山本育夫書下し詩集「全身詩人」(「博物誌」45、2020年02月15日発行)
山本育夫書下し詩集「全身詩人」は18篇。その最初の詩。
二連目の真ん中あたりの、
が非常に印象的だ。オノマトペなのだが、私にはオノマトペとは違ったものとして迫ってくる。音の順序がいれかわり、「たたかったたたかったたかった(戦った戦った戦った)」という「意味」になって迫ってくる。私が「意味」を生きる人間だからかもしれない。
「戦った」に呼応するように「勝った」という「文字」が見えるからだろうか。
書きことばというのは、話しことばと違って「先」が見える。どうしても「先」を見てしまって、それに引きずられて、ことばを勝手に「先読み誤読」するということが起きる。とくに私のように、せっかちな人間は、「いま/ここ」にとどまる、あるいは「いま/ここ」を踏まえるというよりも、「先」をたよりに「いま/ここ」をふりすててしまうと、書いてしまうと簡単なのだけれど、実は、そうでもないのだ。
「なまぬるいことばを/はぎとりこそぎ落とし」という二行に、私は「戦う」ということばを感じているのだ。「はぎとりこそぎ落とし」は「はぎとる」と「こそぎ落とす」という二つの動詞が休むまもなく動いているが、実は二つではなく、「はぐ」と「とる」、「こそぐ」と「落とす」と四つの動詞が緊密に協力しなっている、というよりも、互いの領域を侵入し合っている。すでに、そこに、ちょっとめんどうくさい力が入り組んでいる。これが「戦う」ということばを呼び覚ますのだ。
この詩は書かれているが、もし文字を読まずに、声に出して語られた詩であっても、私は「たったかたったかたったか」を「戦った戦った戦った」、あるいは「戦ったか戦ったか戦ったか」と聞きとってしまうと感じるのだ。
私はもともと耳でしかことばを覚えられない人間で、自分で読んでいるだけでは、ことばをまったく覚えられない。まわりにいるひとの「声」をとおして聞いて、はじめてことばが肉体の中に入ってくる。小説などの外国人の名前がぜんぜん覚えられないのは、それを耳で聞くことができないからだ。カラマーゾフのように、ひとの口から発せられると、やっとそれが覚えられる。そういう奇妙な「くせ」がある。
あ、脱線したが。
何がいいたくて、こんなことを書いたかというと、その印象的な「たったかたったかたったか」は、突然印象的になるのではなく、その前に「音」として「印象」が準備されているから印象的になるのだ。
一連目、
なんでもないことばだが、「ムクリ」と「もたげる」の「ま行」が「頭韻」として肉体の中に入ってくる。「ムクリともたげる」と慣用句だけれど、単に「ムクリと」といえば「もたげる」がついてくるというよりも、音の響きとしてつながっている。「ムクリとしずむ」と言わないのは、音が響きあわないからだ、と私は感じる。少なくとも、私の「肉体」は、そう覚え込んでいる。
「ムクリと/もたげる」のはたいていは「頭」とか「首」であるけれど、山本は、これを「それ」とあいまいに言っている。それは「妄想」の「も」、「黒いもの」の「も」をひきずって、「意味」になろうとしている。「それ」と抽象化することで、山本は、そこに「意味」を与えようとしている。
その動きが、二連目につづいていく。
そんなふうに、私の「肉体」は反応する。
そして「なまぬるい」という、またしても「ま行」を含んだ音に出会う。「ま行」と「な行」は鼻音という共通項のなかで、不思議な響きあい(融合)をみせる。「ら行」もまた、それに「有声音」という共通項でつながる。
「それ」は、私にとっては、そういう「音」の「ひとかたまり」として最初に「肉体」に入ってくる。そのあとに、山本がつけくわえた「意味」が「ことば」として入ってくる。
この「意味」というのは、ちょっと、めんどうくさい。いいかえると、おもしろくない。「肉体」は「音」に反応しているのに、「意味」は「音」ではないからだ。「ことば」という語は、「意味」としてはわかるが、どうも落ち着かない。何か、違和感がある。
いま世間を騒がしている新型コロナウィルスのようなものか。
だから、それを「はぎとりこそぎ落とし」たいという「気持ち」が「肉体感覚」として、とてもよく分かる。「意味」なんか、捨ててしまいたい。
そういう欲望(本能)が、
という「音」になっているのだ。「音」そのものが、「意味」を拒絶することで、新しい「ことば」、「もの」としての「ことば」、つまり一回限りの存在になっているのだ。だから印象的なのだ。
「たったかたったかたったか」は聞いたことがある。この詩につかわれていることばで言い直せば、「行く」「走る」ときに、その姿をあらわすものとしてつかわれる。だが、そういう「慣用句」としてのことばである前に、ここでしか存在し得ない形になっている。「戦った戦った戦った」(戦ったか戦ったか戦ったか)を吐き出す「装置」のようなものになっている。
