詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(17)

2020-03-31 09:59:35 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
祭典

あなたがあなたであるよりも
時が時であるよりも
よりいつそうあなたになり ぼくになり 時になつたときに

 単なる「祭典」というよりも「祝祭」という感じだ。堅苦しさはない。
 「なる」という動詞の力だ。いまとは違うものになる。そのよろこび。それもただ違うものになるのではなく、そこには「融合」がある。「あなた」と「ぼく」と「時」が融合し、動いていく。
 そのとき「新世界」が生まれる。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ五輪日程? なぜ「闘病中」?

2020-03-31 09:16:40 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜ五輪日程? なぜ「闘病中」?
       自民党憲法改正草案を読む/番外331(情報の読み方)

 きのうの小池会見から予想はついていたことだが。
 2020年03月31日の読売新聞(西部版・14版)の一面トップ。

五輪 来年7月23日開幕/パラ8月4日 IOC承認

 なぜ、いま五輪日程なのか、さっぱりわからない。終息のめどは立っているのか。
 二面の見出しと、記事の一部。

五輪 感染にらみ決断

「感染者は日に日に増えており、緊急事態宣言が出たら、五輪どころではなくなる。その前に決める必要があった」。政府関係者は延期発表から6日後の日程決定について、こう説明した。

 「政府関係者」がだれのことかわからないが、政府がコロナ対策よりも五輪を優先していることがわかる。
 しかし、この「政府関係者」のことばをそのままつかって言えば、「感染者は日に日に増えており、緊急事態宣言が出たら、五輪どころではなくなる」のである。それは「日程」が「来年7月23日開幕」と決まったところで同じだろう。五輪の準備をするよりも、コロナ感染を乗り切ることが優先するだろう。意味のない「日程決定」になってしまう。緊急事態宣言をしたらコロナウィルスが撤退してくれるわけではないのだから。
 これは逆なのだ。
 安倍は一刻も早く「非常事態宣言」を出したいのだ。それも、たぶんコロナ対策というよりは、「ぼくちゃんが首相、いちばん偉い」というために。「非常事態宣言」さえ出せば、何でも思いのまま。森友学園の再調査はしない。桜を見る会の追及はさせない。つれあいの花見を批判させない。そんなことを、しているときではない、と批判を弾圧する。
 でも、「非常事態宣言」を出してしまったら、「五輪をいつにするか」ということは言いにくくなる。「五輪どころではない」というのは五輪が開催できるかどうかということではなく、「首相の任期中に五輪を開きたい」と言いにくくなる。そんなことを言えば、また批判される。もちろん「非常事態宣言」を適用して批判封じはできるが、そういう面倒なことをせずに「五輪をいつにするか先に決めておけばいい」。それだけの論理で動いている。安倍の「ぼくちゃんがいちばん偉い」を満足させるためだけに政治が動いている。
 11面(国際面)には、

米死者10万人超えも 感染症権威

 という記事が載っている。この予測には「いつまで」ということが書いていない。来年の「7月23日」までなのかどうかわからない。
 安倍一派には、世界がどんな状況なのか、まったく理解できていないのだろう。気になるのは、安倍が五輪の会場で「ぼくちゃんが首相(だからいちばん偉い)」と言えるかどうかだけなのだ。
 この野望のために、国民の命が危険にさらされる。
 日程が再設定された以上、これからも新型コロナ感染者の患者数は抑制した形で発表され続けるだろう。「被害は深刻ではない」が装われるのだ。そして、「新型コロナはやがておさまる。成り行きに任せておこう。それよりも、さあ、五輪の準備をしよう」と五輪に向けて働かされるのだ。
 このコロナ隠し(目そらし)は、志村けんの死亡記事からもうかがえる。

志村けんさん死去/ドリフ 新型コロナ闘病中/70歳

 どこにも「間違い」はない。そのとおりのことを書いているが、私は違和感を覚えるのだ。なぜ「新型コロナ感染」ではないのか。なぜ「感染」ということばを避けたのか。「闘病中」と表現してしまうと、なんだか志村個人の問題のように見えてしまう。たとえば「がん闘病中」だと、病気が(死因が)個人の「肉体」に限定される。でも「感染」だと、それが他人に広がっていく「恐怖心」のようなものがある。死んだ人なのだから、そういう「恐怖心」を引き起こすようなことを書いてはいけないという配慮なのかもしれないが、奇妙に感じた。死因も「新型肺炎」とは書かずに「肺炎」とだけ書いてある。
 一方、35面(社会面)には、

遺体対面できず/兄沈痛

 という記事がある。「感染」の危険があるから、遺族でさえ遺体に対面できない。それが新型コロナが原因で死んでいった人と家族の「現実」なのである。「遺体は病院から直接火葬場に送られる予定」ともある。「闘病中」では、こういう悲劇が伝わりにくい。
 こういう「表現」のなかにも、私は安倍の「圧力」を感じる。新型コロナは危険だ、周囲の人への悲劇を招く、という印象が「伝わりにくい」にようにことばが選ばれている。
 安倍の一連の政策について私は何度も「沈黙強要作戦」と批判してきたが、ここにもその「影響」を見ることができる。すべての人間が「沈黙」させられる。志村けんは、安倍のコロナ対策、初動がきちんとしていたら、もしかしたら感染することはなかったかもしれない。政府の「後手後手」の対策が招いた悲劇かもしれない。そういうことが「コロナ闘病中」ということばによって隠されるのである。「闘病」は基本的に個人でおこなうことだが、「感染」は個人の問題ではない。別の人間がいて「感染」が起きるのである。言い直すと、それは「防止」ができるはずのものなのだ。政府が(安倍が)どんな「防止策」をとってきたか。それを追及する意識があるなら、絶対に「新型コロナ感染」という表現にすべきなのだ。「闘病中」では政府の失政が明確にならない。







#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする