詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本育夫書下し詩集「全身詩人」

2020-03-01 19:50:49 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫書下し詩集「全身詩人」(「博物誌」45、2020年02月15日発行)

 山本育夫書下し詩集「全身詩人」は18篇。その最初の詩。

01全身詩人

という妄想の藪(やぶ)の中から
大きな黒いものが
ムクリと
もたげる
それを

行く先は
知らないけど
なまぬるいことばを
はぎとりこそぎ落とし
たったかたったかたったか
いったか
渦中を勝ったか
音立てて
ことば列車が
走り抜ける

遠いあそこまでたどり着けるか1月の
ことばあらしよことばあらしよ
ざわめきの雨の日

 二連目の真ん中あたりの、

たったかたったかたったか

 が非常に印象的だ。オノマトペなのだが、私にはオノマトペとは違ったものとして迫ってくる。音の順序がいれかわり、「たたかったたたかったたかった(戦った戦った戦った)」という「意味」になって迫ってくる。私が「意味」を生きる人間だからかもしれない。
 「戦った」に呼応するように「勝った」という「文字」が見えるからだろうか。
 書きことばというのは、話しことばと違って「先」が見える。どうしても「先」を見てしまって、それに引きずられて、ことばを勝手に「先読み誤読」するということが起きる。とくに私のように、せっかちな人間は、「いま/ここ」にとどまる、あるいは「いま/ここ」を踏まえるというよりも、「先」をたよりに「いま/ここ」をふりすててしまうと、書いてしまうと簡単なのだけれど、実は、そうでもないのだ。
 「なまぬるいことばを/はぎとりこそぎ落とし」という二行に、私は「戦う」ということばを感じているのだ。「はぎとりこそぎ落とし」は「はぎとる」と「こそぎ落とす」という二つの動詞が休むまもなく動いているが、実は二つではなく、「はぐ」と「とる」、「こそぐ」と「落とす」と四つの動詞が緊密に協力しなっている、というよりも、互いの領域を侵入し合っている。すでに、そこに、ちょっとめんどうくさい力が入り組んでいる。これが「戦う」ということばを呼び覚ますのだ。
 この詩は書かれているが、もし文字を読まずに、声に出して語られた詩であっても、私は「たったかたったかたったか」を「戦った戦った戦った」、あるいは「戦ったか戦ったか戦ったか」と聞きとってしまうと感じるのだ。
 私はもともと耳でしかことばを覚えられない人間で、自分で読んでいるだけでは、ことばをまったく覚えられない。まわりにいるひとの「声」をとおして聞いて、はじめてことばが肉体の中に入ってくる。小説などの外国人の名前がぜんぜん覚えられないのは、それを耳で聞くことができないからだ。カラマーゾフのように、ひとの口から発せられると、やっとそれが覚えられる。そういう奇妙な「くせ」がある。
 あ、脱線したが。
 何がいいたくて、こんなことを書いたかというと、その印象的な「たったかたったかたったか」は、突然印象的になるのではなく、その前に「音」として「印象」が準備されているから印象的になるのだ。
 一連目、

