詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大橋政人「「さみしい」」、金井雄二「蜜柑の皮をむく」

2020-03-13 22:09:47 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋政人「「さみしい」」、金井雄二「蜜柑の皮をむく」(独合点」138、2020年03月10日発行)

 大橋政人「「さみしい」」の書き出しの二蓮。

「さみしい」が最近
なんだか大切な言葉になってきた

人間の心の中には昔から
二つの絶壁が聳えていて
互いに向かい合っている

 ここまで読んで、一つの絶壁が「さみしい」だと思った。もう一つは何だろう。「かなしい」だと「さみしい」と見分けがつかなくなるか。「うれしい」だとちぐはぐか。「好き(愛する)」だと「意味」になりすぎるか。
 ことばがうまく動かない。
 けれど、ことばが動きたがっている。私のなかで。
 大橋は、この動きたがっている私のことばに対して、どんな力を与えてくるだろうか。わくわく、どきどきしながら私は読み進む。
 そして、それが私の思い描いていたものとは違うことを知る。もちろん、大橋のことばなのだから、それは私の思っていることと違っていて当然だし、違うということが「裏切り」のようにあざやかな印象になることもある。
 でも、そういうことも起きなかった。

二つの絶壁が
一つだったときのことを
必死にいま思い出そうとしているのだ

 この最終連も、どきどきさせるものを含んでいる。でも、最初の二連と最後の連のあいだのことばは、私には、どうもおもしろくない。
 大橋の詩は大好きなので、ときには、こういうことも書いておきたい。おもしろくない詩もある、と。

 金井雄二「蜜柑の皮をむく」を読みながら、やはり、金井の詩とは関係ないことを考えた。金井のことばを追いかけようとして、そこに私の「体験」がまぎれこみ、あれこれ考えたのだ。あれこれといっても、まあ、どうでもいいことなんだけれど。

ばらばらに
ちぎれてはならない
ひとつにつながった形にする

 こう書く金井は、蜜柑の皮を、どんなふうに剥いているのか。
 私は昔は、ヘタのところからシリの方向に向かって「海星」の形になるように剥いていた。こういう剥き方の場合「ばらばらに/ちぎれてはならない」という注意の仕方は、私は、しない。最後の方でつながる部分を残せばいいだけなのだから。私が蜜柑を食べたあと「海星がいくつもできる」と、よく家族に言われた。
 私はまた別の剥き方もする。連れ合いの友達がフランスから来たとき、彼が、林檎の皮を包丁で剥くように、しかし包丁は使わずに、手でくるくると剥いた。渦ができる。この渦はつながったままだと林檎の皮を剥いたときのように「S字」になる。この剥き方が新鮮だったので(それまで知らなかったので)、ちょっとおもしろくて、それもときどきやってみる。友人の名前にちなんで、それを「バルテ剥き」と呼んでいる。

蜜柑の皮
そこに何の意味があるのか
もちろん
そこには何の意味もない

 かどうかは、私は知らない。意味があってもいいと思っている。そうでなければ、

決して
ばらばらにさせない
細かくちぎれてはいけない
ひとつのはてしなくつながった形にする

 などとは思いはしないだろう。
 で、この最後の四行を読むと、これはどうしたって「海星剥き」ではなく「バルテ剥き」ということになるのだが、「バルテ剥き」は私と連れ合いだけが知らなかっただけで、ごく普通の剥き方だったのか、と奇妙な気持ちになったのだった。




 




*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(55)

2020-03-13 10:34:07 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

観音経

はてもなく青い 輝いている大きな海

 「はてもなく」は「はてもなく大きな海」へとつづけて読むこともできるが、書かれている通り「はてもなく青い」と読みたい。「青」に果てがない、とはどういうことか。「透明感」のある青、透明感に果てがない、青なのに青の向こうに何かが見えるのか。それとも「青」で覆い尽くされて青以外の何も見えないのか。
 「輝いている」ということばにつながるところみると「透明感」に果てがないということだろう。透明なものは光をとおすと同時に光を反射させる。輝く。
 しかし、私は「青」以外の何も存在しない「拒絶」として読みたい。
 私は一度だけ、そういう「拒絶する青(群青)」の空を見たことがある。中学生のときである。吹雪のなかでスキー遊びをしていた。突然空が晴れ上がった。どこまでもただ「青」だけである。宇宙の果てが目の前に姿をあらわした、と思った。
 嵯峨が書いていることとは矛盾するというか、相いれないのだが、人間を絶対に受け入れない宇宙/自然の拒絶があるから、生きている、ということに意味があるのだと、直感した。





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