことを先に書けるのだ。書いたあとで「3秒」を整理しなおしているのだ。つまり「3秒」がとまっていたという意識があるからこそ、その「3秒」を動かすために、「不穏」という「漢字(意味)」のなかには「3秒」があると、あとから付け加えるのだ。そうやって、「時系列」をひっかきまわすのである。
 (これを、もっと大胆にやると、さっき書いたことを否定するみたいだが、「いま」に「奈良時代」をもってくる、ということも可能だ。「いま」に「戦前」をもってくることも可能だし、それをやろうとしている人もいるのだが、それは、ここでは触れない。)
 この、ふいに見えてしまった「時間」の秘密は、時間だけではなく、明確にことばにできないものの間でも動いている。「時間」というのは「時」と「時」のあいだである。その「間」を「ま」と呼べば、「魔」と呼びたいようなものが重なってくる。「間」をつかったことばには「時間」のほかに「人間」というものもある。そこに「魔」が忍び込んでくる。「3秒」のように、意識できるのか、意識できないのか、よくわからないものとして。

そんなことをいえば
フオンを抱えた中国人が
世界中に拡散してくる
その不穏、に
匹敵する詩を
書けるかね
風間くん

 これを「新型コロナウィルス」に結びつけて読むこともできるし、急成長する「中国経済」に結びつけて「意味」にすることもできる。でもね、「魔」は「意味」にしてしまうと、それは「解決済み」になってしまう。「新型コロナウィルス」でいえば、終息してしまう。それが「現実世界」では「理想」かもしれないが、詩では「解決/結論」は退屈だ。「未解決」の爆弾のまま、それこそ「不穏ななにか」、名づけられないままの方が魅力的だ。
 山本は、「不穏」を引き受けて、こう書いている。

こころのなかで思ったぼくの右肩上あたりに
例によってぼくのこころがことばになってうかんでいる

 それは「不穏」になりきれない「フオン」そのままである。
 人と人との「間」が「人間」だが、中国人がいなくても(中国人と向き合わなくても)、ひとりでも「人間」のときがある。「私」は「ひとり」なのに、どうも「違う私」がいる。「ぼくの肉体」「ぼくのこころ」。「間」などないはずなのに、その二つを「魔」がつないでいるのだ。ここに「ことば」が割り込んでくる。ことばが「魔」かもしれない。「意味」の定まっていない、ときには「音」にさえなっていないものが、「3秒」のように「時間」をとめてしまう。
 こういうことを山本は「ぼくの右肩(肉体)」と「ぼくのこころ」の乖離(浮かんでいる)として書くのだが、この「魔(間)」を「例によって」と呼んでいるのが、とてもおもしろい。
 「例によって」と書くのは、そういうことが繰り返されるから。つまり、そういうことが何回もあったと山本が「覚えている」から。「覚えている」ことは「肉体になっている」ということである。「意識」ではないのだ。自転車に乗る、泳ぐと同じように、自転車にまたがれば長い間自転車に乗っていない人でも自転車をこげるし、水にはいれば何年間も泳いでいない人も泳げる。「肉体が覚えている」。そういうことが、「ことば」にもあって、それが繰り返されている。思い出して、それにならっている、といえばいいのか。これを「ことばの肉体」の運動と私は呼んでいるのだが。
 そして、それはきっと永遠に「意味」にはならない。
 「意味にはならない」けれど、「ことば」になりたがっているものがある。「意味」は他人に共有されてはじめて「流通」する。「流通」することで「意味」が確立される。
 「ことば」になりたがっている何か(未生のことば)はいったい何なのか。それはわからないままで、私は気にしない。それよりも、「ことば」のなかの「なりたがる」その「欲望」がおもしろい。「本能」と呼んでもいい。
 「欲望/本能」というのは。
 だれでも知ってるでしょ? それは「ことば」にしなくても、「わかる」。
 この「ことば」にしなくても「わかる」ものを、あえて、「ことば」にしないこと、「未生のことば」のままにして放り出す。そこから「欲望/本能」を自分の「覚えている何か」で生み出す、それを手助けする「産婆」のようなものが、詩なのだ。

 なんだか、ごちゃごちゃしてきたなあ。
 私のなかで、やまもとの書いた「3秒」のようなものが交錯しているのだろう。
 これを私は「整理」しない。整えて「結論」にしてしまうと、考えたものと違った形になってしまうからだ。
 だから、別のことを書く。