ムクリと
もたげる

 なんでもないことばだが、「ムクリ」と「もたげる」の「ま行」が「頭韻」として肉体の中に入ってくる。「ムクリともたげる」と慣用句だけれど、単に「ムクリと」といえば「もたげる」がついてくるというよりも、音の響きとしてつながっている。「ムクリとしずむ」と言わないのは、音が響きあわないからだ、と私は感じる。少なくとも、私の「肉体」は、そう覚え込んでいる。
 「ムクリと/もたげる」のはたいていは「頭」とか「首」であるけれど、山本は、これを「それ」とあいまいに言っている。それは「妄想」の「も」、「黒いもの」の「も」をひきずって、「意味」になろうとしている。「それ」と抽象化することで、山本は、そこに「意味」を与えようとしている。
 その動きが、二連目につづいていく。
 そんなふうに、私の「肉体」は反応する。
 そして「なまぬるい」という、またしても「ま行」を含んだ音に出会う。「ま行」と「な行」は鼻音という共通項のなかで、不思議な響きあい(融合)をみせる。「ら行」もまた、それに「有声音」という共通項でつながる。
 「それ」は、私にとっては、そういう「音」の「ひとかたまり」として最初に「肉体」に入ってくる。そのあとに、山本がつけくわえた「意味」が「ことば」として入ってくる。
 この「意味」というのは、ちょっと、めんどうくさい。いいかえると、おもしろくない。「肉体」は「音」に反応しているのに、「意味」は「音」ではないからだ。「ことば」という語は、「意味」としてはわかるが、どうも落ち着かない。何か、違和感がある。
 いま世間を騒がしている新型コロナウィルスのようなものか。
 だから、それを「はぎとりこそぎ落とし」たいという「気持ち」が「肉体感覚」として、とてもよく分かる。「意味」なんか、捨ててしまいたい。
 そういう欲望(本能)が、

たったかたったかたったか

 という「音」になっているのだ。「音」そのものが、「意味」を拒絶することで、新しい「ことば」、「もの」としての「ことば」、つまり一回限りの存在になっているのだ。だから印象的なのだ。
 「たったかたったかたったか」は聞いたことがある。この詩につかわれていることばで言い直せば、「行く」「走る」ときに、その姿をあらわすものとしてつかわれる。だが、そういう「慣用句」としてのことばである前に、ここでしか存在し得ない形になっている。「戦った戦った戦った」(戦ったか戦ったか戦ったか)を吐き出す「装置」のようなものになっている。
 「音」の入れ代わりは、

渦中を勝ったか

 にもあてはめることができる。「渦中を戦ったか」と、私の「肉体」は読み違える。「戦い」はいつでも「渦中」であるからかもしれない。
 それやこれやで、ことばは、再び「意味」になって「なまぬるいことば」は「ことば列車」にかわる。そして三連目へと駆け抜けていく。
 三連目にも「ことば」が出てきて、

ことばあらしよことばあらしよ

 と繰り返されるが、この一行は「ことば荒らしよ」なのか「ことば嵐よ」なのか。どちらにもとれるし、「しよ」「しよ」と繰り返される音は、それを「よし、よし」と肯定しているようにも聴こえる。
 私の「肉体」は、そう聞いてしまう。
 山本が書いている「意味」はわきにおいておいて、詩から響いてくる音を聴きながら、ことばがことばと戦い、意味を拒絶して、暴れ回り、吹き飛んでいく。それを「全身」で引き受けるのが「詩人」なのだと山本が叫んでいる。その山本の「肉体」を見ている気持ちになるのだ。

 「02書法」の三連目に楽しい「音」がある。

1000年前の地層から匂い立つ
かそけきさしすせ
そたちぬるを

 「かそけき」に「意味」はある。「さしすせ」は「さす」を含むか。前の「音」と重なりながら「きざす(兆す)」にもなる。
 でもねえ。
 「さしすせそ」というのは、妙に性的な行為を連想させる音でもあるし、それを導くのが「かそけき」となると、「たちぬる」というのは、単に「さしすせそ」「たちつてと」の五十音のつながりでもなくなる。「ぬる」という響きが激しく「肉体」を勃起させる。こういう部分も、いいなあ、と思う。
 で、この作品の書き出し。

申し忘れたが
すでにその書法は書き崩れた

 「崩れる」という動詞が、こういう「音」を引き出しているのかなあ、と思って読み直したりするのである。









*

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安倍のコロナウィルス対策

2020-03-01 15:15:47 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍のコロナウィルス対策
             自民党憲法改正草案を読む/番外317(情報の読み方)

 安倍がコロナウィルス対策について記者会見を開いた。2020年03月01日の読売新聞(西部版・14版)の一面の見出し。

緊急策第2弾 10日で/監査拡充 病床5000超確保/休職支援 新たな助成制度

 なぜ「緊急策」をまとめるのに「10日」もかかるのかわからないが、このことはきのうフェイスブックに書いたので書かない。
 私がいちばん疑問に思うことは「病床5000超確保」という部分である。記事中には、こう書いてある。

