詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを「寂寞」

2020-03-06 11:28:23 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「寂寞」(「交野が原」88、2020年04月01日発行)

 岩佐なをという詩人は、奇妙な感じで変化していく詩人だ。そして、その「変化」というのが、一篇の詩のなかでも起きている。
 「寂寞」の書き出し。

『たんぽぽ』と書かれた
一冊を暗い机の上に咲かせて
かれは出て行ってしまった

 この現実と虚構が瞬間的に交錯することばの動きは、いかにも「詩」らしい。「いかにも詩」に言うのは、簡単に言い直せば、古くさい。印象的だが、いま、こういうレトリックは、日常ではつかわないだろう。詩だから、日常でつかわれなくてもいいのだが、つかってもいいかなあ、という気くらいは起こすものであってほしい。
 言い直すと、これはこれでいいのだが、このままつづいていったらいやだなあ、と私は感じる。
 すると、詩が変わり始める。

庭にはかれを慰める風が吹いているか
こころぼそくなりながら
まぶたを閉じた

 「かれ」は「わたし」を三人称で言い直したもの(客観化したもの)といえるかもしれない。「かれ」と突き放しながら、逆に「意識」は「かれ」と一体化している。「かれ」を想像することで、「かれ」になっていく。
 「まぶたを閉じた」のは「わたし」か「かれ」か。言い換えると「こころぼそく」感じたのはだれか。「こころぼそくなりながら」の「なる」が、「わたし」と「かれ」をさらに融合させる。

くらがりで
花を下から読む
ぽぽんた
子狸の愛称のようだよ

 突然、「詩」が「ナンセンス」にかわる。「意味」が「現実」にかわる。いわゆる「詩」とは、「頭」ででっちあげた「美しい虚構」ということが、わかる。
 ここから「美しい虚構」としての「詩」というものへの破壊がはじまる。「現実」にかわっていく。

「くすっ」と言って目が覚めたうしみつ
このうしみつとはいまや親しい
幼年のころはうしみつどきが怖かった
ひとつふたつほらうしみつ

 なぜ、「うしみつ」が怖いか。「うしみつ」どき、「幼年のわたし」は小便に起きるのだ。それが、怖い。いまと違って昔は、家の中は暗い。暗い中をトイレまで行く。これは、怖い。そういうことを「思い出す」。でも、「思い出」は「現実だった」ことであり、「いま」ではない。「ひとつふかつほらうしみつ」というような「口調」は、過去の「現実」である。
 そこを抜け出して、ほんとうの「いま」がはじまる。

横臥をといて正座それから
ゆっくり立って小用をたしに
毎夜中出かける

 「わたし」はそんなふうにして書き出しの「かれ」になってしまう。ただし、「わたし」が生きているのは、どこまでも「現実」である。

いつまでいつまでこんなことを

 これは、夜中に尿意をおぼえる「老人」の愚痴である。岩佐がほんとうにそうおもっているかどうかは別にして、「こんなめんどうなことをするくらいなら、さっさと死んでしまった方が楽だなあ」という気持ちが、どこかに感じられる。
 これが、このままつづいて「老人」の愚痴をだらだらと垂れ流すことになるのか。
 そうは、ならない。
 そして、ここから先のことばの変化が、なんともおもしろい。明確なまとまりというか「結論」のようなものがない。ただ、ずるずるっと、ことばがだらしなく動く。「過去」と「いま」が奇妙に融合している。

うしみつの廊下を歩めば
あとから小さいぽほんたがついてくる
扉を開き
便器に向かってかまえれば
ぽぽんたの影は背後でうすれ
けはいも消える
ぽぽんた
いない
蒲団へのかえりみちは
ひとり
じゃくまく

 ここで、私は、「あっ」と声を上げる。「せきばく」ではなく「じゃくまく」と読ませるのか。漢字が同じだから、読み方が違っていても「意味」は同じだろう。でも、何か違うね。「じゃくまく」の方が音がやわらかく、「典雅」なかんじがする。「余裕」があるといえばいいのかもしれない。
 意味に余裕がある。
 というのは、ことばに余裕がある、ということでもある。
 岩佐の詩は、いま、こういう「段階」に来ている。

『たんぽぽ』と書かれた
一冊を暗い机の上に咲かせて
かれは出て行ってしまった

 この書き出しには、はりつめた「虚構」の厳しさがある。でも、

ぽぽんた
いない

 これは「現実」であると同時に「ぽぽんた」によって「虚構」を描いていもいるのだが、そこには「虚構の厳しさ」がない。つまり、つくられた「美しさ」というか、「美しさ」をつくろうとする必死さがない。
 「これでいいんじゃないかなあ」という「ゆったり」したものがある。
 「文学」に熱中する美しさ、夜中に小便に起きなければならない現実、ふと思い出す幼年時代。それをつなぐものは、何か。何であろうが、結局は、「ひとり」だ。
 「かれ」が出ていったから「ひとり」になったのか、などと、もう一度、書き出しに戻って考えそうになるが、やめておく。

 なんだかわからないが、年寄り(岩佐自身は私と同じような年代だと思うが)のはじまるともなくはじまって、おわるともなくおわる「だらだらことば」を聞いたときのような、不思議な「ほんとう」がある。このときの「ほんとう」というのは、「つくりもの」ではない、ということ。
 「現代詩」を定義して、「わざとつくるもの」というようなことを西脇は言ったが、岩佐は「わざとをまじえない」ということを「わざと」やっているのである。こんな手の込んだばかばかしい(?)ことをやるのは「文学」としか言いようがないし、それをやってのけるのは、なんというか「たのもしい」。
 私は、かつて岩佐の詩が大嫌いだった。いまでも、大好きという感じではないのだが、読むとなんだか安心するし、何かを書きたくなる。ほんとうは「悪口」を書きたいのだが、どうも「ことば」がにぶってしまって、「悪口」に徹することができない。ここに「ひとりの人間」がいる、その生きている「肉体」を感じてしまうからだろう。







*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(48)

2020-03-06 08:00:41 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくはだれも愛さないし)

だれからも愛されなくてもいい
しかし骨ぬきになつたぼくの上を流れる川の川かみは
いつも美しい夕ぐれであるように

 「骨ぬき」は「愛さないし」「愛されない」を言い直している。つまり、比喩だ。
 「ぼくの上を流れる川」も比喩だろう。しかし、なんの比喩であるかは、この詩からはわからない。「流れる」という動詞に注目して「時(時間)」と考えてみることができる。「時間」だからこそ、「夕ぐれ」ということばがつづいて出てくるのだろう。
 「時間」は個人に関係なく、また場所にも関係なく、いつでも「流れる」。この究極の「客観的存在」は、人間を「虚無」に陥れるかもしれない。「美しい」ということば、それがどのような内容をもっているかが示されない限り、また「虚無」でしかない。「川かみ」は「源」。それを「虚無」で飾りたてている。
 「愛さないし」「愛されない」という「虚無」が、そういう比喩とことばを動かしている。




*

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