詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

舟橋空兎『朝と世界は相性が悪い』

2020-03-09 16:15:36 | 詩集


舟橋空兎『朝と世界は相性が悪い』(モノクローム・プロジェクト、2020年03月10日発行)

 舟橋空兎『朝と世界は相性が悪い』は魅力的なタイトルである。そのタイトルの詩の書き出し。

朝と世界は
相性が悪い
きちんと朝起きられたら
の話だけれど

 これもおもしろい。
 おもしろくさせているのは「起きる」の「主語」の存在である。「起きる」は動詞だから、どうしたって「主語」が必要だ。
 単純に考えると(自然に考えてしまうのだが)、「起きる」の主語は「私(舟橋)」である。そしてさらに単純に考えると(つまり、私=谷内にひきつけて考えると)、朝、きちんと起きられたら(つまり気分よく、すっきりと起きることができたら)、特に世界に対して違和感がない。「相性が悪い」というよりも「相性がいい」、言い直すと「いま/ここ」に一緒にいることが気分がいい。
 でも、舟橋は「きちんと起きられたら」「相性が悪いと言う。
 何か、常識(私が勝手に常識と思っているもの)がひっくりかえされた感じ。この瞬間的な「驚き」が楽しいのだ。
 で、なぜ、こんなことが起きるかといえば。
 まあ、私が勝手に「誤読」したことであって、舟橋の「意図」は別にあるのかもしれないが、「相性が悪い」と感じている「主語」は、ほんとうは「私(船橋)」ではないからだ、ということがある。「朝と世界は」と書いてあるから、「朝」か「世界」を「主語」にして、どちらかがどちらかを「相性が悪い」と感じているか、それとも「相性が悪い」と判断しているのは「朝」でも「世界」でも「私(舟橋)」でもなくて、「客観的(?)」な視点だということも考えられる。ここには単純に「叙述」があるだけであって、それは「私(舟橋)」とも「朝」とも「世界」とも関係がない。
 いやいや、そんなことは言えない。「起きる」には「主語」が必要だ。
 というようなことを、私は、瞬間的に考えてしまう。混乱したまま(混乱を楽しみながら)、いまは、その「結論」のようなものを出さない。(このあとは出さないかもしれない。)
 そしてつづきを読んでゆく。

夜と世界は共喰いをしている
夜が自分の住処だと
勘違いしている

 突然、「夜」が出てくる。「夜」が「主語」だったのか。
 という驚きは、しかし、驚きにはならない。この三行のリズムが悪すぎる。「意味」を書こうとして、とても重くなっている。最初の軽いリズム、軽さを利用して「論理」から飛翔してしまう(イメージになってしまう)ということがない。「意味」の重力に沈み始める。
 言い直すと、ここで突然「意味」を追って(論理を追って)、詩の言語世界を再構築することを求められる。これが、私にはつらい。「意味」のない「イメージ」になって、ただ「いま」「ここ」ではないどこかへ飛んで行ければそれが楽しいのに、と感じてしまう。
 そして、しぶしぶ考え始める。
 「夜」は「世界」と「共喰い」している。それが「夜」と「世界」の共存の形である。その関係の中に「朝」が割り込んでくる。
 この「朝」って、何?
 もちろん「夜」ではない。そして、「夜」は「世界」と対立しているのだから(共喰いという関係にあるのだから)、「夜」ではない方、つまり、「世界」ということになる。そこから、「世界」が、つまり「朝」がきちんと起きられたら、「朝と世界は/相性が悪い」。
 え?
 変だなあ。
 ここには「飛翔」のかわりに「つまずき」がある。
 「夜」を主語にして、もう一度、論理(意味)をたどりなおさないと、意味の重力がますます重くなる。つまり、「意味」にひっぱられて、どこへもゆけなくなる。
 「夜が自分の住処だと/勘違いしている」。ここには「夜」が主語であることをさししめす格助詞「が」がある。
 やっぱり「夜」が主語なのだ。
 朝がきちんとはじまったら(世界が目覚めたら、世界が起きられたら)、夜は「敗北」する。だから機嫌が悪い。夜と朝(世界)はいつもけんかしている。「相性が悪い」と読むべきなのだ。
 もし、そこに「私(舟橋)」をかかわらせるならば、「夜の私(眠っている私)」と「朝の世界」は「相性が悪い」。きちんと起きられたときには、いっそう「相性が悪い」。「夜の私(眠っている私/夢みている私)」は「朝の光の世界」なんかには出て行きたくないというのが本性だからだ。
 でもねえ。
 こういう面倒くさいことは、書かれてしまうと、ただ面倒くさい。「夜」を主語にした三行が、何か邪魔している。最初の四行だけで、これなんだろう。よくわからない。「論理がない」というときの方が楽しいのだ。「論理」が動き始めると、どうも書かれていることが嘘っぽく感じられる。「論理」を否定し、「論理」をぶっこわしてことばが動いているときの方が、わくわくする。