 全国で2000超の感染症病床については、緊急時に感染症指定医療機関の病床を最大限動員することで、「5000床を超える病床を確保する」と述べた。

 読み方はいろいろできる。「2000床は、コロナウィルス以外の感染症」がつかう。「コロナウィルス用に確保するのは3000床」かもしれないし、緊急事態なので「5000床全部をコロナウィルス患者」がつかうかもしれない。
 いずれにしても。
 ここからわかることは、安倍が入院が必要な感染者数を最低限「5000」と見積もっていることだ。
 中国では、たしか「1000床の病院」を急ぎふたつ建設したはずである。中国に、感染症用の病床がいくつあるかしらないが、中国は「2000」増やした。患者の数から比べると、それで足りたとは思えない。
 安倍の提唱している「3000」はどこから、その数字を出してきたのか。そして、「5000」という数を出せば国民が安心すると、どうして判断したのか。
 国民には知らされていない「情報」があると考える必要がある。
 その「情報」は、どう管理されているのか。気になる文章が、いま引用した記事の直前に書かれている。

 現時点で全国の検査能力は1日あたり4000件超と指摘した上で、地域の検査能力などで検査が断られないようにするため、「必要な検査が確実に実施できるよう国が仲介を行う」と強調した。

 これは、国が仲介するので検査は必ず受けられるようになると読むこともできるが、国が仲介することで「必要ではない検査」(必要とはみなさない検査)は実施しないようにすることで、検査件数を調整するという具合にも読むことができる。
 たぶん、後者なのだ。
 そして、この方法は、いままでとられてきた方法と同じである。保健所が国が示した検査基準に合致するかどうか判断し、合致したものだけを検査対象にした。それをつづける、そういう監視を行うことを「国の仲介」と呼んでいるのだ。
 政権は、いままでの保健所からの報告を踏まえた上で「5000床」という数を出したのだ。
 そして、このことは、また次のようなことを推測させる。
 安倍は、コロナウィルスの感染者がどんなに増えようとも、その上限を「5000以内」におさえるために、さまざまな調整をするだろう。
 それをうかがわせる記事が、三面に書かれている。今後、保険が適用されることになるが、それについて書いた記事だ。見出しは、

保険適用で間口広く/ウイルス検査増へ/「拒否された」批判受け

 となっているが、記事の最後の部分にはこう書いてある。

 保険適用後も、検査を受けられるのは、感染の疑いのある人を検診する「帰国者・接触者外来」を設置しているなど一部の医療機関に限られる。医師の判断が全帝都なり、「不安がある」などの理由では検査は受けられない見通しだ。

 これでは「窓口広く」とは言えないだろう。国による「監視(管理)」が依然としてつづく。監視(管理)によって感染者数をおさえるということが可能なのだ。
 私は以前、なぜ、保険適用が進まないか、民間機関でなぜ検査できないのかという疑問を書くと同時に、きっと安倍の「お友達」の医療機関の態勢がととのうまで保険適用をさせないつもりなのだろうと書いた。その「一部の医療機関」、限られた機関の態勢がようやくととのったので、保険適用にしたということだろう。
 そして、その「限られた医療機関」をとおして、コロナウィルスの感染者数をコントロールするのである。何人感染者が発生していようが、「国が管理する(仲介する)」機関をとおして数えられなかった場合は患者にはならないのだ。
 安倍は「事実」をコントロールするではなく、「情報」をコントロールする。そして、「情報」をコントロールするためには、いろいろな「不都合な情報」は、これまでどおり、改竄、廃棄という形で隠蔽するに違いない。
 読売新聞に書いてある記事からは、そういうことが推定されうる。
 私の読み方は「妄想」かもしれないが、「妄想」を刺戟するような書き方を読売新聞はしている。

