そこへ連れていつてくれ
言葉ではあらわせないところ
想いもとどかぬところ
「言葉」は不思議だ。ことばであらわせないことも「言葉であらわせない」とことばにすることができる。矛盾している。「想い」も同じだ。「想いもとどかぬ」は「想い描くことのできない」である。しかし、そういうことを「想う」ことはできる。
「言葉」と「想い」は、この詩では入れ替え可能である。それぞれが、互いの「比喩」になっている。
「あらわす」「とどく」も入れ替え可能である。
そして、詩は「名詞(言葉/想い)」ではなく「動詞(あらわす/とどく)」に重心をおいて読んだ方が、肉体に迫ってくる。言葉も想いも、届けるものである。届いたときだけ、そこに何かが「あらわれる」。
他動詞/自動詞が、そのとき交錯する。「肉体」そのものになる。ことばはかわっても、AからBへと動いていった「もの」は一つだ。「もの」はそのとき「思想」になる。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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