「音」の入れ代わりは、
にもあてはめることができる。「渦中を戦ったか」と、私の「肉体」は読み違える。「戦い」はいつでも「渦中」であるからかもしれない。
それやこれやで、ことばは、再び「意味」になって「なまぬるいことば」は「ことば列車」にかわる。そして三連目へと駆け抜けていく。
三連目にも「ことば」が出てきて、
と繰り返されるが、この一行は「ことば荒らしよ」なのか「ことば嵐よ」なのか。どちらにもとれるし、「しよ」「しよ」と繰り返される音は、それを「よし、よし」と肯定しているようにも聴こえる。
私の「肉体」は、そう聞いてしまう。
山本が書いている「意味」はわきにおいておいて、詩から響いてくる音を聴きながら、ことばがことばと戦い、意味を拒絶して、暴れ回り、吹き飛んでいく。それを「全身」で引き受けるのが「詩人」なのだと山本が叫んでいる。その山本の「肉体」を見ている気持ちになるのだ。
「02書法」の三連目に楽しい「音」がある。
「かそけき」に「意味」はある。「さしすせ」は「さす」を含むか。前の「音」と重なりながら「きざす(兆す)」にもなる。
でもねえ。
「さしすせそ」というのは、妙に性的な行為を連想させる音でもあるし、それを導くのが「かそけき」となると、「たちぬる」というのは、単に「さしすせそ」「たちつてと」の五十音のつながりでもなくなる。「ぬる」という響きが激しく「肉体」を勃起させる。こういう部分も、いいなあ、と思う。
で、この作品の書き出し。
「崩れる」という動詞が、こういう「音」を引き出しているのかなあ、と思って読み直したりするのである。
*
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山本育夫書下し詩集「全身詩人」は18篇。その最初の詩。
01全身詩人
という妄想の藪(やぶ)の中から
大きな黒いものが
ムクリと
もたげる
それを
行く先は
知らないけど
なまぬるいことばを
はぎとりこそぎ落とし
たったかたったかたったか
いったか
渦中を勝ったか
音立てて
ことば列車が
走り抜ける
遠いあそこまでたどり着けるか1月の
ことばあらしよことばあらしよ
ざわめきの雨の日
二連目の真ん中あたりの、
たったかたったかたったか
が非常に印象的だ。オノマトペなのだが、私にはオノマトペとは違ったものとして迫ってくる。音の順序がいれかわり、「たたかったたたかったたかった(戦った戦った戦った)」という「意味」になって迫ってくる。私が「意味」を生きる人間だからかもしれない。
「戦った」に呼応するように「勝った」という「文字」が見えるからだろうか。
書きことばというのは、話しことばと違って「先」が見える。どうしても「先」を見てしまって、それに引きずられて、ことばを勝手に「先読み誤読」するということが起きる。とくに私のように、せっかちな人間は、「いま/ここ」にとどまる、あるいは「いま/ここ」を踏まえるというよりも、「先」をたよりに「いま/ここ」をふりすててしまうと、書いてしまうと簡単なのだけれど、実は、そうでもないのだ。
「なまぬるいことばを/はぎとりこそぎ落とし」という二行に、私は「戦う」ということばを感じているのだ。「はぎとりこそぎ落とし」は「はぎとる」と「こそぎ落とす」という二つの動詞が休むまもなく動いているが、実は二つではなく、「はぐ」と「とる」、「こそぐ」と「落とす」と四つの動詞が緊密に協力しなっている、というよりも、互いの領域を侵入し合っている。すでに、そこに、ちょっとめんどうくさい力が入り組んでいる。これが「戦う」ということばを呼び覚ますのだ。
この詩は書かれているが、もし文字を読まずに、声に出して語られた詩であっても、私は「たったかたったかたったか」を「戦った戦った戦った」、あるいは「戦ったか戦ったか戦ったか」と聞きとってしまうと感じるのだ。
私はもともと耳でしかことばを覚えられない人間で、自分で読んでいるだけでは、ことばをまったく覚えられない。まわりにいるひとの「声」をとおして聞いて、はじめてことばが肉体の中に入ってくる。小説などの外国人の名前がぜんぜん覚えられないのは、それを耳で聞くことができないからだ。カラマーゾフのように、ひとの口から発せられると、やっとそれが覚えられる。そういう奇妙な「くせ」がある。
あ、脱線したが。
何がいいたくて、こんなことを書いたかというと、その印象的な「たったかたったかたったか」は、突然印象的になるのではなく、その前に「音」として「印象」が準備されているから印象的になるのだ。
一連目、
ムクリと
もたげる
