岩佐なを「寂寞」(「交野が原」88、2020年04月01日発行)
岩佐なをという詩人は、奇妙な感じで変化していく詩人だ。そして、その「変化」というのが、一篇の詩のなかでも起きている。
「寂寞」の書き出し。
この現実と虚構が瞬間的に交錯することばの動きは、いかにも「詩」らしい。「いかにも詩」に言うのは、簡単に言い直せば、古くさい。印象的だが、いま、こういうレトリックは、日常ではつかわないだろう。詩だから、日常でつかわれなくてもいいのだが、つかってもいいかなあ、という気くらいは起こすものであってほしい。
言い直すと、これはこれでいいのだが、このままつづいていったらいやだなあ、と私は感じる。
すると、詩が変わり始める。
「かれ」は「わたし」を三人称で言い直したもの(客観化したもの)といえるかもしれない。「かれ」と突き放しながら、逆に「意識」は「かれ」と一体化している。「かれ」を想像することで、「かれ」になっていく。
「まぶたを閉じた」のは「わたし」か「かれ」か。言い換えると「こころぼそく」感じたのはだれか。「こころぼそくなりながら」の「なる」が、「わたし」と「かれ」をさらに融合させる。
突然、「詩」が「ナンセンス」にかわる。「意味」が「現実」にかわる。いわゆる「詩」とは、「頭」ででっちあげた「美しい虚構」ということが、わかる。
ここから「美しい虚構」としての「詩」というものへの破壊がはじまる。「現実」にかわっていく。
なぜ、「うしみつ」が怖いか。「うしみつ」どき、「幼年のわたし」は小便に起きるのだ。それが、怖い。いまと違って昔は、家の中は暗い。暗い中をトイレまで行く。これは、怖い。そういうことを「思い出す」。でも、「思い出」は「現実だった」ことであり、「いま」ではない。「ひとつふかつほらうしみつ」というような「口調」は、過去の「現実」である。
そこを抜け出して、ほんとうの「いま」がはじまる。
「わたし」はそんなふうにして書き出しの「かれ」になってしまう。ただし、「わたし」が生きているのは、どこまでも「現実」である。
これは、夜中に尿意をおぼえる「老人」の愚痴である。岩佐がほんとうにそうおもっているかどうかは別にして、「こんなめんどうなことをするくらいなら、さっさと死んでしまった方が楽だなあ」という気持ちが、どこかに感じられる。
これが、このままつづいて「老人」の愚痴をだらだらと垂れ流すことになるのか。
そうは、ならない。
そして、ここから先のことばの変化が、なんともおもしろい。明確なまとまりというか「結論」のようなものがない。ただ、ずるずるっと、ことばがだらしなく動く。「過去」と「いま」が奇妙に融合している。
ここで、私は、「あっ」と声を上げる。「せきばく」ではなく「じゃくまく」と読ませるのか。漢字が同じだから、読み方が違っていても「意味」は同じだろう。でも、何か違うね。「じゃくまく」の方が音がやわらかく、「典雅」なかんじがする。「余裕」があるといえばいいのかもしれない。
意味に余裕がある。
というのは、ことばに余裕がある、ということでもある。
岩佐の詩は、いま、こういう「段階」に来ている。
この書き出しには、はりつめた「虚構」の厳しさがある。でも、
これは「現実」であると同時に「ぽぽんた」によって「虚構」を描いていもいるのだが、そこには「虚構の厳しさ」がない。つまり、つくられた「美しさ」というか、「美しさ」をつくろうとする必死さがない。
「これでいいんじゃないかなあ」という「ゆったり」したものがある。
「文学」に熱中する美しさ、夜中に小便に起きなければならない現実、ふと思い出す幼年時代。それをつなぐものは、何か。何であろうが、結局は、「ひとり」だ。
「かれ」が出ていったから「ひとり」になったのか、などと、もう一度、書き出しに戻って考えそうになるが、やめておく。
なんだかわからないが、年寄り(岩佐自身は私と同じような年代だと思うが)のはじまるともなくはじまって、おわるともなくおわる「だらだらことば」を聞いたときのような、不思議な「ほんとう」がある。このときの「ほんとう」というのは、「つくりもの」ではない、ということ。
「現代詩」を定義して、「わざとつくるもの」というようなことを西脇は言ったが、岩佐は「わざとをまじえない」ということを「わざと」やっているのである。こんな手の込んだばかばかしい(?)ことをやるのは「文学」としか言いようがないし、それをやってのけるのは、なんというか「たのもしい」。
私は、かつて岩佐の詩が大嫌いだった。いまでも、大好きという感じではないのだが、読むとなんだか安心するし、何かを書きたくなる。ほんとうは「悪口」を書きたいのだが、どうも「ことば」がにぶってしまって、「悪口」に徹することができない。ここに「ひとりの人間」がいる、その生きている「肉体」を感じてしまうからだろう。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093
「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168078050
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
岩佐なをという詩人は、奇妙な感じで変化していく詩人だ。そして、その「変化」というのが、一篇の詩のなかでも起きている。
「寂寞」の書き出し。
『たんぽぽ』と書かれた
一冊を暗い机の上に咲かせて
かれは出て行ってしまった
