詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(50)

2020-03-08 11:35:29 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
引力のめぐる夏野--一冊を残して

眠つた ああ 魂しいと全身で眠つた
土地も 空間も 何色ということがもうない

 中西博子の死を悼む、と書かれている。
 死んでしまった中西にとっては「土地も 空間も 何色ということがもうない」ということか。あるいは中西の死と向き合った嵯峨には、それがないということか。
 詩のつづきを読むと前者であることが明確になるが、そこに書かれていることには触れないで、考えたことを書いてみる。
 なぜ、死者には土地も空間もないのか。土地、空間に縛られない、自由ということか。もし、それが自分をしばるものがないという「意味」なら、そのあとにつづく「何色」というもの、中西をしばる何かだろう。つまり、他人がみた「中西像」というもの、それから自由になる。
 だが、そういうことは可能か。
 この嵯峨の詩自体が中西のことを書いている。人はだれでも他人を縛ってしまう。他人に「色」つきで見てしまうといいなおせばいいだろうか。
 そして、それは生きているときでもそうだけれど、死んでからもそうなのだ。
 それだけではなく、死んでからの場合、「色」で見ること、そこにいない人に「色」を与えることが「追悼」ということでもある。私は、あなたを、この「色」で見る(思い出す)、と語ることが追悼なのだから。

 詩には「矛盾」がある。
 「矛盾」があるから、それは「複数」の読み方ができ、その「読み方」には正解も間違いもない。読むという「動詞」だけが、詩を、「いま/ここ」に現実としてよみがえらせる。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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