なんでもないことばだが、「ムクリ」と「もたげる」の「ま行」が「頭韻」として肉体の中に入ってくる。「ムクリともたげる」と慣用句だけれど、単に「ムクリと」といえば「もたげる」がついてくるというよりも、音の響きとしてつながっている。「ムクリとしずむ」と言わないのは、音が響きあわないからだ、と私は感じる。少なくとも、私の「肉体」は、そう覚え込んでいる。
「ムクリと/もたげる」のはたいていは「頭」とか「首」であるけれど、山本は、これを「それ」とあいまいに言っている。それは「妄想」の「も」、「黒いもの」の「も」をひきずって、「意味」になろうとしている。「それ」と抽象化することで、山本は、そこに「意味」を与えようとしている。
その動きが、二連目につづいていく。
そんなふうに、私の「肉体」は反応する。
そして「なまぬるい」という、またしても「ま行」を含んだ音に出会う。「ま行」と「な行」は鼻音という共通項のなかで、不思議な響きあい(融合)をみせる。「ら行」もまた、それに「有声音」という共通項でつながる。
「それ」は、私にとっては、そういう「音」の「ひとかたまり」として最初に「肉体」に入ってくる。そのあとに、山本がつけくわえた「意味」が「ことば」として入ってくる。
この「意味」というのは、ちょっと、めんどうくさい。いいかえると、おもしろくない。「肉体」は「音」に反応しているのに、「意味」は「音」ではないからだ。「ことば」という語は、「意味」としてはわかるが、どうも落ち着かない。何か、違和感がある。
いま世間を騒がしている新型コロナウィルスのようなものか。
だから、それを「はぎとりこそぎ落とし」たいという「気持ち」が「肉体感覚」として、とてもよく分かる。「意味」なんか、捨ててしまいたい。
そういう欲望(本能)が、
たったかたったかたったか
という「音」になっているのだ。「音」そのものが、「意味」を拒絶することで、新しい「ことば」、「もの」としての「ことば」、つまり一回限りの存在になっているのだ。だから印象的なのだ。
「たったかたったかたったか」は聞いたことがある。この詩につかわれていることばで言い直せば、「行く」「走る」ときに、その姿をあらわすものとしてつかわれる。だが、そういう「慣用句」としてのことばである前に、ここでしか存在し得ない形になっている。「戦った戦った戦った」(戦ったか戦ったか戦ったか)を吐き出す「装置」のようなものになっている。
「音」の入れ代わりは、
渦中を勝ったか
にもあてはめることができる。「渦中を戦ったか」と、私の「肉体」は読み違える。「戦い」はいつでも「渦中」であるからかもしれない。
それやこれやで、ことばは、再び「意味」になって「なまぬるいことば」は「ことば列車」にかわる。そして三連目へと駆け抜けていく。
三連目にも「ことば」が出てきて、
ことばあらしよことばあらしよ
と繰り返されるが、この一行は「ことば荒らしよ」なのか「ことば嵐よ」なのか。どちらにもとれるし、「しよ」「しよ」と繰り返される音は、それを「よし、よし」と肯定しているようにも聴こえる。
私の「肉体」は、そう聞いてしまう。
山本が書いている「意味」はわきにおいておいて、詩から響いてくる音を聴きながら、ことばがことばと戦い、意味を拒絶して、暴れ回り、吹き飛んでいく。それを「全身」で引き受けるのが「詩人」なのだと山本が叫んでいる。その山本の「肉体」を見ている気持ちになるのだ。
「02書法」の三連目に楽しい「音」がある。
1000年前の地層から匂い立つ
かそけきさしすせ
そたちぬるを
「かそけき」に「意味」はある。「さしすせ」は「さす」を含むか。前の「音」と重なりながら「きざす(兆す)」にもなる。
でもねえ。
「さしすせそ」というのは、妙に性的な行為を連想させる音でもあるし、それを導くのが「かそけき」となると、「たちぬる」というのは、単に「さしすせそ」「たちつてと」の五十音のつながりでもなくなる。「ぬる」という響きが激しく「肉体」を勃起させる。こういう部分も、いいなあ、と思う。
で、この作品の書き出し。
申し忘れたが
すでにその書法は書き崩れた
「崩れる」という動詞が、こういう「音」を引き出しているのかなあ、と思って読み直したりするのである。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
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(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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