この現実と虚構が瞬間的に交錯することばの動きは、いかにも「詩」らしい。「いかにも詩」に言うのは、簡単に言い直せば、古くさい。印象的だが、いま、こういうレトリックは、日常ではつかわないだろう。詩だから、日常でつかわれなくてもいいのだが、つかってもいいかなあ、という気くらいは起こすものであってほしい。
言い直すと、これはこれでいいのだが、このままつづいていったらいやだなあ、と私は感じる。
すると、詩が変わり始める。
庭にはかれを慰める風が吹いているか
こころぼそくなりながら
まぶたを閉じた
「かれ」は「わたし」を三人称で言い直したもの(客観化したもの)といえるかもしれない。「かれ」と突き放しながら、逆に「意識」は「かれ」と一体化している。「かれ」を想像することで、「かれ」になっていく。
「まぶたを閉じた」のは「わたし」か「かれ」か。言い換えると「こころぼそく」感じたのはだれか。「こころぼそくなりながら」の「なる」が、「わたし」と「かれ」をさらに融合させる。
くらがりで
花を下から読む
ぽぽんた
子狸の愛称のようだよ
突然、「詩」が「ナンセンス」にかわる。「意味」が「現実」にかわる。いわゆる「詩」とは、「頭」ででっちあげた「美しい虚構」ということが、わかる。
ここから「美しい虚構」としての「詩」というものへの破壊がはじまる。「現実」にかわっていく。
「くすっ」と言って目が覚めたうしみつ
このうしみつとはいまや親しい
幼年のころはうしみつどきが怖かった
ひとつふたつほらうしみつ
なぜ、「うしみつ」が怖いか。「うしみつ」どき、「幼年のわたし」は小便に起きるのだ。それが、怖い。いまと違って昔は、家の中は暗い。暗い中をトイレまで行く。これは、怖い。そういうことを「思い出す」。でも、「思い出」は「現実だった」ことであり、「いま」ではない。「ひとつふかつほらうしみつ」というような「口調」は、過去の「現実」である。
そこを抜け出して、ほんとうの「いま」がはじまる。
横臥をといて正座それから
ゆっくり立って小用をたしに
毎夜中出かける
「わたし」はそんなふうにして書き出しの「かれ」になってしまう。ただし、「わたし」が生きているのは、どこまでも「現実」である。
いつまでいつまでこんなことを
これは、夜中に尿意をおぼえる「老人」の愚痴である。岩佐がほんとうにそうおもっているかどうかは別にして、「こんなめんどうなことをするくらいなら、さっさと死んでしまった方が楽だなあ」という気持ちが、どこかに感じられる。
これが、このままつづいて「老人」の愚痴をだらだらと垂れ流すことになるのか。
そうは、ならない。
そして、ここから先のことばの変化が、なんともおもしろい。明確なまとまりというか「結論」のようなものがない。ただ、ずるずるっと、ことばがだらしなく動く。「過去」と「いま」が奇妙に融合している。
うしみつの廊下を歩めば
あとから小さいぽほんたがついてくる
扉を開き
便器に向かってかまえれば
ぽぽんたの影は背後でうすれ
けはいも消える
ぽぽんた
いない
蒲団へのかえりみちは
ひとり
じゃくまく
ここで、私は、「あっ」と声を上げる。「せきばく」ではなく「じゃくまく」と読ませるのか。漢字が同じだから、読み方が違っていても「意味」は同じだろう。でも、何か違うね。「じゃくまく」の方が音がやわらかく、「典雅」なかんじがする。「余裕」があるといえばいいのかもしれない。
意味に余裕がある。
というのは、ことばに余裕がある、ということでもある。
岩佐の詩は、いま、こういう「段階」に来ている。
『たんぽぽ』と書かれた
一冊を暗い机の上に咲かせて
かれは出て行ってしまった
この書き出しには、はりつめた「虚構」の厳しさがある。でも、
ぽぽんた
いない
これは「現実」であると同時に「ぽぽんた」によって「虚構」を描いていもいるのだが、そこには「虚構の厳しさ」がない。つまり、つくられた「美しさ」というか、「美しさ」をつくろうとする必死さがない。
「これでいいんじゃないかなあ」という「ゆったり」したものがある。
「文学」に熱中する美しさ、夜中に小便に起きなければならない現実、ふと思い出す幼年時代。それをつなぐものは、何か。何であろうが、結局は、「ひとり」だ。
「かれ」が出ていったから「ひとり」になったのか、などと、もう一度、書き出しに戻って考えそうになるが、やめておく。
なんだかわからないが、年寄り(岩佐自身は私と同じような年代だと思うが)のはじまるともなくはじまって、おわるともなくおわる「だらだらことば」を聞いたときのような、不思議な「ほんとう」がある。このときの「ほんとう」というのは、「つくりもの」ではない、ということ。
「現代詩」を定義して、「わざとつくるもの」というようなことを西脇は言ったが、岩佐は「わざとをまじえない」ということを「わざと」やっているのである。こんな手の込んだばかばかしい(?)ことをやるのは「文学」としか言いようがないし、それをやってのけるのは、なんというか「たのもしい」。
私は、かつて岩佐の詩が大嫌いだった。いまでも、大好きという感じではないのだが、読むとなんだか安心するし、何かを書きたくなる。ほんとうは「悪口」を書きたいのだが、どうも「ことば」がにぶってしまって、「悪口」に徹することができない。ここに「ひとりの人間」がいる、その生きている「肉体」を感じてしまうからだろう。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093
「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168078050
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com