詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(53)

2020-03-11 10:51:07 | 詩集

対話

ぼくから言葉がうまれないのは
去つていく遠い地が失われているからだ

 矛盾というか、あいまいさに満ちた詩だ。
 「常識的論理」では、何かが失われるとき、ひとは悲しみに沈む。こころが動かなくなる。ことばも、どう動かしていいか、わからない。
 そして、この「失われる」というのは、何かが自分から「去る」(去っていく)と言い直すことができる。もし、自分から去っていくものがない、自分には失われるものがないとしたら、そのときひとは「よろこび」につつまれるだろう。
 もちろん「よろこび」のためにことばを失うということはある。しかし、嵯峨が書いているのは「よろこび」ではない。逆である。

やはや ぼくはさびしささえ失つたのだから

 人が生きるには「さびしさ」が必要なのだ。





*

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木村草弥『信天翁』

2020-03-11 09:08:43 | 詩集
木村草弥『信天翁』(澪標、2020年03月01日発行)
 
 木村草弥『信天翁』は歌集。帯に、

〈信天翁〉描ける青きコースターまなかひに白き砂浜ありぬ

 という歌がある。
 非常に強く惹かれた。「まなかひにありぬ」は幾とおりにも読むことができる。ひとつは、砂浜を見ている。ひとつは、現実には見ていないが、目に砂浜が映っている。ひとつは、記憶(幻想)としての砂浜が目の中にある。ほかにも違った読み方があると思うが、私は三番目の読み方をする。そして、そう読むとき、また違ったものを感じている。
 描かれた信天翁には砂浜は映っていない。その砂浜は、木村の夢なのだ。信天翁が記憶(幻想)の砂浜を目の中に閉じこめてゆったりと空を飛んでいる。どこへいくのか。だれも知らないが、信天翁は知っている、ということを木村は知っている。
 そして、それは木村の夢であると同時に、その信天翁を描いただれか(画家)の夢でもある。画家は目の中に砂浜を描かなかったかもしれない。描いてなくても、この信天翁を見たら、そのひとは信天翁が見ているものが見えるに違いない、と信じて描いたのだ。
 そう考えるとき、木村が見ているのは、信天翁なのか、信天翁の夢なのか、あるいは画家の夢なのか、木村の夢なのか、渾然として、わからなくなる。すべては融合してひとつになり、また、その融合したひとつのなかから、瞬間瞬間に、その「ひとつ」があらわれてきて、ゆっくりと飛ぶ。どこへ行くでもなく、漂ってみせる。
 そんなことを思ったのである。
 歌集を開くと、この歌には「稲田教子さん死去」という前書きがついている。信天翁は、前田さんか。白き砂浜は前田さんが向かっている世界か。歌のなかで繰り返される「あ」の響きが、その世界が「狭い」ものではなく、どこまでも広がっていると教えてくれる。つまり、「希望」のようなものとして見えてくる。「死」が「希望」というのは矛盾しているかもしれないが、「絶望」とは違うかなしさがある。
 「兄・木村重信死去」という前書きの歌もある。

吉凶のいづれか朱き実のこぼれ母系父系のただうす暗し

 さらに、

つくつくよわが庭の木に産卵せよ黐(もち)がよいかえ山茶花よきか

 「産卵」ということばがあるが、なぜか「死」を連想させる。蝉は産卵して死んでいくからだろうか。

まどろみのみどりまみれぞ松園の春画に見つる繁き陰毛(にこげ)は

 この歌にさえ、死を感じる。セックス、エクスタシーが「小さな死」だからだろうか。いや、そうではなく、もっと巨大な「死」だ。「産卵」と同じように、「生」そのものと拮抗する「死」。
 信天翁の一首の「死」もまた「生」と拮抗し、その「生」は「死」と拮抗している。つまり、そこには「矛盾」のようなもの、「渾沌」のようなものがあり、それが歌を支えている。歌の「響き」を支えている。どの歌も、響きが強く美しい。

 この歌集では、私がいま引用した「信天翁」の連作のあと、口語自由律の短歌が書かれている。その歌も、響きが非常に強い。読んでいて(音読するわけではないが)、思わず背筋がのびる。私の肉体の中を「声」が走っていく。

水着を剥いで引き出したつんと尖る乳首、若い固い乳房。

贅肉のない鍛えた体幹、その真ん中の凹んだ臍が綺麗だ

 漢字のつかい方が堂に入っているというか、「音」を鋭敏にしている。「音」のエッジを尖らせている。その強さが、妙な不気味さを持っている。それが死を感じさせるのか、それとも死の歌を読んできたから、私が「誤読」するのか。
 どちらであるか、いまは判断できない。

服部信(はっとりまこと)が死んだと恵美子さんからハガキが来た 八十九歳の死

 この散文みたいな一首も、私は非常に好きだ。ありのままに、ことばが動いた。ことばが寄り道をしていない。そこに、強烈な「正直」がある。だれのための歌でもない。ただ木村自身のための歌だ。
 こういう正直の前では、私は、ただ息をのむ。語りかけることばがない。何を書いても、それは「嘘」になる。



 




*

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