 5000という数が多いのか、少ないのか。多いに決まっているが、多いけれど、対策が充分だから5000におさえられたのか、失敗したから5000になったのか。
 どちらにしろ、週明けから(学校が休校になった段階から)、数が急速に増えていくだろう。そして、その数の増加を背景に、安倍は「休校にしてよかっただろう」と「手柄」のように言いふらすに違いない。
 初動を間違え、日本をコロナウィルスの発生源にしたことを、そういう「手柄」で隠蔽しようとしている。

(以下は、きのうフェイスブックで書いた文章。ただし、最後に追加部分があります。つづけて読んでみてください。きっと、驚くと思います。)

記者会見というけれど。
質問にほんとうに答えている?
抽象的なことばの繰り返しばかり。

具体的なことを一つだけ言っている。
マスク不足について聞かれて「3月に6億枚供給できる」と。

6億枚で、充分なのだろうか。
1月、2月は何枚製造したのか。その数字と、いま、スーパーや薬局でマスクが手に入らないことはの関係はどうなっているのか。
1日何枚必要なのか( 必要と考えているのか) 、そういうことをきちんと答えないと、答えにならない。
日本国民は1 億人。30日なら、1人1枚使用したとして、簡単に計算して30億枚必要なのでは? もちろん赤ちゃんとか、重篤の病気のために酸素マスクをつけている人などはマスクをしないだろうけれど。
しかし、どういう計算をすれば、1億人の国民が1か月6億枚のマスクで足りるのか、さらに3月の生産が6億枚だとして、それで3月1日には何枚市場に出回るのか、ということも説明すべきだ。3 月31日に6 億枚完成するというのであれば、いまから3月31日まではマスクなしということも考えられる。( これは極論だけれど。)

どこへ行っても、マスクをしていないのは、マスクが買えない私だけ、という状況がつづいているのだけれど。
こんな状況で、「6億枚」と言われても、それで間に合うとは信じられない。

私は抽象論が苦手なので、具体的に聞きたい。

補正予算についても、野党が緊急提案した案を否決した理由は何なのか、そのことをぜひ聞いてほしかったなあ。

(ここからは、追加。)

 きのう、フェイスブックに書き込みしたあと、少しネットを見て回っていたら、アメリカのコロナ対策の会議の動画があった。そこで、責任者(議長?)が、ある担当者に「国内にマスクは何枚あるか」と問うた。「2000万枚ある」「充分な量か。何枚必要なのか。1億枚」というやりとりがつづいた。(数字は正確ではないかもしれない)。これを見ながら、あ、記者会見のこの質問と応答も、結局「やらせ(しかもアメリカの質疑のパクリ)」だったのかと驚いた。
 会見の質疑のなかで、6億枚だけが「具体的」だったので、どうしてそうなったのか、非常に疑問に思っていたが、その理由がわかった。
 日本の記者会見は、多くの人が指摘しているが、とんでもない「猿芝居」である。記者が事前に質問事項を通知しているだけではなく、きっと安倍の方から、こういう答えをしたいので、それに見合った質問をしてほしいという「逆提案」のようなものが行われているのだ。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(43)

2020-03-01 14:06:15 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

友よ

物によつて
語によつて
どれだけ 時がぼくから失われたか

 「語」を「言葉」と書き換えれば、この詩は一連の作品とひとつづきのものになるが、「物」と「語(言葉)」はどう違うか。「ことば」をとおして「もの」は「ぼく」のものになる。内面化される。これを、嵯峨は「獲得」ではなく「失われた」と書くのだが、「時」が失われたのか「ぼく」が失われたのか、簡単には言いきれない。
 「物」と「語」が同格であるように、「時」と「ぼく」も同格である。入れ替えが可能だ。あるいは、すべてが入れ替え可能だとさえ言えるだろう。
 そういう意味では、ここに書かれていることは「完結」している。あるいは、閉ざされている。完結し、閉ざされた世界では「論理」はどう展開しても「論理」であることに変わりはない。





*

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