詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

青柳俊哉「アザミ塔」、池田清子「過去の今」

2020-03-29 22:36:27 | 現代詩講座
青柳俊哉「アザミ塔」、池田清子「過去の今」( 朝日カルチャー講座・福岡、2020年03月16日)

アザミ塔 青柳俊哉 

(風景のはりつめた)
(うすい膜のひずみから)
(生成しきえていく)
(雲や水のうつろいのように)
(みじかい光の振幅にうまれ) 
(背後にみちている無辺( むへん) の母性にたえ)  
(光へかえっていく)
(水辺の塔)

春の野辺に立つアザミの花
ひそかな小川の土手のうえから
石のような目で 雨にぬれる水のながれと
生物のささやく世界をみつめている
よろこびも かなしみもなく
よろこびも かなしみも深く沈潜し
果てのない空に映る野辺のすべてを
棘( とげ) のような花弁に結実して
光の中へきえていく
アザミ塔

 「アザミ塔」ということばへの疑問が出た。なぜアザミの花ではないのか。あるいはアザミではないのか。
 現代詩は「わざと」書くものだと西脇順三郎はいった。「わざと」が文学。「わざと」塔という比喩をつかう。アザミは塔ではない。だが塔と呼ぶ。その瞬間に動き始める精神・意識というものがある。
 この詩は二連で構成されている。
 一連目は抽象的だ。(水辺の塔)の「塔」のことばが二連目で「アザミ塔」と繰り返されなかったら、建物の塔であったかもしれない。
 では、「塔」とは何なのか。
 アザミを描写しているというよりも、アザミを借りて「塔」を想起している。その想起されているものが、青柳の書きたかったことだろう。
 「はりつめた」ということばが最初に選ばれている。緊張を引き起こすものとして「塔」がある。その緊張は「生成しきえていく」という矛盾といっしょにある。不安定なのだ。不安定は「うつろい」と言い直される。しかし、不安定であるけれど、その基本は「消えていく」ではなく「うまれ(る)」にある。「母性」のような力、「うむ」力が基本にあり、それは「うまれる」ことで「かえっていく」。光へ。そういう運動が「塔」の内部を支えている。塔のなかには生成の運動があり、それが緊張感を引き起こしている。
 これを「具象」をとおして語りなおしたのが二連目になる。
 「母性」は「結実」ということばで言い直されている。「無辺」は「果てのない」と言い直されている。ふりそそぐ春の光のなかへ生まれ、そのふりそそぐ光の一点、太陽へかえっていく(太陽を目指して成長していく)、塔のような花、アザミ。
 だが、青柳は、あくまでアザミではなく、アザミの誕生、成長を「運動」を描こうとしている。「塔」の運動として描こうとしている。
 私は塔の内部と読んできたが、塔をつくる作業と読むのもおもしろいかと思う。

 二連目は消してしまって、一連目だけにしてしまうのもおもしろいかもしれない。精神・意識の運動を「野辺」「小川」「石」「水」を排除したまま、さらに「よろこび」「かなしみ」という感情も封印して、抽象的なことばのリズムだけで描ききった方がアザミの「棘」のようなものが鮮烈に存在したかもしれない。



過去の今        池田清子

過去を捨てたことがある
自分を変えたかった

好きな俳優はと聞かれて
ポールニューマンと答えた
チャールトンヘストン だったのに

捨てても
同じ顔をし
同じ生活をしていた
なら
外には捨ててない?
自分の中に捨てた?

自分の中で
燃やした覚えはない
埋め立てた記憶もない

まだ あるってか?
取り出し 可能?

今の自分と合体させたら
どうなる?

強いぞ

 「過去を捨てたい」とはだれもが思うことである。過去を捨てれば自由になれる。それこそ「自分を変える」ことができる。
 二連目に具体的な「方法」が書かれている。いままでの自分を否定する。しかし、その否定は「うそをつく」ということ。しかし、それで過去が捨てられるのか。うそをつくということは、うそであると認識することであり、それは過去を認識することでもある。チャールトン・ヘストンが好きという自分を認識しないことには、ポール・ニューマンが好きといううそはつけない。過去を捨てるが、過去を忘れないにつながってしまうという矛盾が生まれる。
 この「うそ」を「わざと」と言い換えると、青柳の詩についてふれたときの「現代詩の定義」につながるものが出てくる。
 「わざと」言おうとしたことは、ほんとうはなんだったのか。
 「過去を捨てる」と簡単に言うが、そのときほんとうは何が起きているのか。それを明らかにするためには「わざと」が必要なのだ。
 いちばんおもしろいのは、

外には捨ててない?
自分の中に捨てた?