11吐き出す

咳(せき)がやまない男咳き込む咳き込む
胸のあたりにひっかかっていることばを
吐き出したいが出ない吐き出したいが出ない
そいつを吐き出したい

 「吐き出したいが出ない」の「吐き出したい対象(目的語)」は「胸のあたりにひっかかっていることば」だが、私は、こういう「学校文法」の「意味」は無視して読む。「意味」を伝えるだけなら「胸のあたりにひっかかっていることばを/吐き出したいが出ない」と書けば通じる。そのあとさらに「吐き出したいが出ない」と繰り返す必要はない。そんな不経済なことをする必要はない。
 でも山本は

吐き出したいが出ない吐き出したいが出ない

 と繰りかえしたい。そして、繰り返すとわかるのだが(こうやって、その部分だけを独立させると鮮明になるのだが)、「吐き出したい」ということそのものを「出したい(吐き出したい)」のである。目的語は「吐き出したい」という「欲望/本能」そのものなのである。
 だからこそ、四行目で「そいつを」と言い直すのだ。
 「学校文法」では「そいつ」はもちろん「胸のあたりにひっかかっていることば」だが、詩は「文法」ではなく、「欲望/本能」である。
 だから、詩は、こうつづく。

咳き込むと胸の奥が痛むがかまわず男は咳き込む
ゴホンゴホンゴホンゴホン孤独だがだが
咳き込む咳き込んで吐き出したことばで
書かなければならない明け方までに
あちこちの筋肉が痛くなるほど
全身を使って咳き込む書き込む

 「咳」と「ことば」は同じではない。「咳」によって「ことば」が吐き出されるわけではない。「吐く/吐き出す」という「動詞」が「咳」と「ことば」をひとつの「肉体」(運動)にしている。「肉体」と「ことば」は「動詞」のなかで「ひとつ」になる。それを私は「思想」と呼ぶ。
 この詩では「ことば」は「咳き込む男が詩を書く」という「意味」を差し出すが、「思想」はそんなところにはない。「吐き出したいのに出ない」という「痛み」を抱え込む「肉体」そのものが「思想」になる。これは「共有」できるものではない。あくまでも、ひとりひとりが自分の「肉体」で再現するしかないことである。
 自分の肉体と、他人の肉体を「同一視」するというのは危険な思想かもしれないが、思想とは自他の肉体をひとつにしてしまうものだ。言い直すと他人の肉体を自分の肉体と感じてしまう感受性が思想なのだ。
 たとえていえば、道端でだれかが腹を抱えてうずくまっている。それを見て、あ、腹が痛いんだと感じること。他人の肉体の苦痛なのに、それがわかるということが思想なのだ。そして、もしそれが酔っぱらいだったら(ことばの酔っぱらいを詩人と言うのだが)、その人に「吐きたい? 吐いて。吐くと楽になるよ」と言いながら、背中をさするようなことをするのが詩を読むことなのだ。「吐き出す」という動詞がある詩なのだ、こんなことを書いたが、「触らないでくれ、よけい気持ちが悪くなる」とその人は怒るかもしれないし、そういう瞬間に反吐を顔にぶちまけられるかもしれない。どんな反応がかえってくるか、それからどんな人間関係になってしまうかは、まあ、運次第だね。











*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(47)

2020-03-05 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (--どうでもいい)

彼が吐きすてるようにいつた言葉が
わたしの全身を水浸しにした

 「わたし」は女。「彼」は嵯峨を指しているだろう。
 「わたし」が「彼」に、そう訴えたのではなく、「わたし(彼女)」の姿を見て、そこから「水浸し」という比喩が生まれたのだろう。
 ここには書かれていないが「ぼく」が、彼女が「水浸し」であるかのように感じたのは、「ぼく」がことばを「吐きすてるように」(直喩)言ったからだろう。「意味」ではなく、「肉体(声の肉体)」を嵯峨自身で感じ、そこから比喩が比喩を引き出している。あるいは、「水浸し」と感じから、「吐きすてる」ということばが引き出されたとも言える。
 「肉体」というのは、いつでも「意味」に先行し、それは常に「肉体」のなかで深まっていく。






*

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