朝と世界は
相性が悪い
きちんと朝起きられたら
の話だけれど

 この四行を読んだときは、「わっ、何がはじまるんだろう」とわくわくする。しかし、「夜」が主語としてあらわれて、その四行を「説明」しはじめると、何だか重く感じてしまうのだ。

世界なんて
なんの意味もない

 これは、その通りだとも思うけれど、つまらない。どうも「定型」の匂いがする。そんなことは聞き飽きた、とも思う。この二行には「意味」しか書かれていない。ことばが「意味」だけに従属している。
 書き出しの四行の、デタラメというと語弊があるかもしれないが、リズムだけで論理を無視したことばの動きの楽しさ、リズムがあればそれが生きている証拠というようなものがなくなってしまっている。
 とても残念なのだ。

 すこし別な言い方をしてみる。「寒月」という詩がある。その書き出しの二連。

同じものを
違う方向から見ていると
違うものに
見えてくる
と言うのは本当か

言葉を
使っているように見えて
言葉に
使われている
それが本当だとしたら
沈黙こそが
我が庵

 「意味」を追ってことばが動いている。それが「意味(論理)」である間は、まだ、楽しい。何が書いてあるのかな、という感じでことばを追うことができる。
 しかし、「我が庵」が出てきて、そのリズムが崩れてしまう。
 「我が庵」と「意味」ではなく、イメージである。「比喩」である。おいおい、こんなところで古くさい「比喩」に逃げ込むなよ、と私は言いたくなるのだ。
 どうも、イメージ(あるいは比喩)と論理の関係に「スピード感」がない。イメージと論理、論理とイメージがぶつかるとき、それが踏み台になって「飛翔する」、あるいはアクセルをことばの肉体が勝手に踏み込んで「暴走する」という動きではなく、ブレーキがかかってしまう。船橋自身が「暴走/飛翔」に対して恐怖心をもっているのかもしれない。それが、どうも楽しくない。
 おもしろくなるはずなのに、おもしろくない、と感じる。こういうのは、最初からおもしろくないものよりも、何かもっと「不満足感」が残ってしまう。


 




*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(51)

2020-03-09 11:38:10 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

永遠とは何か

人間も
言葉もはてしなくむなしい
そして〈永遠〉という言葉の意味はいまもつてわからない

 「はてしなく(はてしない)」ということばに私はつまずく。「はなしない」は「永遠」に通じるものがあると思う。けれど嵯峨はそれを否定して「むなしい」と結びつける。このとき「むなしい」と「永遠」ははっきり違うものとしてあらわれてくる。「永遠」とは「むなしく」ないものなのだ。たとえば「充実」。
 もうひとつ「意味」ということばにもつまずく。「意味」がわからない。そう感じるとき、嵯峨は充実しているか。むしろ「むなしい」のではないか。「はてしなくむなしい」と言い換えることができる。
 ここにも「矛盾」のようなものがある。
 「虚無(むなしさ)」の「永遠」というものも、どこかに存在するはずだ。実際、この詩そのものが、「虚無の永遠/永遠の虚無」を表現していないだろうか。

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