 この二行だ。捨てる。どこに? 「外」は「自分の外」のこと。「自分の外」と「自分の中(内)」の二つが対比される。
 対比させてわかることは、「外には捨てられない」ということだ。「外」では他人にみつかってしまう。「自分の内(中)」に捨てるしかない。しかし、それは「隠す」ということの言い直しにすぎないのではないか? 隠しているのなら、それは「捨てる」ではない。
 矛盾である。「捨てる」ではなく「隠す」、つまり「持ち続ける」という対比がことばにならないまま提示される。
 「外」と「内/中」の対立、「捨てる」と「隠す/持ち続ける」の対立。
 そこからわかってくる「事実」というものがある。それは、ことばをつかって、「わざと」考えることによってわかってくるものである。
 「捨てる」ことも「隠す」こともやめて、池田は考え始める。まだあるか、取り出せるか。その過去を今と合体できるか。もちろん、できるだ。それはいつでも「自分の中」にあるからだ。
 過去を捨てるのではなく、取り出して「合体」させる。隠し持ち続けたものを顕在化させる。それは「受け入れる」ことだろう。自己を自己のまま「受け入れる」ことができるものは、いつでも、強い。
 思考の動きが自然ですっきりとしている。思考にリズムがあり、それが加速していく感じがいい。
 ただ、四連目の「廃棄物処分場」は、このことばだけが「抽象(思考)」になりきれずに、具体のまま動いている。そこがおもしろいといえばおもいしろいが、削除してもいいかもしれない。その方がすっきりすると思う。もちろん、すっきりしてしまって味気なくなるということもある。

 青柳の詩ともつながるが、抽象と具体をどう向き合わせるか、というのはむずかしい課題だ。



 




*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(15)

2020-03-29 19:02:41 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

こころ

心はどこにいても自由だ

 これは、多くのひとが言うことである。こころは何にも縛られない。いつでも自由だ。嵯峨も、そう書き始めるのだが。

それでも心はどうしてぼくに止まるのか
そのしずかな場所はどこだ

 こころはどうしてぼくのところにやってくるのか。自由なのに、どこかへ行ってしまわないのか。「止まるのか」はそういう問いかけだろう。では、そのあとの「しずかな場所」とは何だろうか。
 嵯峨の(ぼくの)なかの「場所」を指しているのか。「こころ」自身の「場所」を指しているのか。「しずかな」は「状態」をあらわしている。嵯峨は「しずかな」という状態へ「ぼく」と「こころ」を統一したいと願っているのか。


*

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医療における隠れた問題点

2020-03-29 18:45:25 | 自民党憲法改正草案を読む
新型コロナウィルスについては様々な意見がある。医療現場でも意見が異なっている。大別して、
①検査を多く実施して早く感染者を見つけ隔離治療する。
②検査の精度は高くない。医療崩壊を招く多数の検査は避けて、医師が必要と判断したひとだけを検査する。
いま、治療を受けていないひとは①②のどちらをも主張できる。
しかし、もしいま治療を受けているなら、問題は少し複雑になる。
主治医が①を主張していたとき、患者は②を主張できるか。
主治医が②を主張していたとき、患者は①を主張できるか。
もちろん「意見」はそれぞれ自由である。どんな「意見」をいうこともできる、
はずである。

ところが現実に即して言うと、これは簡単ではない。
主治医が①を主張しているとき、あえて②を主張する患者がいるだろうか。
主治医が②を主張しているとき、あえて①を主張する患者がいるだろうか。
つまり、主治医と違った意見を主張する患者がいるだろうか。
きっといない。
反対の意見を言ったとき、その後も親身に治療を受けられるかどうかを患者は心配する。
患者というのは主治医に命を預けている。
いわば命を握られている。
どうしたって主治医の言うことに従うのである。

ここからどういう問題が起きるか。
①を主張する主治医のもとでは、患者は①を言う。
②を主張する主治医のもとでは、患者は②を言う。
言い換えると、主治医は反対意見に直面する機会が少ないのである。生の声として、反対意見を聞く機会が少ないのである。
患者はみんな「先生のおっしゃる通りです」という。
(批判するとしたら、患者が死んだとき、その遺族が批判するくらいである。)
「先生」は批判には慣れていない。
「先生」にはいつも一定数の支持者がいる。
だから「先生」は自説を変えることなく、絶対的に正しいと主張することができる。
その結果、実際的な「対話」(社会的調整)というものができにくくなる。

これは、いまの日本の新型コロナウィルスのいちばんの問題点だと思う。

私はあるひとと「対話」した。そのひとが「医師」とは知らず、批判した。すると、とたんに「患者さん」から「〇〇先生は立派な医者です。先生の意見が正しいです」という批判が返ってきた。もちろんそれはそれでいいことなのだが(医師が信頼されているのはいいことだが)、患者が医師を意見を支持しているからといって、その意見が絶対的であるという「証明」にはならない、ということを考えてみなければならない。

私は私の意見が正しいというのではない。
自分の考えを支持してくれるひとがまわりにいるからというだけで、自分の考えが絶対的だと考えるのは危険だといいたい。
特に、まだ不明なことが多いものについては、常にいろいろな意見の「妥当性」を考えてみないといけないのではないか。

いま書いた医療の問題を、安倍に結びつけて考え直すと、ほかのことも見えてくる。
安倍の周囲の人間(お友達とお友達未満を含む)は、安倍の言う通りにする。そうすると自分に「利益」が帰ってくるからである。
患者が主治医を批判しないのと同じである。
批判すれば、自分の「利益」の保障がないと考えるからである。
「先生」と呼ばれる人間は、たいてい、そういう「利害関係」を生きている。「先生」のまわりには、「先生」を批判するひとはいない。
学校も似ているだろう。
「先生」を批判する生徒は少ない。出題された問題を批判することはできない。問題にあわせた「答え」以外は許されない。これは、ある意味では仕方がないことだが、それがつづけられると、「先生の期待する答え」にあわせて思考し始めるということが起きる。教育のいちばんの仕事は「批判力」(自分で考える)を育てることだが、逆に「順応力」(他人にあわせる)だけを育てることになってしまう。
日本では「先生」ということばが、あまりにも振って歩きすぎているかもしれない。
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まだ五輪? もう五輪?

2020-03-29 10:29:24 | 自民党憲法改正草案を読む
まだ五輪? もう五輪?
       自民党憲法改正草案を読む/番外328(情報の読み方)

 2020年03月29日の読売新聞(西部版・14版)の1面(社会面)。

五輪 来年7月開幕案/組織委 23日開会式 有力

 という3段見出し。
 ご丁寧に、「裏付け」として、こんなことを書いている。

近年の大会は金曜日開幕となっているケースが多く、今年7月24日開幕の当初計画に近い金曜日として、来年7月23日の開会式が有力となっている。

 まだ五輪のことを言っているのか、もう五輪のことを言っているのか、どう言っていいかわからないが、いま考えるべきことは五輪ではないだろう。
 だいたい「近年の大会は金曜日開幕となっているケースが多く」というよりも、「延期」の「1年以内」を適用すれば、(「1年以内」を最大限に伸ばせば)、「7月23日」になるというだけのことだ。
 それは、つまり、組織委では、今回のコロナウィルス問題が、どんなにがんばってみても「1年」はかかるとみていることだ。
 参加する選手の準備もあれば、そのほかのもろもろの準備もある。ほかの日にちを想定して、いくつものパターンを設定できない。だから「1年延期」の意味は、「来年7月23日開幕」が期限と言ってみただけのことである。
 こんなことは「組織委」に言われなくても、だれでも想像できることである。

 そうであるなら。
 なぜ、いま、このニュースなのかということを考えないといけない。
 この日のニュースは、

千葉の施設 58人感染/東京63人 全国新たに200人超

 であり、安倍が記者会見したということだ。安倍の記者会見には、何も新しいものはない。「経済対策は過去最大に」と言っているが、具体的には数字を示していない。リーマンショック時の数字を引き合いにだし、それを「上回る」と言っているだけだ。どれだけ上回るのか語っていない。
 会見のポイントとして、読売新聞は、

緊急事態宣言を出す状況にはないが、ぎりぎり持ちこたえる瀬戸際の状況

 と要約している。
 緊急事態宣言をしたくてたまらないのだろう。緊急事態宣言をしてしまえば、国会も記者会見も関係ない。経済対策がいくらか、休校問題をどうするか、マスクをどうするか、すべては安倍が思うがまま。批判は受け付けない。安倍がしたいことからやっていくだけ。その安倍がいちばんしたいことは、オリンピックで「ぼくちゃんが首相、いちばんえらいんだ」と世界にアピールすること。
 そういう視点から見ていくと、読売新聞が

五輪 来年7月開幕案

 と大々的に書いているのは、ある意味ではおもしろい。
 安倍が考えていることが、実によく分かる。五輪しか、考えていない。新型コロナで苦しむひとが何人出てくるか、何人死ぬか、いっさい気にしていない。気にしているのは、もし、感染者が増えたら、感染がおさまらなかったら、五輪が開けなくなるのではないか、そのことだけだ。
 少し考えてみればいい。組織委の森は「来週中には何らかの結論を出したい」と語ったようだが、その組織委の提案を審議し、判断するだけの材料をIOCが持っているわけがない。新型コロナウィルスは拡大しつづけている。ピークを過ぎて終息が予測できる段階にはなっていない。そんな提案を「来週中」にすれば、開催の根拠(新型コロナ感染が終息するという根拠)を求められ、何も答えられないという事態になるだけである。
 そうやって、日本は信頼を失っていくのだ。
 こんなどうでもいいスケジュールを決めるなら、

①感染者が何人になったら東京を都市閉鎖する(あるいは、ある自治体を閉鎖する)
②何人の場合は何週間
③都市閉鎖をしている間も感染者が増え続けるなら、何週間延期する
④閉鎖自治体が何都道府県になったら、全国を封鎖する

 というようなスケジュールだろう。
 そういうことを先に発表すると、「非常事態宣言」の先取りとして批判されることを心配しているのかもしれないが、「発令」の基準を知らされず、「いま発令したくなったから発令する」というのでは困るのだ。きっと「うちの会社ではまだ準備が整っていない」と安倍を支える企業が言えば発令を延ばし、準備が整えばすぐに発令するというのが安倍のやり方だからである。
 国民を考えない。自分の利益だけを考える。そういう人間が、「非常事態宣言」をだしたくてうずうずしている。そして、その「うずうず」を隠すために「五輪日程」などを全面に出している。日本はまだまだ危険な状態ではない。五輪について考えることができるくらい安全なのだとPRしている。











#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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